樺 (橘型駆逐艦) (original) (raw)

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基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者 大日本帝国海軍
級名 橘型駆逐艦
艦歴
計画 1944年度(昭和19年度)計画
起工 1944年10月15日
進水 1945年2月27日
竣工 1945年5月29日
除籍 1945年10月5日
その後 1947年8月4日、米国へ引き渡され、解体
要目(計画値)
基準排水量 1,262 トン
公試排水量 1,530 トン
全長 100.00 m
最大幅 9.35 m
吃水 3.30 m
主缶 ロ号艦本式ボイラー×2基
主機 艦本式タービン×2基
出力 19,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 27.8 ノット
燃料 重油 370 t
航続距離 3,500 海里/18ノット
乗員 211名
兵装 八九式 40口径12センチ単装高角砲×1基八九式 40口径12センチ連装高角砲×1基九六式 25ミリ三連装機銃×4基九六式 25ミリ単装機銃×12基61センチ四連装 九二式魚雷発射管×1基(予備魚雷なし)九四式 爆雷投射機×2基爆雷投下軌条×2条二式爆雷×36発
レーダー 22号電探×1基
ソナー 四式水中聴音機×1基三式探信儀一型×1基
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(かば)は日本海軍駆逐艦。仮称5500号艦、橘型(改松型)駆逐艦として藤永田造船所で建造された。

艦名は植物のによる。特にシラカバの別称とされる。艦名としては樺型駆逐艦の1番艦「」に続いて2代目。

竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将)に編入。瀬戸内海で訓練、待機の最中に触雷して損傷する[1]

7月15日に乗員が6月22日の爆撃で損傷した「」から移乗し、「楡」に代わって第三十一戦隊鶴岡信道少将)第五十二駆逐隊に編入される[2]

7月24日には第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機と交戦し、小型爆弾1発が命中して魚雷発射管が使用不能となり、35名の戦死者を出した[3]。そのままで終戦を迎えた。

10月5日に除籍。12月1日、特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和22年)8月4日佐世保米国へ引渡された。そのまま国内で売却され、同年10月8日から翌年3月1日にかけて三井造船玉野造船所で解体された[4]

※『艦長たちの軍艦史』372頁による。

  1. 野尻雅一 大尉 1945年3月1日-

  2. 野尻雅一 大尉 1945年5月29日-

  3. ^ #S1906第11水戦日誌 (8), p.12

  4. ^ #S1906第11水戦日誌 (8), p.31

  5. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 645.

  6. ^ 田村 2005, p. 149.

松型駆逐艦
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