武功夜話 (original) (raw)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。 (2008年8月)

武功夜話』(ぶこうやわ)は、戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国土豪・前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。1959年(昭和34年)に発見され、1987年(昭和62年)、活字化された[1]。成立年代や史料的価値には問題が指摘されている。

前野家屋敷跡(武功夜話発祥地)

『武功夜話』は、「前野家文書」と呼ばれる古文書群のうち、最も代表的な記録である[2]。3巻本、21巻本などいくつかの異本が存在している。前野家文書は、愛知県江南市の旧家(旧庄屋)吉田家に、先祖であると称する前野氏の歴史をまとめた書物として伝わっているもので、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で蔵中に入水し、中が露見して見つかったと称する[注 1]。縁者の前野長康(本名は坪内光景)が豊臣秀次謀反によって切腹したこと、長康や編者の千代ら前野一族がキリシタンだったことから、人目につかないよう伝えられたという。

前野家の縁者で豊臣秀吉に仕えて大名にのぼった前野長康(坪内光景)や、前野家と関係の深かったという蜂須賀氏生駒氏などののちの大名家、そして生駒屋敷に出入りしていたという織田信長や豊臣秀吉の青年時代、桶狭間の戦い墨俣一夜城の築城といった織田氏に関連する重要な事件について、類書には見えない情報を伝える。

1987年に吉田蒼生雄によって「武功夜話21巻本」などが『武功夜話』として新人物往来社から刊行され、戦国史を覆す資料として注目されるようになった。この際、『永禄洲俣記』などの前野家文書も活字化されている。現在、一般に『武功夜話』といえば前野家文書のうち刊行された史料群を指すことが多い。

なお、前野家文書は非公開である。享保期に尾張藩内藤東甫が『張州雑志』執筆に関して吉田家に滞留1か月して古文書を見たという説があるが、内藤東甫は享保8年(1723年)に誕生しており、享保年間に彼が執筆することは不可能である。『張州雑志』執筆は9代藩主徳川宗睦の命であり、『前野家文書』の記述と矛盾する。東甫が丹羽郡葉栗郡の項を執筆する前に死去したため、結局、世に出なかったと記されるが、もし完成したとしても藩蔵のため、明治期まで非公開であったとされる[3]。上述の書籍化時にも一般には公開されていない。ただし、2000年には一部の学者により原本の成立時期などの調査が行われたほか、2005年の家系研究協議会記念大会時には、膨大な量の原本文書コピーや一部写真が研究家に公表されたが、原本が公表されることはなかった。吉田家は、東京大学史料編纂所の調査依頼に一度は応ずるが、結局約束を反故にしてその場に現れず、内容に関しても現代において作られたと考えられるものが多数含まれているにもかかわらず、今に至っても原本は公表されていない。

ただし、愛知県名古屋市古書店により、原本を撮影したとする影印本が順次刊行されている[4]

現在明らかにされている原本『武功夜話』の系統は表題が若干異なるが、巻数の違うものが多種存在する。代表的なものは以下の通りである[5][6]

  1. 先祖により記録された古本(塊となり判読不可のものもある)。
  2. 子孫による数々の写本。これが原本と呼ばれている。いずれも写本であり、書写者不明。
    1. 『3巻本武功夜話』…吉田雄翟[注 2]著。江戸時代前期。翻刻済み[注 3]
    2. 『5巻本武功夜話』…3巻本の増補と考えられる。
    3. 『21巻本武功夜話』…3巻本及び5巻本のさらなる増補。一部は江戸中期に吉田雄武[注 4]によって再写(改訂?)されている。
  3. 刊行書籍『武功夜話』…吉田蒼生雄書き起こし。21巻本の写本を活字化[注 5]

刊行書籍は「21巻本」を書き下したものであり、これが後述の議論の元となっている。なお、吉田雄翟や千代によって著された原本は状態の悪化や散逸により残っておらず、写本も書写時期は明らかではない。2000年の原本調査では(調査は一部のみであるが)「江戸時代末期」とされており、それ以前の写本や明治以降に加筆されたものはないという[7][注 6]

この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。 (2009年7月)
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2009年7月)

三鬼清一郎が『永禄州俣記』に「偽文書」が含まれているとして上記の3の刊行書籍を典拠に論文を発表し、その後を受けて偽書・偽文書説が巻き起こることとなる[注 7]

研究家間では前野家文書の史料性について、数々の疑問が提示されている。以前から服部英雄らは、記述の史実との相違や合成地名が記述されている問題など疑問点を取り上げていた。

・「武功夜話」が発見されたとする土蔵であるが、旧庄屋ということで吉田家には土蔵がありそうであるが、近所在住の人(現在は隣町の一宮市在住)の話で、そもそも吉田家には当時「土蔵」というものが無かった、という証言がある。[_要出典_]これが事実であるならば、なぜ「存在しない土蔵から見つかったという出自から作る必要があったか」疑問が生ずる。

  1. ^ 「『380年ぶりに蔵の中から発見』というのは宣伝文句である」という指摘もある。「偽書『武功夜話』の研究」内の関係年表では「裏付けがとれない」と記している。

  2. ^ 「かつかね」。かねは崔の上部が山ではなく羽。

  3. ^ 『「武功夜話」研究と三巻本翻刻 』 (松浦武・松浦由起著)に全文が記載されている。

  4. ^ 吉田雄翟の曾孫。通称は茂平次、または助七郎。

  5. ^ 当初は親戚のみに配る予定であったが、新人物往来社の目に留まり出版することとなった。そのほか、『先祖(等)武功夜話拾遺』、墨俣城千種の詳細な資料、『永禄洲俣記』、前野氏の家系図、『尾張国丹波郡稲木庄前野村前野氏系図』等が収録されている。

  6. ^ 著者の藤原氏はこの結論に疑義を示している。

  7. ^ 当初吉田家側が原本を調査させなかったため、未調査のまま偽書と断定する人物も現れた。[_要出典_]

  8. ^ 2008年3月に東京大学教授の榎原雅治[11]が「天正十四年の大洪水」に関して何も文献に記述が無く、それよりも南北朝時代の北畠顕家の書簡、飛鳥井雅有の紀行文『春の深山路』、豊臣秀吉・小早川秀包の「小牧・長久手の役」の時の書簡などで、中世の木曾川(現在の木曾川から境川)よりも東に「足近(あじか)川」・「及(をよび)川」などの大河があったことを立証している。

  9. ^ 八百津の地名は大宝2年(702年)に錦織中納言久道によりつけられたと伝わる。「八百津町史」

  10. ^ かなり年代が離れているが、「岡田鴨里蜂須賀家記』1878年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780518。 」には墨俣築城の記載あり。

  11. ^ 各種史書のみか『武功夜話』にも明記してある。

  12. ^ これに対し、「隊」は1705年の『四戦紀聞』において使用されている、という反論もある。しかしこの「隊」は原本ではなく1846年に出版された版に記されているもので、証拠とするには弱い。

  13. ^ 「坪内氏系図」では前野長康の母を生駒右近妹とするなど疑問点もあり、勝定の娘を妻とした婿の長康を嫡男として記したとも考えられる。ちなみに勝定と長康は12歳しか年の差がなく、実の親子とは考えにくい。

  14. ^ 18世紀後半に前野吉田家から坪内家の菩提寺である各務原市の少林寺へ、円圭和尚が住職として入っており、親密な関係があったと推測される。

  15. ^ 飯田汲事「天正大地震誌」では、かつての木曽三川の流路として建設省中部地方建設局監修「木曽三川その治水と利水」の地図を引用している。これによる木曽川の流れは、勝村公『「武功夜話」異聞』112pで主張する「前渡ー円城寺ー徳田』ラインとは違っている。

  16. ^ 調査団は書誌学者・織豊期担当・近世史担当者などで構成された。

  17. ^ ただし、三鬼は原本調査の際「時間の関係もあって全体を正確にはつかめなかった」とし、「将来の研究により『武功夜話』の成立時期や疑問点が明らかにされそこで解決されるであろう」として、自身は成立時期の特定を避けている。

  18. ^ 『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』中、阿波蜂須賀家の項にも墨俣一夜城の記述はない。また江戸中期に編纂された「美濃明細記」、編者不明で江戸時代(年代不詳)に編纂された「美濃国諸旧記」、江戸末期に編纂され明治9年に発刊された「蜂須賀家記」、江戸中期に編纂され幕末に出版された「四戦紀聞」などは、戦国期の事象を検証するには疑問符が付く

  19. ^ 【出版】弘化丙午(一八四八年) 江戸書肆 日本橋通二丁目 山城屋佐兵衛【編輯】寳永己酉(一七〇八年)根岸直利 編輯 木村高敦 校正

  20. ^ なお『四戦紀聞』には下記の通りの記述があり、「隊」の記述はみられるが、「砲」、「炮」の併記が見られ、「先隊」、「十餘隊」、「隊長」、「卒」の記述はあるが、「鉄砲隊」、「蜂須賀隊」などの記述は見られない。

  21. 姉川役
    「奥平美作貞能等ハ酒井ガ相備へ幷ビニ水野惣兵衛忠重モ先隊ニ列ス」
    「淺井ガ兵ノ大寄山ヨリ数十騎乗リ上スヲ見テ馳セ向ヒ挑ミ戦フテ首級ヲ得タリ斯テ先隊酒井水野鳥銃ヲ打懸テ戦ヒヲ始ム」
    「今拂暁淺井長政ガ勢野村ヘ移リケレバ早火炮ヲ飛セ軍ヲ始メラル」
    「流石の英将ノ池田木下柴田明智ヲ始トシテ十餘隊ノ信長勢悉ク散靡立テ頽レ走ル此時」

  22. 三方原役
    「信玄旗本脇後ノ備ヘ聊働ズメ先手二ノテ総テ十四隊ヲ以テ勝利ヲ得タリ」

  23. 長篠役
    「信長則チ金森五郎八長近ヲ援将トシテ其兵四千火砲五百挺且軍監トシテ武藤次久佐藤六左衛門青山新七郎加藤市左衛門ヲ副ラル且」
    「味方ハ城ニ籠ルガ如ク柵中ヲ出サズ諸備ヨリ火炮ノ卒三千人を撰ビ出シ監軍ハ丹羽勘助氏次徳山五兵衛則秀ト定メ流石譽アル佐々内蔵助成政前田又左衛門利家福富平左衛門定次塙九郎左衛門直政野々村三十郎幸勝砲卒ヲ掌リ柵ノ外ニ賦シ敵蒐ルモ其間一町迄ハ火砲ヲ放ツ¬ナカレ間近ク引付ケ千挺宛立替々々發スベシ」
    「先鋒ノ将大久保七郎右衛門忠世ニハ勇士の鉄砲ニ巧ナル者三百人ヲ勝テ柴田七九郎康忠森川金右衛門氏俊江原孫三郎を隊長トシテ附属セラル忠世是ヲ先ニ進メ」
    「佐々内蔵助成政信長ニ告テ曰敵内藤ガ旗本浮立テ見ヘタリ今一軍先隊へ加ヘ備ヲ乱シテ撃シメン」

  24. ^ これは文献などの全く根拠のない、推測で記述されている

  25. ^ 『武功夜咄』も『武功夜話』の作者、吉田雄翟の書いた前野氏の記録である。

  26. ^岡田鴨里蜂須賀家記』1878年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780518/11。 」

  27. ^ a b c この事実は『武功夜話』しか典拠が記されていない。

  28. ^ 美濃国松倉城主を坪内忠勝・養子為定と記述しているが、『坪内文書』[24]によれば、永禄八年十一月三日の「織田信長知行充行状寫」によると、坪内宗兵衛(某)・玄蕃頭(勝定)・喜太郎(利定)の三名連名となっている。坪内忠勝(前野又五郎)の名は見えない。

  29. ^ 「武功夜話」によると永禄七年の犬山織田家滅亡までに家臣の坪内忠勝は隠居し、跡を養子の坪内宗兵衛為定に譲っており、その後の美濃攻略までの短期間に坪内家の当主は勝定、利定と代わっている。

  30. ^ なお勝村らが三鬼の報告を読んでいないという意味ではない。

  31. ^ 藤本正行は「他の史料にない記事があった事で『武功夜話』を高く評価するのはいかがなものか」と批判を述べている[5]

  32. ^ 原田 2020, pp. 52–53.

  33. ^ 原田 2020, p. 52.

  34. ^ 『武功夜話のすべて』

  35. ^ 影印 武功夜話マイタウン(2018年9月6日閲覧)。

  36. ^ a b c d 偽書『武功夜話』の研究

  37. ^ a b 家伝史料『武功夜話』の研究

  38. ^ 「偽書『武功夜話』の研究」pp.163-168。

  39. ^ 「豊臣秀吉182合戦総覧」『別冊歴史読本』86年12月号pp.44-47

  40. ^ 勝村公「偽書『武功夜話』と贋系図『前野氏系図の検証』」(『歴史民俗学』15号、1999年)

  41. ^ 勝村公『「武功夜話」異聞』

  42. ^ 榎原雅治『中世の東海道をゆく』(中央公論新社、2008年)

  43. ^ a b 服部英雄『地名の歴史学』(角川書店、2000年) pp. 227-228.

  44. ^ 早瀬晴夫「前野長康と坪内・前野系図」『在野史論・第八集』

  45. ^ a b c 勝村公、『「武功夜話」異聞』。

  46. ^ 「藤吉郎一夜城を築く」『歴史への招待』13巻、pp.46-47。

  47. ^ IV、p.191

  48. ^ 『愛知県史 資料編16 尾西・尾北』pp.679-703

  49. ^ 『角川日本地名辞典 愛知県』pp.1232-1233

  50. ^ 寒川旭『秀吉を襲った大地震―地震考古学で戦国史を読む-』(平凡社、2010年、p.47)

  51. ^ 三鬼清一郎『武功夜話』の成立時期をめぐって」(『織豊期研究』第2号、2000年)

  52. ^ 牛田義文「墨俣一夜城と『武功夜話』偽書説―いじめ問題の終息を願って―」(『歴史研究』第502号、2003年)

  53. ^ 『稿本 墨俣一夜城―秀吉出世城の虚実と蜂須賀小六―』

  54. ^ 牛田義文『史伝 蜂須賀小六正勝』(清文堂、 2008年)

  55. ^ 『岐阜県史・古代・中世4』pp.138-153

  56. ^ 『歴史読本』(2009年6月号、pp.210-213)。

  57. ^ 藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007年)

  58. ^ 松浦由起 2004, p. 31.