藤原忠通 (original) (raw)
凡例藤原 忠通 | |
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藤原忠通像(『天子摂関御影』より) | |
時代 | 平安時代後期 - 末期 |
生誕 | 永長2年閏1月29日(1097年3月15日) |
死没 | 長寛2年2月19日(1164年3月13日)[1] |
改名 | 忠通→円観(法名) |
別名 | 法性寺殿、法性寺入道前関白太政大臣(小倉百人一首) |
官位 | 従一位、摂政、関白、太政大臣 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原忠実、母:源師子(源顕房の娘) |
兄弟 | 泰子、忠通、頼長、女子、御匣殿 |
妻 | 正室:**藤原宗子**(藤原宗通の娘)源信子(源国信の娘)、源俊子(源国信の娘)源俊子(源顕俊の娘)、加賀局(藤原仲光の娘)、藤原基信の娘、五条(源盛経の娘) |
子 | 恵信、覚忠、聖子、**近衛基実**、松殿基房、育子、九条兼実、尊忠、道円、信円、兼房、慈円、最忠養子:_呈子_ |
特記事項 | 覚法法親王は異父兄にあたる。 |
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藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣[注釈 1]。
生涯
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康和5年(1103年)、大江匡房の名付により「忠通」と称する。嘉承2年(1107年)、元服し白河法皇の猶子となる[注釈 2]。永久2年(1114年)、白河法皇の意向により法皇の養女・藤原璋子(閑院流・藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、璋子の素行に噂があったこともあり、父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。保安2年(1121年)、法皇の勅勘を被り関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任(保安元年の政変)。その後も崇徳・近衛・後白河の3代に渡って摂政・関白を務める。摂関歴37年は高祖父・頼通の50年に次ぐ。また大治4年(1129年)、正妻腹の娘・聖子を崇徳天皇の後宮に女御として入内させ[注釈 3]、翌5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日、女房・兵衛佐局が崇徳帝の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという[2]。保元の乱で崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。
一般には父・忠実が弟の頼長を寵愛する余り、摂政・関白の座を弟に譲るように圧力をかけられたように言われているが、実際には長い間摂関家を継ぐべき男子に恵まれず[注釈 4]、天治2年(1125年)に23歳年下の頼長を一度は養子に迎えている。だが、40歳を過ぎてから四男基実を初めとして次々と男子に恵まれるようになった忠通が実子に摂関家を相続させるため、頼長との縁組を破棄した[注釈 5]。
忠通と忠実・頼長は近衛天皇の後宮政策においても対立し、久安6年(1150年)正月に頼長が養女・多子を入内させ、皇后に冊立させたのに対し、忠通もその3ヵ月後にやはり養女・呈子を入内させて、中宮に冊立させた。この呈子立后にとうとう忠実・頼長は業を煮やし、忠通は父から義絶されて頼長に氏長者職を譲らされるが、多子と天皇の接触を妨害する事などで対抗する。
仁平3年(1153年)9月、近衛天皇が一時失明の危機に陥るほどの重病となった際、忠通は天皇から譲位の意思を告げられ(『台記』仁平3年9月23日条)、これを受けた忠通は鳥羽法皇に雅仁親王(後の後白河天皇)の息童の孫王(後の守仁親王・二条天皇)への譲位を奏請するが、法皇からは幼主を擁立して政を摂り威権を専らにしようとする謀略とみなされ[注釈 6]、忠実からも「関白狂へるか。父の雅仁親王が黙っているはずがない」などと非難される。
久寿2年(1155年)の後白河天皇の践祚後、忠実・頼長が近衛天皇呪詛の嫌疑で失脚した事により復権。それら一連の対立が保元の乱の原因の一つとなった。乱後、氏長者の地位は回復されたが、その際に前の氏長者である頼長が罪人でかつ死亡していることを理由として、宣旨によって任命が行われ、藤原氏による自律性を否認された。更に忠実・頼長が所有していた摂関家伝来の荘園及び個人の荘園が全て没官領として剥奪されることになったが、忠通が忠実に摂関家伝来のものと忠実個人の荘園「宇治殿領」を自分に譲与するように迫り、漸く忠通の所領として認められて没収を回避した[注釈 7]。しかし頼長領の没官は免れられなかった[注釈 8]。
この影響から、白河院政以来の京に上皇が存在しない状況にも拘わらず摂関政治の再興とはならず、政治は信西を筆頭とする後白河側近が主導した。後白河から二条天皇への譲位は、関白忠通を差し置いて信西と美福門院の二人の出家者による「仏と仏の評定」で決定されている。
保元3年(1158年)の賀茂祭の際に後白河寵臣の藤原信頼との対立を起こしたことから後白河より閉門に処せられて事実上失脚、同年に関白職を嫡男・基実に譲った。忠通は信頼の取り込みを図り、信頼の妹を基実の室に迎えている。しかし、平治の乱では信頼を見限って反信頼陣営に父子で与している。乱で信西と信頼が討たれ、続いて実権を握った藤原経宗・藤原惟方も配流され、朝廷には既に退位した後白河上皇と二条天皇の対立と政務担当者のいない状態だけが残された。そんな中で「大殿」と称された忠通が一時的に復権し[8]、院・天皇・大殿・関白らの協議体制となり、1161年に天皇が院近臣6名を解官した後は天皇と大殿の合意で政治決定がなされるようになった。その後、応保2年(1162年)に法性寺別業で出家して円観と号した。忠通は晩年身近に仕えていた女房の五条(家司・源盛経の娘)を寵愛していたが、長寛元年(1163年)末か翌年の年初頃、五条が兄弟の源経光と密通、これを目撃した忠通は直ちに経光を追い出した(『明月記』)ものの、精神的な衝撃もありまもなく薨去したという[9]。享年68。
人物
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- 忠通が氏長者となった時は既に摂関政治は形骸化し、さらに父や弟との対立を抱え、男子をもうけたのも遅い方であったが、そのような悪い状況の中でも本来対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の院政勢力と巧みに結びつき、保元の乱に続く、平治の乱でも実質的な権力者・信西とは対照的に生き延び、彼の直系子孫のみが五摂家として原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占する事となった。もっとも、基実の後継者として藤原信頼の妹が生んだ近衛基通ではなく、娘・皇嘉門院(聖子)の猶子となっていた庶子(六男)の兼実を後継者にすることを意図したものの、基実の急死による挫折(五男・基房の関白任命や平氏一族による基通後見の成立などの事態の急変)がその後の摂関家分裂の原因となったとする説もある[10]。また、兼実ではなく、忠通の日記を相続して後白河天皇(院)の外戚である閑院流から妻を娶っていた基房こそが忠通の意中の後継者であったとする説も出されている[11]。
- 悪辣な陰謀家とする説があるが(角田文衛など)、異論もある(元木泰雄など)。
- 詩歌にも長じ、書法にも一家をなして法性寺様といわれた。漢詩集に『法性寺関白集』、家集に『田多民治集』がある。日記に『法性寺関白記』がある。
- 忠通は両性愛者だったと考えられる[12]。
- 弟の頼長とは不仲であったのに対し、異父兄覚法法親王(父は白河法皇)との関係は良好で、法親王が死去した際には忠通は「弟」として喪に服している(『兵範記』仁平3年12月6日条)[13]。
歌人として
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小倉百人一首76番「法性寺入道前関白太政大臣」
『金葉集』以下の勅撰集に58首入集しているが、その歌について『今鏡』では「柿本人麻呂にも恥じないのではないか、と人々が申し上げている」とあり、また漢詩をつくれば菅原道真より優れているといわれた。これは鳥羽天皇から後白河天皇の4代にわたって関白となり、摂政と太政大臣に各々2度ずつなっている人物であるため、美辞麗句に満ちたものになったと考えられる。
小倉百人一首から。
わたの原 こぎいでてみれば 久方の雲いにまがふ 沖つ白波 (法性寺入道前関白太政大臣)
なお、この直前・直後の歌の詠み人は、いずれも忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)である。
書家としての評価
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- 法性寺流を開いた。肉太で、丸味と力強さを兼ね備えた生々したものである。
- 藤原基衡が毛越寺に伽藍を建立した際、金堂円隆寺(のちに兵火で焼失)に掲げる額の揮毫を忠通に依頼した。しかし、奥州藤原氏は京都からすれば俘囚の係累であり、身分を明かして依頼しても応じられるはずがないため、実際の依頼は仁和寺を通して行われた。のちに真の依頼者を知った忠通は額を取り返そうとしたが失敗に終わった(『吾妻鏡』には「円隆寺の額は関白忠通の筆、色紙形は藤原教長」とある)。
荘園
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官歴
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括弧内は西暦換算(和暦の11月末から12月は西暦では翌年の1月から2月に対応することがある)。
- 嘉承2年(1107年)
- 嘉承3年(1108年)
- 天仁3年(1110年)
- 天永2年(1111年)
- 天永3年(1112年)3月18日 - 正二位に昇叙、権中納言・右近衛中将は元の如し
- 永久3年(1115年)
- 元永2年(1119年)2月6日:左近衛大将を兼任
- 保安2年(1121年)3月5日 - 関白宣下、藤氏長者宣下、内大臣は元の如し、従一位行右大臣源雅実の次座
- 保安3年12月17日(1123年1月)- 従一位に昇叙、左大臣に転任、関白・藤氏長者は元の如し、依然従一位太政大臣源雅実の次座
- 保安4年(1123年)1月28日 - 関白を止め、摂政宣下、左大臣は元の如し、源雅実より上座となる(ただし一座宣下の記録を欠く)
- 大治3年12月17日(1129年1月)- 太政大臣宣下、摂政は元の如し
- 大治4年(1129年)
- 4月10日 - 太政大臣を辞す
- 7月1日 - 摂政を止め、関白宣下
- 永治元年12月7日(1142年1月)- 関白を止め、摂政宣下
- 久安5年(1149年)10月25日 - 太政大臣宣下、摂政は元の如し
- 久安6年(1150年)
- 3月13日 - 太政大臣を辞す
- 9月26日 - 藤氏長者を止む(頼長が藤氏長者となる)
- 12月8日 - 摂政を止め、関白宣下
- 保元元年(1156年)7月11日 - 藤氏長者宣下(同日頼長が敗死したため)
- 保元3年(1158年)8月11日 - 関白を辞す
- 応保2年(1162年)6月8日 - 出家、法名は円観
- 長寛2年(1164年)2月19日 - 薨去、享年68
系譜
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- 父:藤原忠実
- 母:源師子 - 源顕房の娘
- 正室:藤原宗子 - 藤原宗通の娘(1090-1155)
- 妻:源信子 - 源国信の娘、従二位・典侍
- 妻:源俊子[15] - 源国信の娘
- 妻:源俊子 - 源顕俊の娘
- 妻:家女房加賀局 - 藤原仲光の娘(?-1156)
- 妻:藤原基信の娘
- 長男:恵信(覚継、伊豆僧正)(1114-1171)- 興福寺別当 (1157-1164)、1167年伊豆配流
- 妻:家女房五条 - 源盛経の娘
- 七男:尊忠(1150-?)
- 生母不明の子女
関連作品
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映画
テレビドラマ
脚注
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注釈
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[脚注の使い方]
- ^ 読みは「ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)」
- ^ 『殿暦』嘉承2年6月11日条。なお、忠通の子・兼実の日記『玉葉』には、忠通は法皇の実の妹である篤子内親王(堀河天皇中宮・藤原師実養女)の養子になったとする(承安5年7月26日条)が、忠通自身はかつて白河法皇と「父子契」を結んだと語っている(『中右記』大治4年7月17日条)。
- ^ 摂関家からは藤原寛子(頼通の娘)以来約80年ぶりの入内。なお、養女を含めると、堀河天皇中宮・篤子内親王(藤原師実養女、後三条天皇皇女)以来で38年ぶりとなる。
- ^ 正妻の藤原宗子との間には男子が生まれたが夭折。また、妾腹の男子に恵信(永久元年(1113年)生)・覚忠(元永元年(1118年)生)がいたが、いずれも出家している。この2人に対しては、正妻宗子が良い感情を抱いていなかったようであり(『今鏡』)、2人の出家については宗子への配慮または彼女自身の意図に依るものであることを窺わせる。ただし、樋口健太郎は、忠通と宗子の婚姻は元永元年10月26日であることは父・忠実の『殿暦』に記しており、同年生まれの覚忠も含めて、正式な婚姻をしていないのに子供をもうけたことを忠通が憚って出家させたもので、『今鏡』の記述は根拠のない濡れ衣としている[3]。
- ^ 樋口健太郎は元々頼長との縁組は将来男子が誕生した時には忠通の子が成長するまでの中継ぎになる性質のものであったが、実際に基実が誕生すると父・忠実の後ろ盾を背景とした頼長が実子の兼長を養子にするように迫って基実を後継者から排除しようとしたために忠通と頼長は対立したと説き、むしろ縁組時の約束を違えたのは頼長側であったとみている。なお、忠通と兼長の縁組は久安4年(1148年)に忠通が兼長の春日祭使派遣に対する協力拒否を示した(『台記』久安4年11月11日条)ことで事実上破綻した[4]。樋口は別の論文で基実が忠通の姉である藤原泰子(高陽院)の養子になったのは、実際に兼長が摂関家としての後継者として決定され、代わりに基実が彼女の養子として所領を継承して没後の仏事を行う取り決めになったとしている[5]。
- ^ 元木泰雄によると、忠通の奏上を受けた鳥羽法皇が忠実に対して「私とあなたが亡くなった後は皇位を巡り天下が乱れるだろう」と述べたとされる[6]。樋口健太郎によると、この当時(特に忠実による義絶後は)近衛天皇に面会出来るのは関白として内裏内部を仕切る忠通らごく一部の人間に限られ、天皇の健康情報も忠通によって独占されていたため、法皇は近衛天皇の病気を忠通の偽りではないかと疑っていたという[7]。
- ^ 宇治殿領の内、高陽院領50余箇所は泰子の猶子となっていた忠通の四男基実に相続され、近衛家領の一部となった。ただし、前述の樋口説によれば、彼女の所領は元々頼長の圧力で基実が廃嫡された一種の見返りであるため、本来は摂関家の所領とはなるべきものではなかったとされる。
- ^ 頼長領は、父鳥羽の所領をほとんど相続できなかった後白河天皇の後院領に宛がわれ、後の長講堂領の基軸となった。
出典
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- ^ 『藤原忠通』 - コトバンク
- ^ 『今鏡』第八、腹々の御子
- ^ 樋口健太郎 著「藤原忠通と基実―院政期摂関家のアンカー―」、元木泰雄 編『保元・平治の乱と平氏の栄華』清文堂出版〈中世の人物 京・鎌倉の時代編第1巻〉、2014年。 /所収:樋口 2018, pp. 166–167
- ^ 樋口 2018, pp. 168–170, 「藤原忠通と基実―院政期摂関家のアンカー―」.
- ^ 樋口 2018, pp. 188–189, 「摂関家九条流の形成と女院」.
- ^ 元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』〈NHKブックス〉2004年、67頁。
- ^ 樋口 2018, pp. 27–30.
- ^ 佐伯智広「二条親政の成立」『日本史研究』505号、2004年。 /所収:佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年。ISBN 978-4-13-026238-5。
- ^ 角田文衛『平安の春』〈講談社学術文庫〉1999年、226頁。
- ^ 山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』思文閣出版、2010年、222-223・256・263頁頁。
- ^ 樋口 2018, pp. 176–179.
- ^ 高橋秀樹『中世の家と性』p.82
- ^ 海野泰男『今鏡全釈 上』福武書店、1983年、P489-490.
- ^ 大治2年4月9日生、同年11月13日卒。『中右記』
- ^ 『尊卑分脈』『系図纂要』による。『今鏡』では源国子とする。
参考文献
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- 樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02948-3。
表話編歴 藤氏長者 | |
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飛鳥時代 | 藤原鎌足 669 中臣意美麻呂 669-698 |
奈良時代 | 藤原不比等 698-720 藤原房前 720-737 藤原武智麻呂 737 藤原豊成 737-757 藤原仲麻呂 757-764 藤原豊成 764-766 藤原永手 766-771 藤原良継 771-777 藤原魚名 778-782 藤原田麻呂 782-783 藤原是公 783-789 |
平安時代 | 藤原継縄 789-796 藤原内麻呂 796-812 藤原園人 812-818 藤原冬嗣 818-826 藤原緒嗣 826-843 藤原良房 843-872 藤原基経 872-891 藤原良世 891-897 藤原時平 897-909 藤原忠平 909-949 藤原実頼 949-970 藤原伊尹 970-972 藤原頼忠 972-974 藤原兼通 974-977 藤原頼忠 977-986 藤原兼家 986-990 藤原道隆 990-995 藤原道兼 995 藤原道長 995-1017 藤原頼通 1017-1064 藤原教通 1064-1075 藤原師実 1075-1094 藤原師通 1094-1098 藤原忠実 1098-1121 藤原忠通 1121-1150 藤原頼長 1150-1156 藤原忠通 1156-1158 近衛基実 1158-1166 松殿基房 1166-1179 近衛基通 1179-1183 松殿師家 1183-1184 近衛基通 1184-1186 |
鎌倉時代 | 九条兼実 1186-1196 近衛基通 1196-1202 九条良経 1202-1206 近衛家実 1206-1221 九条道家 1221 近衛家実 1221-1228 九条道家 1228-1231 九条教実 1231-1235 九条道家 1235-1237 近衛兼経 1237-1242 二条良実 1242-1246 一条実経 1246-1247 近衛兼経 1247-1252 鷹司兼平 1252-1261 二条良実 1261-1265 一条実経 1265-1267 近衛基平 1267-1268 鷹司基忠 1268-1273 九条忠家 1273-1274 一条家経 1274-1275 鷹司兼平 1275-1287 二条師忠 1287-1289 近衛家基 1289-1291 九条忠教 1291-1293 近衛家基 1293-1296 鷹司兼忠 1296-1299 二条兼基 1299-1305 九条師教 1305-1308 鷹司冬平 1308-1313 近衛家平 1313-1315 鷹司冬平 1315-1316 二条道平 1316-1318 一条内経 1318-1323 九条房実 1323-1324 鷹司冬平 1324-1327 二条道平 1327-1330 近衛経忠 1330 鷹司冬教 1330-1333 |
南北朝時代 | 二条道平 1333-1334 近衛経忠 1334-1337 近衛基嗣 1337-1338 一条経通 1338-1342 九条道教 1342 鷹司師平 1342-1346 二条良基 1346-1358 九条経教 1358-1361 近衛道嗣 1361-1363 二条良基 1363-1367 鷹司冬通 1367-1369 二条師良 1369-1375 九条忠基 1375-1379 二条師嗣 1379-1382 二条良基 1382-1387 近衛兼嗣 1387-1388 二条良基 1388 二条師嗣 1388-1394 |
室町時代 | 一条経嗣 1394-1398 二条師嗣 1398-1399 一条経嗣 1399-1408 近衛忠嗣 1408-1409 二条満基 1409-1410 一条経嗣 1410-1418 九条満家 1418-1424 二条持基 1424-1432 一条兼良 1432 二条持基 1432-1445 近衛房嗣 1445-1447 一条兼良 1447-1453 鷹司房平 1454-1455 二条持通 1455-1458 一条教房 1458-1463 二条持通 1463-1467 一条兼良 1467-1470 二条政嗣 1470-1476 九条政基 1476-1479 近衛政家 1479-1483 鷹司政平 1483-1487 九条政忠 1487-1488 一条冬良 1488-1493 近衛尚通 1493-1497 |
戦国時代 | 二条尚基 1497 一条冬良 1497-1501 九条尚経 1501-1513 近衛尚通 1513-1514 鷹司兼輔 1514-1518 二条尹房 1518-1525 近衛稙家 1525-1533 九条稙通 1533-1534 二条尹房 1534-1536 近衛稙家 1536-1542 鷹司忠冬 1542-1545 一条房通 1545-1548 二条晴良 1548-1553 一条兼冬 1553-1554 近衛前久 1554-1568 |
安土桃山時代 | 二条晴良 1568-1578 九条兼孝 1578-1581 一条内基 1581-1584 二条昭実 1584-1585 |
江戸時代 | 九条兼孝 1600-1604 近衛信尹 1605-1606 鷹司信房 1606-1608 九条忠栄 1608-1612 鷹司信尚 1612-1615 二条昭実 1615-1619 九条忠栄 1619-1623 近衛信尋 1623-1629 一条兼遐 1629-1635 二条康道 1635-1647 九条道房 1647 一条昭良 1647-1651 近衛尚嗣 1651-1653 二条光平 1653-1664 鷹司房輔 1664-1682 一条冬経 1682-1690 近衛基熙 1690-1703 鷹司兼熙 1703-1707 近衛家熙 1707-1711 九条輔実 1711-1722 二条綱平 1722-1726 近衛家久 1726-1736 二条吉忠 1736-1737 一条兼香 1737-1746 一条道香 1746-1757 近衛内前 1757-1778 九条尚実 1778-1787 鷹司輔平 1787-1791 一条輝良 1791-1795 鷹司政煕 1795-1814 一条忠良 1814-1823 鷹司政通 1823-1856 九条尚忠 1856-1862 近衛忠煕 1862-1863 鷹司輔煕 1863 二条斉敬 1864-1867 九条道孝 1868-1871 |
カテゴリ |
表話編歴摂政 | |
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皇親摂政 | 飛鳥時代 厩戸皇子593-622 白鳳時代 (中大兄皇子655-661) (草壁皇子681-686) 大正時代 裕仁親王1921-1926 |
人臣摂政 | 平安時代 藤原良房858-872 藤原基経872-880 藤原忠平930-941 藤原実頼969-970 藤原伊尹970-972 藤原兼家986-990 藤原道隆990-993 藤原道長1016-1017 藤原頼通1017-1019 藤原師実1086-1090 藤原忠実1107-1113 藤原忠通1123-1129 藤原忠通1141-1150 近衛基実1165-1166 松殿基房1166-1172 近衛基通1180-1183 松殿師家1183-1184 近衛基通1184-1186 鎌倉時代 九条兼実1186-1191 近衛基通1193-1203 九条良経1203-1206 近衛家実1206-1207 九条道家1221 近衛家実1221-1224 九条教実1232-1235 九条道家1235-1237 近衛兼経1237-1242 一条実経1246-1247 近衛兼経1247-1252 鷹司兼平1252-1256 九条忠家1274 一条家経1274-1275 鷹司兼平1275-1278 鷹司兼忠1298-1299 二条兼基1299-1301 九条師教1308 鷹司冬平1308-1311 室町時代 二条良基1382-1387 近衛兼嗣1387-1388 二条良基1388 二条持基1428-1432 一条兼良1432 二条持基1432-1433 江戸時代 一条昭良1629-1635 二条康道1635-1647 九条道房1647 一条昭良1647 二条光平1663-1664 鷹司房輔1664-1668 一条冬経1687-1689 近衛家熙1709-1712 九条輔実1712-1716 一条道香1747-1755 近衛内前1762-1772 九条尚実1779-1785 二条斉敬1867 → 明治維新によって廃止。のち、旧皇室典範によって皇親摂政として再置。 |
中大兄皇子を摂政とみなすのは、『藤氏家伝』上巻に「〔斉明天皇〕悉以庶務、委皇太子。皇太子毎事諮決、然後施行」とあることによる。草壁皇子を摂政とみなすのは、『日本書紀』天武天皇10年2月25日条に「立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」とあることによる。 | |
摂政・関白の一覧 カテゴリ:摂関 |
表話編歴関白 | |
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平安時代 | 藤原基経 887-891 藤原忠平 941-949 藤原実頼 967-969 藤原兼通 974-977 藤原頼忠 977-986 藤原兼家 990 藤原道隆 990 藤原道隆 993-995 藤原道兼 995 藤原頼通 1020-1068 藤原教通 1068-1075 藤原師実 1075-1087 藤原師実 1091-1094 藤原師通 1094-1099 藤原忠実 1106-1107 藤原忠実 1114-1121 藤原忠通 1121-1123 藤原忠通 1129-1142 藤原忠通 1150-1158 近衛基実 1158-1165 松殿基房 1173-1179 近衛基通 1179-1180 |
鎌倉時代 | 九条兼実 1192-1196 近衛基通 1196-1198 近衛家実 1207-1221 近衛家実 1224-1229 九条道家 1229-1231 九条教実 1231-1232 近衛兼経 1242 二条良実 1242-1246 一条実経 1246 鷹司兼平 1252-1255 二条良実 1261-1265 一条実経 1265-1267 近衛基平 1267-1268 鷹司基忠 1269-1273 九条忠家 1273-1274 鷹司兼平 1279-1287 二条師忠 1287-1289 近衛家基 1289-1291 九条忠教 1291-1293 近衛家基 1293-1296 鷹司兼忠 1296-1298 二条兼基 1301-1305 九条師教 1305-1308 鷹司冬平 1311-1313 近衛家平 1313-1315 鷹司冬平 1315-1316 二条道平 1316-1319 一条内経 1319-1323 九条房実 1323-1325 鷹司冬平 1325-1327 二条道平 1327-1330 近衛経忠 1330 鷹司冬教 1330-1333 |
南北朝時代 | 南朝 二条師基 1352-1354? 近衛経家 1354?-1356 二条教基 1356-???? (近衛経家) ????-1361 二条教基 1361-???? 二条教頼 ????-???? 二条冬実 ????-???? 近衛某 ????-1392 北朝 近衛経忠 1336-1337 近衛基嗣 1337-1338 一条経通 1338-1342 九条道教 1342 鷹司師平 1342-1346 二条良基 1346-1359 九条経教 1359-1361 近衛道嗣 1361-1363 二条良基 1363-1367 鷹司冬通 1367-1369 二条師良 1369-1376 九条忠基 1376-1379 二条師嗣 1379-1382 (二条良基) 1388 二条師嗣 1388-1394 |
室町時代 | 一条経嗣 1394-1398 二条師嗣 1398-1399 一条経嗣 1399-1408 近衛忠嗣 1408-1409 二条満基 1409-1411 一条経嗣 1411-1418 九条満教 1418-1424 二条持基 1424-1428 二条持基 1433-1445 近衛房嗣 1445-1447 一条兼良 1447-1453 二条持通 1453-1454 鷹司房平 1454-1455 二条持通 1455-1459 一条教房 1459-1463 二条持通 1463-1467 一条兼良 1467-1470 二条政嗣 1470-1476 九条政基 1476-1479 近衛政家 1479-1483 鷹司政平 1483-1487 九条政忠 1487-1488 一条冬良 1488-1493 近衛尚通 1493-1497 |
戦国時代 | 二条尚基 1497 一条冬良 1497-1501 九条尚経 1501-1513 近衛尚通 1513-1514 鷹司兼輔 1514-1518 二条尹房 1518-1525 近衛稙家 1525-1533 九条稙通 1533-1534 二条尹房 1535-1536 近衛稙家 1536-1542 鷹司忠冬 1542-1545 一条房通 1545-1549 二条晴良 1549-1553 一条兼冬 1553-1554 近衛前久 1554-1568 |
安土桃山時代 | 二条晴良 1569-1578 九条兼孝 1579-1581 一条内基 1581-1585 二条昭実 1585 豊臣秀吉 1585-1592 豊臣秀次 1592-1595 |
江戸時代 | 九条兼孝 1601-1604 近衛信尹 1605-1606 鷹司信房 1606-1609 九条忠栄 1609-1612 鷹司信尚 1612-1615 二条昭実 1615-1619 九条忠栄 1619-1623 近衛信尋 1623-1629 一条兼遐 1629 一条昭良 1647-1651 近衛尚嗣 1652-1653 二条光平 1653-1663 鷹司房輔 1668-1682 一条冬経 1682-1687 一条冬経 1689-1690 近衛基熙 1690-1703 鷹司兼熙 1703-1707 近衛家熙 1707-1709 九条輔実 1716-1722 二条綱平 1722-1726 近衛家久 1726-1736 二条吉忠 1736-1737 一条兼香 1737-1747 一条道香 1747 一条道香 1755-1757 近衛内前 1757-1762 近衛内前 1772-1778 九条尚実 1778-1779 九条尚実 1785-1787 鷹司輔平 1787-1791 一条輝良 1791-1795 鷹司政煕 1795-1814 一条忠良 1814-1823 鷹司政通 1823-1856 九条尚忠 1856-1862 近衛忠煕 1862-1863 鷹司輔煕 1863-1864 二条斉敬 1864-1867 (明治維新により廃止) |
摂政・関白の一覧 カテゴリ:摂政 |
表話編歴太政大臣 | |
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皇親太政大臣 | 白鳳時代 大友皇子671-672 高市皇子690-696 刑部親王(知太政官事)703-705 穂積親王(知太政官事)705-715 奈良時代 舎人親王(知太政官事)720-735 鈴鹿王(知太政官事)737-745 |
人臣太政大臣 | 奈良時代 藤原恵美押勝(太師)760-764 弓削道鏡(太政大臣禅師)765-766 平安時代 藤原良房857-872 藤原基経881-891 藤原忠平936-949 藤原実頼968-970 藤原伊尹971-972 藤原兼通974-977 藤原頼忠978-989 藤原兼家990 藤原為光991-992 藤原道長1017-1018 藤原公季1021-1029 藤原頼通1062 藤原教通1070-1071 藤原信長1080-1089 藤原師実1089 藤原忠実1113 源雅実1123-1124 藤原忠通1129 藤原忠通1149-1150 三条実行1150-1157 藤原宗輔1157-1160 藤原伊通1160-1165 平清盛1167 藤原忠雅1168-1170 松殿基房1171 藤原師長1177-1179 鎌倉時代 九条兼実1190 藤原兼房1191-1196 藤原頼実1199-1204 九条良経1205 藤原頼実1209 三条公房1218-1222 近衛家実1222 西園寺公経1222-1223 九条良平1238-1239 近衛兼経1241-1242 西園寺実氏1246-1247 久我通光1247-1248 鷹司兼平1252-1253 徳大寺実基1253-1254 西園寺公相1262 花山院通雅1275-1276 鷹司兼平1277 鷹司基忠1285-1287 堀川基具1289-1290 西園寺実兼1292-1293 洞院公守1299 二条兼基1299-1300 土御門定実1301-1302 徳大寺公孝1302-1304 一条実家1307-1309 大炊御門信嗣1309-1311 鷹司冬平1311 三条実重1318-1319 久我通雄1319-1323 鷹司冬平1323-1327 今出川兼季1332-1333 南北朝時代南朝 久我長通1352-1352? 洞院公賢1353-1354? 西園寺公重????-1364 北朝 久我長通1341-1342 洞院公賢1348-1350 久我通相1366-1368 二条良基1381-1387 室町時代 徳大寺実時1394-1395 足利義満1395 久我具通1395-1396 三条実冬1402-1407 徳大寺公俊1420 二条持基1432-1433 一条兼良1446-1450 久我清通1452-1453 西園寺公名1455-1457 二条持通1458-1460 近衛房嗣1462 久我通博1481-1482 鷹司政平1485 近衛政家1488-1490 戦国時代 一条冬良1493-1497 徳大寺実淳1510-1511 近衛尚通1514-1517 花山院政長1518-1521 三条実香1535-1536 近衛稙家1538-1541 安土桃山時代 近衛前久1582 豊臣秀吉1587-1598 江戸時代 徳川家康1616 徳川秀忠1626-1632、武家官位 近衛基熙1709-1710 近衛家熙1711 近衛家久1733-1734 一条兼香1746-1751 近衛内前1768-1770 九条尚実1781 徳川家斉1827-1841、武家官位 鷹司政通1842-1848 明治時代 三条実美1871-1885 → 内閣制度発足にともない廃止 |
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芸術家 | ULAN |
**法性寺入道前関白太政大臣**に関するカテゴリ: