藤田幸久 (original) (raw)

日本の旗 日本政治家藤田 幸久ふじた ゆきひさ
藤田幸久の近影(公式ホームページより)
生年月日 (1950-04-19) 1950年4月19日(74歳)
出生地 日本の旗 日本 茨城県 日立市
出身校 慶應義塾大学文学部哲学科
前職 国会議員
現職 NGO理事
所属政党 旧民主党→)(民主党鳩山G)→)(民進党→)(旧国民民主党→)(旧立憲民主党→)立憲民主党
称号 文学士
公式サイト 藤田幸久-WEBサイト
日本の旗 参議院議員
選挙区 茨城県選挙区
当選回数 2回
在任期間 2007年7月29日 - 2019年7月28日
日本の旗 衆議院議員
選挙区 比例東京ブロック
当選回数 2回
在任期間 1996年 - 2000年2003年 - 2005年
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藤田 幸久(ふじた ゆきひさ、1950年(昭和25年)4月19日 - )は、日本政治家。現在、国際IC日本協会会長、岐阜女子大学特別客員教授。参議院議員(2期)。衆議院議員(2期)、財務副大臣野田内閣)、参議院財政金融委員長国家基本政策委員長拉致問題特別委員長、民主党民進党国民民主党国際局長、民進党次の外務大臣、難民を助ける会理事横浜国立大学非常勤講師などを歴任。

経歴

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日立市立会瀬小学校茨城大学附属中学校茨城県立水戸第一高等学校慶應義塾大学文学部哲学科を卒業[1]

大学入学後に父の会社が倒産し、自宅から夜逃げ。父の死後はアルバイトをしながら卒業。MRA国際親善使節Song of Asiaに参加し、2年間アジア・大洋州の青年約50人と世界14カ国を歴訪。これまでに世界52カ国を訪問[1]

1977年、国際MRA日本協会(現在の国際IC日本協会)事務局勤務[1]

1979年、難民を助ける会(AAR、相馬雪香会長)の創設に加わり、常任理事に就任[1]

1980年、タイ・カンボジア国境でAARカンボジア難民支援事業を立ち上げ。[1]

1984年、国際MRA日本協会専務理事。歌手の森進一の要請でザンビアで難民支援事業を開始。このチャリティーコンサート「応演歌」が支援し20年間継続。[1]

1986年、オランダのフィリップス社フィリップス元会長の要請で、日米欧の貿易戦争に対応する日米欧経済コー円卓会議(CRT)の創設に関わり同コーディネーター。賀来龍三郎キヤノン社長、山下俊彦松下電器相談役他が参加[1]

民主党

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財務副大臣

1996年旧民主党から第41回衆議院議員総選挙比例東京ブロック単独で出馬して初当選。民主党代表団(鳩山由紀夫代表)の中国訪問(胡錦涛副主席他と会談)を采配[1]。1997年 、民主党代表団韓国訪問(金泳三大統領、金大中党首、金鍾泌党首他と会談、1997年)を采配[1]対人地雷全面禁止推進議員連盟を創設し小渕恵三外相による日本のオタワ条約調印を支援[1]。長男が事故で死亡後、サポート校の支援を始め不登校生への通学定期支給を実現(1999年)[1]

1998年、民主党代表団米国訪問(モンデール元副大統領他と会談)を采配[1]

1999年、NATOのコソボ空爆後隣国マケドニアに民主党事務所を開設。スタッフが半年間コソボの人道援助活動を行う。日本の政党初の海外拠点による援助活動[1]

2000年第42回衆議院議員総選挙では東京12区から出馬し、自由民主党八代英太郵政大臣に敗北。落選中は鳩山由紀夫民主党代表政策顧問。

2001年、岐阜女子大学特別客員教授就任、現在に至る。

2003年第43回衆議院議員総選挙では公明党太田昭宏に東京12区で敗れたが、比例復活により二度目の当選。同年民主党国際局長、文化団体局長。

2004年 イラク邦人人質事件で隣国ヨルダンにて人質救出支援活動を行う。5人の日本人が解放される[1]。民主党欧米訪問団(菅直人代表国連アナン事務総長、スウェーデンのパーション首相他と会談)を采配。[1] 民主党訪米団(岡田克也代表。グリーンスパン連邦準備制度理事会(FRB)議長、アーミテージ国務副長官他と会談)を采配。[1]

2005年 スマトラ沖津波・地震(2004年)調査団(鳩山由紀夫団長)でインドネシアとスリランカで支援活動を行う。[1]

2005年第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案の採決で賛成票を投じた公明党の太田、反対票を投じた自民党の八代、藤田の3人が東京12区から出馬し(八代は公認を得られず無所属で出馬)、太田が当選。藤田、八代は共に落選する。

2006年2009年まで聖学院大学非常勤講師。

2007年第21回参議院議員通常選挙では小林元参議院議員が引退した茨城県選挙区から出馬し、参議院で初当選した。外交防衛委員会理事、拉致問題特別委員会委員長、「次の内閣」の防衛副大臣9月20日、藤田の公設秘書覚醒剤取締法違反などの現行犯逮捕されたため、「次の内閣」防衛副大臣などの役職を辞任した。

2008年に参議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員長、参議院外交防衛委員会理事。

2009年に民主党政権誕生後、民主党国際局長。超党派の国際MRA推進議員連盟(現・国際IC推進議員連盟、谷川和穂会長)の支援も得て米軍元捕虜(POW)の日本招聘事業を提案。民主党政権誕生後に年次事業が開始。[2]

2010年、ハイチ大地震調査支援団長として現地で支援活動を行う。参議院財政金融委員長[3]

2011年野田内閣財務副大臣に就任。主計局理財局日本銀行を担当[4])。国家公務員宿舎を四分の一削減し、家賃を値上げする改革を実現。[5]東日本大震災の復興予算を策定。[6]10年ぶりに診療報酬、介護報酬の同時改定(アップ)を決定。[7]日本銀行政策決定会合で、東日本大震災後の復興と欧州金融危機を踏まえた大幅な金融緩和を要請。[8]

2013年、参議院財政金融委員長。第23回参議院議員通常選挙において、茨城県選挙区で2回目の当選。参議院国家基本政策委員長、財政金融委員長。21世紀教育研究所理事(2019年まで)

2014年、拉致問題特別委員会理事、外交防衛委員会委員、世界宗教者平和会議(WCRP)国際活動支援議員懇談会(谷垣禎一・岡田克也共同代表)を設立、事務局長(現在も)[9]。以後、タイの仏教徒とイスラム教徒の和解、中東の宗教者間の和解、核廃絶事業などを支援。

2015年、民主党国際局長、予算委員会委員、外交防衛委員会委員、沖縄及び北方問題に関する特別委員会理事。厚生労働委員会委員として前年に削減された産婦人科帝王切開手術料の診療報酬の引き上げを要請し2016年改定で引き上げが実現。[10] 2015年2017年まで横浜国立大学非常勤講師。

民進党

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2016年3月27日民進党結党。民進党国際局長、民進党ネクスト外務副大臣予算委員会委員、憲法審査会委員。同族企業の株の評価の見直しによる事業承継の円滑化を実現。開業医の持ち分なし医療法人へ移行時の贈与税の非課税化による承継の円滑化に貢献。[10]

2017年9月、民進党ネクスト外務大臣。参議院国際経済・外交に関する調査会理事、外交防衛委員会委員。

国民民主党から立憲民主党へ

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2018年5月7日、民進党と希望の党の合流により結党された国民民主党に参加[1]。国民民主党の国際局長[11]

2019年1月24日、国民民主党に離党届を、立憲民主党に入党届を提出した[12]。国民民主党は離党届を受理せず慰留を続けていた[13] が、2月20日に行われた同党総務会で「党の名誉及び信頼を傷つける行為」「他政党を利する行為・言動など、党の結束を乱す行為・言動」に抵触する重大な反党行為とし、3月6日に拡大総務会で正式に除籍を決定した[14][15]。翌7日には立憲民主党への入党が了承され、所属会派も移動した[16]。 5月27日、立憲民主党は7月の参院選茨城選挙区に藤田ではなく、元経済産業省官僚小沼巧を擁立することを決定し[17]、同月30日立憲民主党は藤田を比例区候補とすることを発表した[18]。第24回参議院議員通常選挙の全国比例区で落選。

2019年12月24日、立憲民主党の衆議院茨城県第2区総支部長に就任[19]

2021年10月31日、第49回衆議院議員総選挙では自民党の額賀福志郎に敗れ落選。政界を引退。

2022年 国際IC日本協会会長に就任。

ドイツ東南アジア公共政策・良き統治センター(CPG、タイ)専門理事に就任。

政策・主張

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国会における活動

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アメリカ同時多発テロ事件

2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件(911)に対する質疑と被害者支援活動。

2008年1月10日の参院外交防衛委で、福田康夫首相の「テロは戦争ではなく犯罪である」との前年の答弁に関連して、911がアルカイダの犯行であるという根拠を質問。福田首相は「非公開情報や外国政府等の報告書等の公開情報を総合的に勘案して、アルカイダによって実行されたものと判断している」と答弁。藤田は米軍元空軍大尉の、テロリストたちが初めて757の機体を垂直に操縦することや、曲芸的な飛行ができるはずがないとの発言など各国で指摘されている疑問点について質問。ドイツ連邦銀行総裁が、ハイジャックされた2つの航空会社の株が911の直前に大量に購入され、事件後の大暴落により莫大な利益を得たとの証言について質問。額賀福志郎財務大臣は「金融機関に対して疑わしい取引の届出義務化とテロ集団に対する資金供与は犯罪であることを決め、国際金融システムが悪用されない対応を取った」と答弁。

2008年10月22日の参議院本会議で藤田は「米国は国際テロ被害者費用補償制度設立により死亡補償金、医療費、葬儀埋葬代などの補償が受けられる。日本でもテロ被害者救済制度を創設すべき」と河村建夫官房長官に要望。河村長官は「特別措置法などの対応が考えられる」と答弁。同日早急に検討に入るよう命じた。

2010年3月8日付のワシントン・ポスト紙の社説は「日本における有毒な思想~9・11事件の共謀説が日本の与党を支配しているのか」との見出しで「奇妙で生半可であり、知的な偽物であり、真剣な議論に値しない。」と藤田の発言を酷評し、「鳩山由紀夫首相が藤田のように見識がなく、事実を歪曲する人物の存在を許せば、その同盟関係にもたらしている利益は危機にさらされる。」と論じた 。[20]

3月13日付のワシントン・ポスト紙は「編集者への手紙」で、「日本のステーツマンに関する、扇動的で、不公平な見方」との見出しで3月8日付の社説に対する二人の反論を掲載。(1)藤田幸久「参議院外交委員長との肩書は間違いで、国際・地球温暖化問題に関する調査会理事である。日本の移民政策に関して、個人の立場で答えることに記者も事前に同意していた。取材後の雑談を扇動的な形で掲載したことは迷惑である。「陰謀」とは全く述べていないにも拘らず、「有毒な思想」、「陰謀論的見解」、「知的には偽物」、「事実を歪曲する」として信用を損ねたことに謝罪を求める。(2)レスター・テニー(「バターン死の行進生存者。バターンの米軍守備隊元司令官)「藤田氏は、65年間も私達元捕虜を苦しめてきた問題を解決を求めた私の訴えを聴いてくれた数少ない日本人の一人だ。藤田氏の粘り強く静かな努力により日本政府は高齢化している米軍元捕虜を日本に招くことになった。同紙の編集委員は藤田氏の話の一部を述べたに過ぎない。藤田氏の優れた業績を見過ごしたことは残念だ」[21]

麻生鉱業捕虜使役問題

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2008年11月13日、参議院外交防衛委員会麻生鉱業戦時中、連合国捕虜を使役した事実があるかどうか首相麻生太郎に質した。麻生首相は「当時4~5歳で認識するには早すぎる」と回答した。その後、藤田の求めに応じて厚生労働省が公開した公文書から、旧麻生鉱業にはイギリス人やオランダ人、オーストラリア人の捕虜300人がいたことが明らかとなった。麻生は外相時代から同社に外国人捕虜がいたことを一貫して否定しており、政府として認めたのはこれが初となった[22]ニューヨーク・タイムズノリミツ・オオニシは藤田の説明に基づいて麻生鉱業の捕虜使役問題の記事を12月19日付で掲載した[23]

2009年1月29日以来、藤田は戦時中の連合国捕虜使役問題に関する質問主意書を3度提出した。藤田は「捕虜問題は、ポツダム宣言に盛り込まれ、日本の戦争犯罪であると認識されていた。またサンフランシスコ講和条約でも戦後の日本政府の対応が求められてきた外交案件である」と述べた。これに対し麻生首相は「捕虜の労働自体は当時の国際法においても認められていた。一方、我が国は、植民地支配と侵略によって、元捕虜を含め多くの国々の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを、様々な機会に表明してきた」と答弁した。

2010年2月9日、藤田は再質問主意書を提出し、「外務省外交史料館が保管する外交記録から「戦時捕虜に関する資料及び関係の文書」の目録および、麻生鉱業に関する文書を提示することを要求した[24]。政府は「戦時捕虜に関する資料及び関係の文書」の目録について「御指摘の「文書」を含むものを特定するためには膨大な作業を要するため、お尋ねについて網羅的にお答えすることは困難である。」また、麻生鉱業に関しては「旧麻生鉱業における朝鮮人労働者の労働の実態を把握できる資料は、厚生労働省及び外務省にて確認した範囲では見当たらなかった。」と答弁した。

2009年3月9日の参議院予算委員会で、藤田は2006年11月に、「インターナショナル・ヘラルドトリビューン」紙の「麻生鉱業がアジア人と西洋人の強制労働者を使っていた」という記事に対し、麻生外相は反論を掲載するようニューヨークの日本総領事館に公電で指示したが、いかなる証拠に基づくものかを質した。これに対し麻生首相は、「報道記事への対応という限られた時間の枠内で素早く必要な調査を行った」「当時の対応としては、必ずしも政府全体としては十分ではなかった」と答弁した。

2009年5月、藤田は「史実検証麻生鉱業の消せない過去」として以下の内容を雑誌「世界」2009年5月号に寄稿した。(1)麻生首相は戦争中に麻生鉱業が連合国軍捕虜300人を使役していたことを国会で初めて認めた。64年間否定してきた事実を認めたことは意義がある。政府の長年の「不作為」を改めて、政策転換を求める。(2)豪州に生存する麻生鉱業の元捕虜数名が、国営テレビや有力紙で証言した他、元捕虜の娘が麻生外相に直接手紙を送った。(3)日米の学者が、麻生鉱業自身が作成した捕虜関係資料などを麻生外相事務所に提出していた。

2010年1月29日、藤田は戦時中の連合国捕虜使役問題に関する質問主意書を提出し、戦時中に連合軍捕虜が日本で使役されたことを外交問題として政府に認めさせようとした[25] が、政府は国際条約、国際事業、賠償問題の全てに対応済みであることを返答した[26]

2009年6月、藤田は福岡自治労などと共同で、オーストラリア人のジョー・クームズなどを日本に招き、戦時中に麻生鉱業で使役された捕虜として、麻生太郎首相に面会するように求めたが、拒否された[27]。しかし、江田五月参議院議長、鳩山由紀夫民主党代表、福島瑞穂社会民主党党首らとの会談を実現させた[28]

尖閣諸島問題

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2010年9月の尖閣諸島沖における中国漁船衝突事件を受け、10月9日、超党派の国家主権と国益を守るために行動する議員連盟の一員として、原口一博総務大臣岩屋毅柿沢未途両衆議院議員と共に小型飛行機で尖閣諸島を上空から視察。その後、中山義隆石垣市長や石垣海上保安本部、漁業関係者などと意見交換を行った[29]

その他

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人物

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所属団体・議員連盟

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著作

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著書

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寄稿

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q rプロフィール”. 藤田幸久 | ふじた幸久|ウェブサイト. 2023年12月5日閲覧。
  2. ^日本政府招聘によるアメリカ元捕虜の来日POW研究会(2010年9月)”. powresearch.jp. 2023年11月18日閲覧。
  3. ^ハイチ支援調査団派遣民主党が現地入りhttps://y-fujita.com/archives/8077週刊N Y生活(2010年1月30日)”. 藤田幸久 | ふじた幸久|ウェブサイト. 2023年11月18日閲覧。
  4. ^財務副大臣に就任。予算、日銀などを担当 2011年09月06日 藤田幸久前参議院議員-WEBサイト”. 藤田幸久 | ふじた幸久|ウェブサイト. 2023年11月18日閲覧。
  5. ^「国家公務員宿舎の削減計画」に基づくコスト比較等による個別検討結果及び宿舎使用料の見直しについて”. 財務省. 2023年12月5日閲覧。
  6. ^復興庁 | 予算”. www.reconstruction.go.jp. 2023年12月5日閲覧。
  7. ^ 診療報酬アップと日銀政策決定会合https://y-fujita.com/archives/4291公式ホームページ2011年12月22日
  8. ^ 利也, 西村 (2022年1月31日). “民主党政権時の藤田財務副大臣、日銀とは「チーム力発揮できなかった」”. 産経ニュース. 2023年12月5日閲覧。
  9. ^「WCRP国際活動支援議員懇談会」結成式と「WCRP国際活動報告会」が開催”. 藤田幸久 | ふじた幸久|ウェブサイト. 2023年12月5日閲覧。
  10. ^ a b明けましておめでとうございます”. 藤田幸久 | ふじた幸久|ウェブサイト. 2023年12月5日閲覧。
  11. ^国民民主党、結党大会を開催(2018年5月)”. qnew-news.net. 2023年12月5日閲覧。
  12. ^ “国民・藤田氏 離党意向 参院選控え立民に入党届”. 茨城新聞社. (2019年1月25日). https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15483388200351 2019年1月25日閲覧。
  13. ^ “国民・藤田氏、離党「変わりない」 立憲入りを希望”. 朝日新聞社. (2019年1月25日). https://www.asahi.com/sp/articles/ASM105JB6M10UTFK016.html 2019年1月25日閲覧。
  14. ^第40回総務会を開催 統一道府県議選候補予定者を新たに5人公認・推薦決定”. 旧・国民民主党 (2018年5月〜2020年9月) (2019年3月6日). 2023年12月5日閲覧。
  15. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2019年3月6日). “国民民主、藤田参院議員と塩村元都議を除籍”. 産経ニュース. 2023年12月5日閲覧。
  16. ^立民 野党第1会派復帰…参院 藤田氏の入党承認”. 読売新聞 (2019年3月8日). 2019年3月8日閲覧。
  17. ^ “立民、茨城で新人公認 夏の参院選”. 日本経済新聞. (2019年5月27日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45312790X20C19A5PP8000/ 2019年5月29日閲覧。
  18. ^【茨城新聞】立民、参院選 比例で藤田氏擁立”. ibarakinews.jp. 2019年6月1日閲覧。
  19. ^ 立民、次期衆院選に4人擁立茨城3区など日本経済新聞2019年12月24日付
  20. ^ワシントンポスト紙による中傷記事”. 藤田幸久 | ふじた幸久|ウェブサイト. 2023年11月22日閲覧。
  21. ^【ジャパン・タイムズ】日本の民主党は反米的であるという見解を、元戦争捕虜が拒否(仮訳)”. 藤田幸久 | ふじた幸久|ウェブサイト. 2023年11月22日閲覧。
  22. ^ “旧麻生鉱業に外国人捕虜、厚労省の公文書で明らかに”. AFPBB News. フランス通信社. (2008年12月19日). https://www.afpbb.com/articles/-/2551429 2023年12月4日閲覧。
  23. ^ ニューヨーク・タイムズ 2008年12月19日
  24. ^ 戦時中の連合国捕虜使役問題に関する再質問主意書 参議院
  25. ^ 戦時中の連合国捕虜使役問題に関する質問主意書 参議院
  26. ^ 参議院議員藤田幸久君提出戦時中の連合国捕虜使役問題に関する質問に対する答弁書 参議院
  27. ^ 福岡自治労
  28. ^ 2009年06月17日朝日新聞・筑豊版 元連合軍兵士ら捕虜時代の足跡たどる 2009年6月18日神戸新聞 神戸で収容生活 元捕虜の男性来神
  29. ^ 原口前総務相ら超党派議員、空から尖閣諸島視察 読売新聞 2010年10月9日
  30. ^ a b 公式ホームページ プロフィール
  31. ^国会会議録検索システム 第196回国会 参議院 決算委員会 第1号 平成30年4月9日”. 参議院. 2023年12月4日閲覧。
  32. ^国会会議録検索システム 第196回国会 参議院 決算委員会 第1号 平成30年4月9日”. 参議院. 2023年12月4日閲覧。

外部リンク

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議会
先代江口克彦 **日本の旗 参議院国家基本政策委員長**2013年 次代長浜博行
先代川崎稔大石正光 **日本の旗 参議院財政金融委員長**2013年2010年 - 2011年 次代塚田一郎尾立源幸
公職
先代五十嵐文彦桜井充 日本の旗 財務副大臣五十嵐文彦と共同2011年 - 2012年 次代武正公一大久保勉
日本の旗 財務副大臣
村上誠一郎谷口隆義 / 若林正俊尾辻秀久 小林興起 / 谷口隆義 石井啓一 / 山本有二 上田勇 / 田野瀬良太郎 赤羽一嘉 / 竹本直一 田中和徳 / 富田茂之 遠藤乙彦 / 森山裕 竹下亘 / 平田耕一石田真敏 野田佳彦池田元久 / 峰崎直樹 五十嵐文彦 / 桜井充→藤田幸久 武正公一 / 大久保勉 小渕優子 / 山口俊一 古川禎久 / 愛知治郎 御法川信英 / 宮下一郎 菅原一秀 / 宮下一郎 坂井学 / 岡田直樹 大塚拓 / 木原稔 上野賢一郎 / 木原稔 上野賢一郎 / 鈴木馨祐 遠山清彦 / 藤川政人 伊藤渉 / 中西健治 伊藤渉 / 大家敏志 岡本三成 / 大家敏志 井上貴博 / 秋野公造 神田憲次赤沢亮正 / 矢倉克夫 横山信一 / 斎藤洋明
日本の旗 参議院国家基本政策委員長
新設 本岡昭次 角田義一 広中和歌子 江田五月 角田義一 藁科満治 北澤俊美 今泉昭 前田武志 山下八洲夫 大石正光 溝手顕正 鴻池祥肇 鈴木政二 江口克彦 藤田幸久 長浜博行 小川勝也 北澤俊美 柳田稔 鉢呂吉雄 真山勇一 古川俊治 大塚耕平 上田清司 室井邦彦 浅田均
日本の旗 参議院財政金融委員長
石川弘 勝木健司 平田健二 伊藤基隆 山下八洲夫 柳田稔 平野貞夫 円より子 浅尾慶一郎 山本孝史 池口修次 家西悟 峰崎直樹 円より子 大石正光 藤田幸久 尾立源幸 川崎稔 藤田幸久 塚田一郎 古川俊治 大家敏志 藤川政人 長谷川岳 中西健治 中西祐介 佐藤信秋 豊田俊郎 酒井庸行 宮本周司 足立敏之
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟
役員 会長:岡田克也 呼びかけ人:津村啓介白眞勲
会員 赤松広隆泉健太郡和子近藤昭一中川正春前原誠司横路孝弘川端達夫西村智奈美大島九州男小川敏夫神本美恵子那谷屋正義・藤田幸久・増子輝彦
日本の旗 比例東京ブロック選出衆議院議員(1996年 - ) 国会議事堂
第41回(定数19) 自由民主党 深谷隆司 鯨岡兵輔 高橋一郎 小沢潔 越智通雄 新進党 城島正光 東祥三 遠藤乙彦 太田昭宏 石井啓一 民主党 石毛鍈子 山花貞夫海江田万里 藤田幸久 石井紘基 渋谷修日本共産党 不破哲三 佐々木陸海 中島武敏 社会民主党 保坂展人
第42回(定数17) 民主党 岩國哲人 城島正光 鮫島宗明 井上和雄 石毛鍈子 中津川博郷 自由民主党 松島みどり 鳩山邦夫 伊藤達也 高橋一郎 日本共産党 不破哲三 山口富男 自由党 東祥三 鈴木淑夫 公明党 太田昭宏 高木陽介 社会民主党 保坂展人
第43回(定数17) 民主党 阿久津幸彦 藤田幸久 井上和雄 鮫島宗明 島田久 中津川博郷 石毛鍈子 宇佐美登 自由民主党 八代英太 鳩山邦夫 伊藤達也 与謝野馨 鴨下一郎 小杉隆 公明党 高木陽介 高木美智代 日本共産党 山口富男
第44回(定数17) 自由民主党 猪口邦子 土屋正忠 愛知和男 安井潤一郎 若宮健嗣 大塚拓 清水清一朗 民主党 末松義規 加藤公一 小宮山洋子 長島昭久 長妻昭 松原仁 公明党 高木陽介 高木美智代 日本共産党 笠井亮 社会民主党 保坂展人
第45回(定数17) 民主党 早川久美子 竹田光明 石毛鍈子 小林興起 吉田公一 川島智太郎 中津川博郷 渡辺浩一郎 自由民主党 鴨下一郎 平将明 与謝野馨 小池百合子 菅原一秀 公明党 高木陽介 高木美智代 日本共産党 笠井亮 みんなの党 柿沢未途
第46回(定数17) 自由民主党 小田原潔 秋元司 松本文明 赤枝恒雄 田畑毅 日本維新の会 石原慎太郎 今村洋史 山田宏 民主党 海江田万里 松原仁 菅直人 みんなの党 大熊利昭 三谷英弘 公明党 高木陽介 高木美智代 日本共産党 笠井亮 日本未来の党 青木愛
第47回(定数17) 自由民主党 秋元司 松本文明 鈴木隼人 前川恵 若狭勝赤枝恒雄 田畑毅民主党 長島昭久 松原仁 菅直人 日本共産党 笠井亮 宮本徹 池内沙織 維新の党 落合貴之 初鹿明博 木内孝胤 公明党 高木陽介 高木美智代
第48回(定数17) 自由民主党 越智隆雄 山田美樹 小田原潔 松本文明 安藤高夫 高木啓 立憲民主党 手塚仁雄 末松義規 初鹿明博山花郁夫 松尾明弘希望の党 松原仁 柿沢未途 伊藤俊輔 公明党 高木陽介 高木美智代 日本共産党 笠井亮 宮本徹
第49回(定数17) 自由民主党 高木啓 松本洋平 越智隆雄 若宮健嗣 長島昭久 石原宏高 立憲民主党 伊藤俊輔 鈴木庸介 海江田万里 大河原雅子 日本維新の会 阿部司 小野泰輔 公明党 高木陽介 河西宏一 日本共産党 笠井亮 宮本徹 れいわ新選組 山本太郎櫛渕万里
↓:途中辞職、失職など、↑:繰り上げ当選
茨城県の旗 茨城県選挙区選出参議院議員(1947年 - ) 国会議事堂
第1回(定数4) 結城安次 柴田政次宮田重文↑ 3年議員 大畠農夫雄 池田恒雄
偶数回定数2第2回 郡祐一 菊田七平 第4回 森元治郎 郡祐一 第6回 郡祐一 森元治郎 第8回 郡祐一 森元治郎 第10回 矢田部理 岩上妙子岩上二郎第12回 岩上二郎 矢田部理 第14回 岩上二郎矢田部理 野村五男第16回 野村五男 矢田部理 第18回 郡司彰 久野恒一岡田広第20回 岡田広 郡司彰 第22回 岡田広 郡司彰 第24回 岡田広 郡司彰 第26回 加藤明良 堂込麻紀子 奇数回定数2第3回 宮田重文 武藤常介 第5回 大森創造 武藤常介鈴木一司第7回 中村喜四郎 大森創造 第9回 中村喜四郎竹内藤男中村登美郡祐一第11回 郡祐一 高杉廸忠 第13回 曽根田郁夫 高杉廸忠 第15回 種田誠 狩野明男狩野安第17回 狩野安 小林元 第19回 狩野安 小林元 第21回 藤田幸久 長谷川大紋 第23回 上月良祐 藤田幸久 第25回 上月良祐 小沼巧
↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。
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