長沢節 (original) (raw)

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ながさわ せつ長沢 節
生誕 長沢昇(ながさわ のぼる) (1917-05-12) 1917年5月12日福島県(現・福島県会津若松市)
死没 (1999-06-23) 1999年6月23日(82歳没)
死因 脳挫傷(自転車の転倒による事故死)
国籍 日本の旗 日本
出身校 文化学院(美術科卒業)
職業 イラストレーター 水彩画家 デザイナー エッセイスト ファッション評論家 映画評論家
活動期間 1954年 - 1999年6月23日
著名な実績 日本におけるファッションイラストレーターの草分け。
影響を受けたもの 渡辺菊二
影響を与えたもの 花井幸子 渡辺雪三郎[1]
受賞 新作家賞 第8回ミモザ賞(1996年) 毎日ファッション大賞鯨岡阿美子賞(1998年[2]
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長沢 節(ながさわ せつ、1917年5月12日 - 1999年6月23日)は、日本のイラストレーター水彩画家デザイナーエッセイストファッション評論家映画評論家セツ・モードセミナー創設者[3]。 日本のファッション・イラストレーターの草分け[1]

本名は、長沢 昇(ながさわ のぼる)。

福島県会津若松市に生まれる。

小学校時代、画家で小学校教師の渡辺菊二と出会う。会津中学入学。

軍事教練をボイコットした為、官立校の東京美術学校(東京芸大)への受験資格を失う。文化学院へ入学。卒業後水彩画家へ。

春日部たすく画伯と親交。戦前から中原淳一の推薦で女性誌『新女苑』にデビュー。『それいゆ』や『ひまわり』といった雑誌にイラストやエッセイを掲載。当時セツが書いた小説が親交のあった三島由紀夫の目に留まる。

昭和初期に池袋モンパルナスと呼ばれたすずめヶ丘のアトリエ村に住む時期もあった。戦時中はやせこけた画風から軍部に執筆停止処分を受ける。新作家賞受賞(その他は辞退)。

戦後の日本ファッション界に当時としては刺激的なスタイル画で一世を風靡。アドセンターの依頼でプレタポルテ運動のため日本ではじめてのファッションショーを開く。水彩連盟にスタイル画(現・キッシュアート)部門を創設。

1967年、男性にスカートを提案した「モノセックス・ショー」を開く。賛辞や批判があったが革命的だと騒ぎになる。男女のペアが同じスカート・衣装で揃えるという意匠では「観客は初めのうちだけ、果たしてどっちが美しいか?比べて見ていますが、やがて男女の違いを全く意識しなくなってしまうだろうという私の計算だったのです。1人1人のパーソナリティ(人格)こそがなによりも優先して尊重されなければならないのだと私は絶叫したのでした。(長沢節)」[4]

主催する学校セツ・モードセミナーから、様々な分野の多くの優れた人材を輩出。服飾雑誌『装苑』で「セツ・シネマセミナー」を27年間連載。

山下充春日部洋星信郎初川良ほか6人で絵画団体「サンチマン・ヌーボー」を結成。

生涯独身を通す。「自由で上品な美しさ」というセツ美学を持つ。

(その他の受賞は全て辞退していた)

  1. ^ a b 長谷川陽子 2017.
  2. ^ 20世紀日本人名事典 「長沢 節」の解説『長沢 節』 - コトバンク
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長沢節」の解説『長沢節』 - コトバンク
  4. ^ 『美の壺・スカート』NHKEテレ、2019年8月25日放送(再放送8月29日)2019年9月28日閲覧
  5. ^ a b cセツ・モードセミナー閉校前に現校長が語る「長沢節」という人生”. FASHIONSNAP.COM (2017年4月15日). 2022年7月29日閲覧。