関藤碩衛 (original) (raw)
関藤碩衛
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日本の政治家関藤碩衛せきどう ひろえ | |
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生年月日 | 1871年7月24日 |
出生地 | 倉敷県小田郡陶山村(現:笠岡市) |
没年月日 | (1957-05-09) 1957年5月9日(85歳没) |
出身校 | 関西学館 |
岡山県(旧)倉敷町長 | |
在任期間 | 1925年4月21日 - 1927年3月31日 |
岡山県(新)倉敷町長 | |
在任期間 | 1927年4月1日 - 1928年3月31日 |
初代 岡山県倉敷市長 | |
在任期間 | 1928年4月1日 - 1929年1月6日 |
岡山県日比町長 | |
在任期間 | 1930年4月1日 - 1940年8月2日 |
初代 岡山県玉野市長 | |
在任期間 | 1940年9月28日 - 1942年5月11日 |
その他の職歴 | |
**岡山県赤磐郡長**(不明 - 不明) | |
**岡山県浅口郡長**(不明 - 不明) | |
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関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年6月7日[1])- 1957年(昭和32年)5月9日[1])は、岡山県小田郡陶山村(現・笠岡市)出身の官吏、地方政治家。初代倉敷市長。
1871年6月7日、小田郡陶山村に生まれる[2]。私立関西学館を卒業し、小田郡書記となる[2]。
その後、岡山県庁へ入り県知事官房主事まで昇進したが辞任し、1921年、赤磐郡長となる[2]。その後、浅口郡長、倉敷町長を歴任[2]。1928年、市制が発布され、初代倉敷市長に就任[2][3]する。その後日比町長となる[2]。
1940年、日比町と宇野町が合併し玉野市となり初代市長に就任する[2][4]。初代市長に2度就任することは稀な出来事であった[2]。戦後、公職追放となる[5]。
追放解除後の1957年5月9日死去。享年85。
- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、335頁。
- ^ a b c d e f g h 『岡山人名辞典』220頁。
- ^ 『目でみる岡山の昭和Ⅰ』12頁。
- ^ 『目でみる岡山の昭和Ⅰ』86頁。
- ^ 公職追放の該当事項は「翼賛支部長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、552頁。NDLJP:1276156。 )
- 総理庁官房監査課 監修 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年。
- 吉岡三平 監修 『岡山人名辞典』 日本文教出版、1978年。
- 蓬郷巌 監修 『目でみる岡山の昭和Ⅰ』 (岡山文庫 128) 日本文教出版、1987年。
- 岡山県出身の人物一覧
表話編歴 玉野市長 | |
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官選 | 関藤碩衛1940.9-1942.5 時実秋穂1942.6-1946.11 |
公選 | 太田尚衛1947.4-1961.9 藤原武1961.10-1965.10 井上澄雄1965.10-1977.10 杉本通雄1977.10-1993.10 山根敬則1993.10-2005.10.28 黒田晋2005.10.29-2021.10.28 柴田義朗2021.10.29- |
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