鈴木孝政 (original) (raw)

曖昧さ回避 この項目では、元プロ野球選手について記述しています。バレーボール元日本代表の同名の人物については「鈴木孝政 (バレーボール)」をご覧ください。

鈴木 孝政

2013年7月7日
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県山武郡蓮沼村(現:山武市[1]
生年月日 (1954-07-03) 1954年7月3日(70歳)
身長体重 178 cm78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1972年 ドラフト1位
初出場 1973年4月19日
最終出場 1989年10月14日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
千葉県立成東高等学校 中日ドラゴンズ (1973 - 1989)
監督・コーチ歴
中日ドラゴンズ (1995 - 1997, 2004, 2012 - 2013)
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鈴木 孝政(すずき たかまさ、1954年7月3日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手投手)。

経歴

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プロ入り前

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蓮沼小学校、蓮沼中学校から成東高校へ進学、中学時代はサイドスローだったが高校ではオーバースローに変更[1]鵜沢達雄の後継として、速球を武器に1年秋からエースの座に着く[1]

1971年には夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進む[1]。しかし練習時に負傷し、先発を控えの及川投手に譲りリリーフに回るが、竜ヶ崎一高に1-2で惜敗した[1]

1972年の春季関東大会では準決勝で日大三高待井昇に投げ勝つ。しかし決勝では登板せず、後にプロで同僚となる田野倉利男のいた早実高に敗退し準優勝にとどまる。同年夏は県予選準決勝で銚子商根本隆と投げ合い0-1で完封負け、甲子園には出場できなかった[1]。高校同期に青木康彰中堅手専大 - 電電東京)がいる。

プロ入り後

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1972年のプロ野球ドラフト会議中日ドラゴンズに1位指名されて入団[1]。中日はこの年のドラフトで球団と親会社は仲根正広の指名を希望していたが、このドラフト会議に監督の与那嶺要の代理で出席したヘッド兼投手コーチの近藤貞雄がミーティングでのスカウト報告を聞いたときに引っかかるものを感じ[2]、鈴木に対するとにかくボールが速いの評価に近藤はこれほど魅力的な要素はないと判断し、中日の指名順番が回ってきたときに仲根が残っているにもかかわらず鈴木を1位指名した[2]。また、仲根とは本人が近鉄から移籍してきた1988年にチームメイトになった。
また鈴木自身も在京球団からの指名がなければ明治大学への進学が内定(島岡吉郎からとくに気に入られたという)していたが、全体2番目で中日にドラフト1位指名された。本人は在京球団でなかったことからプロ入りせずに明治大学に進学する心づもりだったが、近藤やスカウトなど中日のスタッフが自宅に挨拶にやってきて、父親が中日入りを承諾してしまった。これを受け、明治大学は辞退し、中日に入団することとなった[3]。本人によると、この一件で島岡から星野仙一(当時中日のエースで明大OB)に連絡が入り、それを受けて星野がルーキーの鈴木をキャンプでの練習パートナーに指名したりするなどし、色々気を遣ってくれたためにプロの水にすんなり馴れることができたのではないかと述懐している。

150km台の伸びのある快速球を武器に、ロングリリーフもこなす救援投手として活躍。

1974年には35試合に登板し、リーグ優勝に貢献。同年のロッテ・オリオンズとの日本シリーズでは3試合に登板。第2戦で先発するが3回に失策で崩れ1点を失い降板。しかし第3戦では松本幸行を7回途中からリリーフし、自身のシリーズ初セーブを記録した。第5戦でも先発し木樽正明と投げ合うが2点を失い惜敗、日本一はならなかった。ドラフトで指名した近藤は「孝政はドラゴンズの新リリーフエースとして、20年ぶりの優勝に貢献してくれたからよかったものの、彼がいつまでも二軍でうだつの上がらないままだったら、間違いなく僕の首は飛んでいた事だろう」と著書の中で記している[2]。当時スピードガンはまだ普及していなかったが、セリーグでは最も球の速い投手と言われていた。

1975年最多セーブ投手に輝く。

1976年最優秀防御率最優秀救援投手を獲得。この年の2.98という防御率は最優秀防御率のタイトルとしては現在もセ・リーグで最も悪い数字である(パ・リーグを含めると、2000年の戎信行が3.27、翌2001年のネイサン・ミンチーが3.26と、防御率が3点台で最優秀防御率を獲得している)。

1977年には先発とリリーフ兼任で自己最高の18勝を挙げ、最優秀救援投手のタイトルも獲得した。リリーフ投手ながら3年間連続(1975 - 1977年)で規定投球回数まで投げ続け、肘を痛める。

1982年5月23日の大洋戦(宮城球場)にて8回から登板し、9-6とリードしていた9回裏2死無走者から3連続単打で満塁となった挙げ句、長崎啓二に逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれ、マウンドでがっくり跪く。この一件が転機となり、以後は先発に転向。この年9勝を挙げてリーグ優勝に貢献。直球の緩急で勝負するなど技巧派投手へ転身。同年の西武との日本シリーズでは4試合に登板。第5戦で先発し4回を無失点と好投。しかしリリーフで起用された最終第6戦では、7回に片平晋作テリー・ウィットフィールドに連続本塁打を許し敗戦投手となった。

1984年に16勝を挙げカムバック賞を獲得。

1988年にもリーグ優勝を経験し、選手登録されながら同年の日本シリーズでの登板機会はなかった。 さらにシリーズ中コーチに打撃投手を指示され、シリーズ終了後星野仙一監督に来季の去就を尋ねられ、現役続行の意思を伝える。

1989年オーストラリアキャンプに選ばれるも二軍スタートとなり、ウエスタン・リーグでの開幕戦登板を命じられ、結局この年限りで現役を引退。引退を発表する記者会見で「バッターはごまかせても、ボールはごまかせない」と発言をする。その日の試合でリリーフで登板し、現役最後の勝ち星を挙げる。球団側も引退試合として1989年のナゴヤ球場でのラストゲームだった大洋戦に先発した。試合後にはチームメイトから胴上げがされている[4]

現役引退後

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1990年からは1994年までは、5年間フジテレビ東海テレビ東海ラジオ野球解説者、中日スポーツ野球評論家を務めた。

1995年から1997年までは、3年間中日の投手コーチを担当、1995年に監督の高木守道が休養し、ヘッドコーチ徳武定祐監督代行に就任、徳武がさっそくコーチ陣の配置転換に着手、2軍投手コーチの鈴木を1軍に昇格させた[5]

1996年から1997年までは再び中日の2軍投手コーチを務めた。

1998年からは2003年までは、6年間再びフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ野球解説者、中日スポーツ野球評論家となる。また、プロ野球マスターズリーグが開催されていた時期には、名古屋80D'sersに投手として参加していた。

2004年、3年契約で中日の一軍ヘッドコーチに就任し、7年ぶりの現場復帰。しかし、その後一軍投手チーフコーチ、二軍投手コーチと異動を繰り返した挙句に1年で退団した(後述)[6]

2005年からは2011年までは、7年間再び、東海テレビ・東海ラジオの野球解説者と中日スポーツの野球評論家になった。テレビの解説については、キー局・フジテレビとの兼務ではなく、東海テレビと専属契約を結んでいる。

2012年からは中日の二軍監督を務めた。

2013年10月4日に球団から来季の契約を結ばないことを通告[7]。そのため、シーズン終了後のフェニックスリーグでは、渡邉博幸が監督代行を務めた(後任の二軍監督は佐伯貴弘)。

2014年からは再び現在まで、東海テレビ・東海ラジオの野球解説者に復帰。2015年11月29日に中日のOB会長に就任した[8]名古屋市内のホテルで行われたOB会の壇上で「できれば8月の子供たちの夏休みの期間に首位と5ゲーム以内にいてほしい」と谷繁元信監督に要望した上で、「最下位覚悟で優勝を目指せ、ということ。若い選手たちがその気になったらとんでもない力を発揮する。8月に5ゲーム以内というのはそういうこと。その気にさせることができる」と強調した[9]

2016年からは、野球解説者・中日OB会長としての活動と並行しながら、「ドラゴンズベースボールアカデミー」(東海地区の小中学生に対する野球の振興を目的に同球団が運営するNPO法人)の初代校長を務める[10]。2023年11月26日に中日OB会長を退任した[11]

選手としての特徴

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若手時代は最速155km/hを記録した剛速球を武器にして力で押す投球スタイルであったが、6年目となる1978年の中盤ごろから肘の痛みに悩まされて直球の球速が140km/hほどにまで落ち込み、一時はトレード要員に数えられるまで追い込まれた。

そうした中で、当時投手コーチであった権藤博とともに新たな投球スタイルを模索し、権藤から「同じフォームから強・中・弱の三種類の直球」を投げて緩急をつけて打者のタイミングを外す投球(チェンジ・オブ・ペース)をするよう提案され、これを習得することで衰えた球威をカバーして技巧派として復活を遂げた[12]

元阪神タイガースのランディ・バースに本塁打を12本打たれたが、これはバースが日本で対戦した投手の中で最多である。「一番いいバッターですからね、僕の中では」とバースを評しており、現役当時は先発登板前日にバースの顔が浮かんで寝られなかった事も何度もあったとのこと。ストライクを投げたら打たれると思い、1度だけ「少し休んでもらおう」と、バースの右膝を狙ってデッドボールを当てたことがあったが、バースは「OK!」と言って、かえって元気になったという[13]

人物

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2004年落合博満の監督就任に伴い、3年契約で中日の一軍ヘッドコーチに就任。しかし、ヘッドコーチの肩書は球団主導で行われ鈴木本人は『ヘッドコーチ』として受諾、落合は『投手コーチ』として打診、と双方での相違があり、結果、一軍投手チーフコーチに格下げされ、さらにシーズン途中には二軍投手コーチに異動となった。この際、球団側から建前として入院を勧められたが、これは断ったという[14]。結局、シーズン終了後に契約を残したまま1年で退団した[15]。この退団の理由については当時より「落合がチームの機密を漏らす者を嫌ったから」という噂が広まっており、後年に落合と森繁和らによって内情が明かされ[16][17]、鈴木本人もインタビューにて「_落合さんはマスコミにあまりしゃべらないでしょ。そしたら記者はみんな俺のところに来るでしょ。あっちがしゃべらないから、聞きにくるでしょ。何にもネタがなかったら、記者も仕事にならない。それなりにしゃべってやればいいじゃない。それも仕事だからね、プロの。そういうのもひとつ原因だったと思うよ。俺はただ監督の手伝いをしようと思っただけだったけど、ちょっと違っていたね。_」と振り返っている[18]

元女優の寺島まゆみとは血縁関係は無いが、遠い親戚の関係。

背番号29は、実家が肉屋であることに由来する(現在も兄嫁が営業している)。

小学校6年の時、東京都荒川区に在った東京スタジアムに初めて野球観戦に行った際に、鈴木がバックネットの金網に手をかけてロッテオリオンズの練習を見ていると、通りかかったロッテの捕手・醍醐猛夫から「危ないよ、怪我するからね」と言われた。後年、鈴木がプロ入りして中日ドラゴンズの投手になり、シーズンオフのイベントで醍醐に逢った際に東京スタジアムでの出来事を話したら、醍醐から「覚えているよ、あの時の子か」と驚かれたという[19]

1987年6月16日ナゴヤ球場での阪神戦で、打者としてセンターにゴロの打球を放ったが、北村照文の素早い一塁送球によってセンターゴロでアウトになったことがある。

公式戦において長嶋茂雄一茂親子両方と対戦経験がある唯一の投手である(オープン戦も含めると山田久志も経験者)

詳細情報

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年度別投手成績

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年度 球団 登板 先発 完投 完封 無 四 球 勝利 敗戦 セ 丨 ブ ホ 丨 ル ド 勝率 打者 投 球 回 被 安 打 被 本 塁 打 与 四 球 敬遠 与 死 球 奪 三 振 暴投 ボ 丨 ク 失点 自 責 点 防 御 率 W H I P
1973 中日 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 3 1.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
1974 35 3 0 0 0 4 2 2 -- .667 253 64.0 53 10 14 3 0 53 2 0 26 25 3.52 1.05
1975 67 7 1 0 1 9 8 21 -- .529 583 148.1 113 15 25 10 6 117 0 0 53 49 2.98 0.93
1976 60 3 1 0 0 7 8 26 -- .467 589 148.1 116 24 27 6 2 118 2 1 54 49 2.98 0.96
1977 57 8 2 0 0 18 9 9 -- .667 701 170.0 156 33 35 5 4 131 3 1 76 71 3.76 1.12
1978 32 2 0 0 0 10 3 9 -- .769 326 82.0 64 9 21 1 0 46 2 0 22 19 2.09 1.04
1979 24 0 0 0 0 1 0 9 -- 1.000 182 44.2 40 7 14 1 1 33 2 0 18 15 3.00 1.21
1980 35 0 0 0 0 4 3 12 -- .571 224 55.2 52 5 9 2 0 36 0 0 17 17 2.73 1.10
1981 48 1 0 0 0 6 8 8 -- .429 321 76.0 83 10 18 8 2 43 2 0 27 27 3.20 1.33
1982 40 17 1 1 0 9 7 0 -- .563 538 133.0 137 13 24 8 1 56 2 1 52 46 3.11 1.21
1983 24 21 4 0 1 7 4 0 -- .636 535 130.2 135 17 15 1 0 48 0 0 65 53 3.65 1.15
1984 28 27 9 2 1 16 8 0 -- .667 706 168.0 192 24 33 4 0 60 1 0 89 76 4.07 1.34
1985 28 25 5 0 1 8 12 0 -- .400 706 158.1 204 16 40 5 1 66 0 0 83 73 4.15 1.54
1986 26 25 5 0 2 9 9 0 -- .500 653 162.2 156 23 33 5 3 78 2 0 60 57 3.15 1.16
1987 30 23 1 1 0 9 6 0 -- .600 553 130.0 147 19 29 3 1 60 1 0 70 65 4.50 1.35
1988 27 3 0 0 0 4 3 0 -- .571 231 54.2 59 5 13 3 2 34 1 0 25 19 3.13 1.32
1989 24 5 0 0 0 3 4 0 -- .429 252 61.0 61 10 14 1 2 27 0 0 32 32 4.72 1.23
通算:17年 586 170 29 4 6 124 94 96 -- .569 7356 1788.1 1768 240 364 66 25 1006 20 3 769 693 3.49 1.19

タイトル

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表彰

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記録

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初記録

節目の記録

その他の記録

背番号

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関連情報

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出演番組

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CM出演

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著書

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、294ページ
  2. ^ a b c 近藤貞雄著『退場がこわくて野球ができるか』、ドリームクエスト、2000年、p158-p160
  3. ^「飲みながらだもん」入団拒否を覆した“宴席交渉” まさかの来襲に「返事しちゃった」”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― (2023年4月25日). 2023年4月25日閲覧。
  4. ^<鈴木孝政 昭和ノート>(12) 星野仙一 最後も大将:中日新聞Web”. 中日新聞Web. 2021年4月16日閲覧。
  5. ^ 「すまない徳武さん」相次いだ監督休養……波乱の1995年 中日新聞、2022年4月30日閲覧
  6. ^ 「俺、いらないのかな」落合竜を1年で去ったワケ 「入院しろ」拒否して見せた“意地”
  7. ^ 来季の契約について中日球団公式サイト2013年10月4日配信
  8. ^ 鈴木孝政氏が中日OB会長就任「竜魂燃勝で頑張れ」 - 日刊スポーツ2015年11月29日配信
  9. ^ 中日 新OB会長に鈴木氏就任で落合GMとの雪解け期待 - 2015年11月30日 16時00分配信
  10. ^ 鈴木孝政氏がベースボールアカデミー校長に就任 - 中日球団公式サイト2015年12月16日配信
  11. ^ 中日ドラゴンズOB会、鈴木孝政会長が退任し小松辰雄さんが新会長に「何とかバックアップできるようにやっていきたい」 - 中日スポーツ東京中日スポーツ
  12. ^ 鈴木孝政昭和ノート⑪ 権藤博復活への金言 (中日新聞2020年6月13日朝刊21頁)
  13. ^地方に行くと、運転手さんに取材するのが大好きです。名物も、店の情報も。 元中日ドラゴンズ投手・野球解説者 鈴木孝政さん”. 名タクeye. 名鉄交通. 2023年10月12日閲覧。
  14. ^ 「俺、いらないのかな」落合竜を1年で去ったワケ 「入院しろ」拒否して見せた“意地”
  15. ^ 2012年に刊行された森繁和の著書『参謀』では直接、当人の事を書いた訳では無いのだが、就任したばかりの当時の落合監督が「ヘッドじゃない」という記述と後述の配置転換の後退団したとなっている事から鈴木の事と思われる。
  16. ^落合博満氏 監督最初の組閣「イメージ通りとそうでない2通り…(情報を)漏らす人もいてね」”. スポーツニッポン新聞社. 2023年12月28日閲覧。
  17. ^森繁和×二宮清純<前編>「今だから話せるオレ竜の真実」情報漏洩を防げ!”. 講談社. 2023年5月20日閲覧。
  18. ^「俺、いらないのかな」落合竜を1年で去ったワケ 「入院しろ」拒否して見せた“意地””. Full-Count. 2023年5月20日閲覧。
  19. ^ “【ボクの思い出STADIUM】東京スタジアム&駒沢球場”. 中日スポーツ. 中日新聞社. (2016年4月20日). https://web.archive.org/web/20160420095223/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/omoidestadium/CK2016042002100014.html 2016年9月17日閲覧。 [_リンク切れ_]

関連項目

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外部リンク

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業績
セントラル・リーグ カムバック賞 1974 石岡康三 1975 安仁屋宗八 1976 船田和英 1977 浅野啓司 1978 野村収 1979 三村敏之 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1984 鈴木孝政 1986 津田恒実 1987 杉浦享, 新浦壽夫 1988 有田修三 1989 西本聖, 中尾孝義 1990 吉村禎章, 遠藤一彦 1992 伊東昭光 1993 川崎憲次郎 1994 彦野利勝 1996 加藤伸一 1997 伊藤智仁 1998 斎藤隆 1999 遠山奬志 2000 種田仁 2001 成本年秀 2002 前田智徳 2003 平井正史, 鈴木健 2004 小久保裕紀 2008 平野恵一 2012 大竹寛 2015 館山昌平 2017 岩瀬仁紀 2018 松坂大輔 1974年制定。上記以外の年は該当者なし。 セントラル・リーグ最優秀防御率1950年代 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 梶岡忠義 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 渡辺省三 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960年代 1960 秋山登 1961 権藤博 1962 村山実 1963 柿本実 1964 G.バッキー 1965 金田正一 1966 堀内恒夫 1967 権藤正利 1968 外木場義郎 1969 江夏豊 1970年代 1970 村山実 1971 藤本和宏 1972 安田猛 1973 安田猛 1974 関本四十四 1975 安仁屋宗八 1976 鈴木孝政 1977 新浦寿夫 1978 新浦寿夫 1979 平松政次 1980年代 1980 松岡弘 1981 江川卓 1982 斉藤明夫 1983 福間納 1984 小林誠二 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990年代 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 盛田幸妃 1993 山本昌広 1994 郭源治 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 大野豊 1998 野口茂樹 1999 上原浩治 2000年代 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 桑田真澄 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 三浦大輔 2006 黒田博樹 2007 高橋尚成 2008 石川雅規 2009 チェン 2010年代 2010 前田健太 2011 吉見一起 2012 前田健太 2013 前田健太 2014 菅野智之 2015 K.ジョンソン 2016 菅野智之 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2019 大野雄大 2020年代 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 青柳晃洋 2023 村上頌樹 2024 髙橋宏斗 セントラル・リーグ最多セーブ投手及び最優秀救援投手1970年代 1974 星野仙一 1975 鈴木孝政 1976 鈴木孝政 1977 鈴木孝政 1978 新浦寿夫 1979 江夏豊 1980年代 1980 江夏豊 1981 角三男 1982 山本和行 1983 斉藤明夫 1984 山本和行 1985 中西清起 1986 斉藤明夫 1987 郭源治 1988 郭源治 1989 津田恒実 1990年代 1990 与田剛 1991 大野豊 1992 佐々木主浩 1993 石毛博史 1994 高津臣吾 1995 佐々木主浩 1996 佐々木主浩 1997 佐々木主浩 1998 佐々木主浩 1999 高津臣吾 2000年代 2000 E.ギャラード 2001 高津臣吾 2002 E.ギャラード 2003 高津臣吾 2004 五十嵐亮太 2005 岩瀬仁紀 2006 岩瀬仁紀 2007 藤川球児 2008 M.クルーン 2009 岩瀬仁紀 2010年代 2010 岩瀬仁紀 2011 藤川球児 2012 岩瀬仁紀, T.バーネット 2013 西村健太朗 2014 呉昇桓 2015 T.バーネット, 呉昇桓 2016 澤村拓一 2017 R.ドリス 2018 山﨑康晃 2019 山﨑康晃 2020年代 2020 R.スアレス 2021 R.スアレス 2022 R.マルティネス 2023 岩崎優 2024 R.マルティネス 1976年から2004年までは最優秀救援投手(セーブポイント数による選出) 中日ドラゴンズ開幕投手1930年代 1936春夏 牧野潔 1936秋 加藤智男 1937春 森井茂 1937秋 森井茂 1938春 松尾幸造 1938秋 森井茂 1939 松尾幸造 1940年代 1940 村松幸雄 1941 森井茂 1942 河村章 1943 松尾幸造 1944 森井茂 1946 森井茂 1947 松尾幸造 1948 服部受弘 1949 服部受弘 1950年代 1950 清水秀雄 1951 近藤貞雄 1952 大島信雄 1953 杉下茂 1954 石川克彦 1955 石川克彦 1956 杉下茂 1957 伊奈努 1958 中山俊丈 1959 伊奈努 1960年代 1960 伊奈努 1961 板東英二 1962 柿本実 1963 河村保彦 1964 河村保彦 1965 柿本実 1966 山中巽 1967 小川健太郎 1968 小川健太郎 1969 小川健太郎 1970年代 1970 小川健太郎 1971 伊藤久敏 1972 水谷寿伸 1973 稲葉光雄 1974 星野仙一 1975 松本幸行 1976 星野仙一 1977 松本幸行 1978 星野仙一 1979 星野仙一 1980年代 1980 藤沢公也 1981 三沢淳 1982 小松辰雄 1983 小松辰雄 1984 鈴木孝政 1985 小松辰雄 1986 郭源治 1987 杉本正 1988 小松辰雄 1989 小野和幸 1990年代 1990 西本聖 1991 小松辰雄 1992 郭源治 1993 今中慎二 1994 今中慎二 1995 今中慎二 1996 今中慎二 1997 山本昌 1998 山本昌 1999 川上憲伸 2000年代 2000 野口茂樹 2001 山本昌 2002 山本昌 2003 川上憲伸 2004 川崎憲次郎 2005 川上憲伸 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 川上憲伸 2009 浅尾拓也 2010年代 2010 吉見一起 2011 M.ネルソン 2012 吉見一起 2013 吉見一起 2014 川上憲伸 2015 山井大介 2016 大野雄大 2017 大野雄大 2018 小笠原慎之介 2019 笠原祥太郎 2020年代 2020 大野雄大 2021 福谷浩司 2022 大野雄大 2023 小笠原慎之介 2024 柳裕也
中日ドラゴンズ - 1972年ドラフト指名選手
指名選手 1位:鈴木孝政 2位:片貝義明 3位:谷木恭平 4位:田野倉利男 5位:伊藤弘利(入団拒否) 6位:豊島寛 7位:辻哲也
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