秋田雨雀 (original) (raw)

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秋田 雨雀
誕生 秋田 徳三1883年1月30日青森県南津軽郡黒石町(現黒石市
死没 (1962-05-13) 1962年5月13日(79歳没)東京都板橋区中丸町
墓地 本納寺豊島区雑司が谷
職業 劇作家詩人童話作家小説家社会運動家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 早稲田大学英文科
活動期間 1904年 - 1962年
デビュー作 『黎明』(1904年)
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秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年明治16年〉1月30日 - 1962年昭和37年〉5月12日)は、日本劇作家詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)[1]

前列左から宮本百合子湯浅芳子。右端は秋田。モスクワにて撮影。

産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行[2]

1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める[2]。1909年小山内薫の自由劇場に参加[2]。1911年「自由劇場」の第四回公演で、自身の戯曲「第一の暁」が初めて上演された。

1913年、島村抱月主宰の劇団・芸術座の創設に参加[2]。翌1914年に脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成[2]。以後、芸術座、先駆座などに参加[2]先駆座は相馬黒光の実家につくった劇場で、1923年に上演[3])。その一方で、小説、劇作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍した。

1915年、来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んでエスペラントを学び、彼と島村ら文化人との親交を取り持った。1921年には小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』を出版。1931年日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加した。

1921年、日本社会主義同盟に加わり、1924年フェビアン協会を設立。1927年、ロシア革命の十周年祭に国賓として招かれてソ連を訪問[3]。1928年、帰国後、国際文化研究所を創設して所長。1929年、プロレタリア科学研究所として引き継き所長。1940年検挙される[2]

1934年新協劇団結成に参画し事務長となり、雑誌「テアトロ」を創刊[2]

1947年第1回参議院議員通常選挙日本社会党公認で青森地方区から立候補したが落選している。1948年東京都豊島区に開校した舞台芸術学院の院長に就任[4]

1949年共産党に入党。1950年には日本児童文学者協会第2代会長に就任。1960年、黒石市名誉市民[2]。1962年5月12日、結核と老衰のため東京都板橋区中丸町の自宅で死去[5]。墓所は東京都豊島区雑司が谷本納寺

娘はロシア文学者上田進(演劇評論家尾崎宏次の実兄)に嫁した。

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 16頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 日外アソシエーツ現代人物情報より
  3. ^ a b https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/people/p_009.html
  4. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、367頁。ISBN 4-00-022512-X
  5. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)6頁

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