阪本清一郎 (original) (raw)
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阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年(明治25年)1月1日 - 1987年(昭和62年)2月19日[1])は、日本の部落解放運動家、社会運動家、政治家。全国水平社創設者の1人。「水平社」「糺弾」の名称の考案者[2][3]。
奈良県南葛城郡掖上村柏原(現在の御所市)出身。生家は被差別部落のなかでも裕福な地主で、膠製造業を営む[1]。
東京では同郷の後輩西光万吉と行動を伴にし、西光が病に倒れたのを機に故郷に戻る。西光らと燕会を結成してセレベス島移住を計画するが挫折、その後運動を部落解放に転じさせ、1922年に全国水平社を結成する。その際、「水平社」の名称を考案したのが阪本であった[4]。
その後、運動内においては中間的な立場に立ち、組織の仲裁役となった。この間、1927年に労働農民党の中央委員に選ばれ、1929年に掖上村会議員に当選している。
その後、西光とともに大日本国家社会党に入り、国家主義に傾倒するとともに経済更生運動や協同組合運動に関わる。
戦後、部落解放同盟中央委員となる[1]。その後部落解放同盟と水平社出身者との対立が深刻化すると、1965年に木村京太郎らとともに荊冠友の会を結成、1975年に北原泰作らとともに国民融合をめざす部落問題全国会議を結成して解放同盟と対立する動きを見せた。
1970年代には、東大部落研の蛮行を聞いて「水平運動は、人間を尊敬することによって自ら解放せんとする者の集団運動であった。平然と人殺しをするような集団に、部落解放を語る資格はない」[5]と述べたとされる。
阪本家
親戚
- ^ a b c 阪本 清一郎とはコトバンク。2018年6月9日閲覧。
- ^ 木村京太郎『水平社運動の思い出』下巻253頁
- ^ 福田雅子『証言・全国水平社』(日本放送出版協会、1985年)
- ^ 朝治武 2013, p. 106.
- ^ 『資料集 怒りと友情のスクラム』154頁(部落問題研究所)
- ^ 東義和『同和教育の歴史的研究』61頁。
- ^ 『帝国信用録 第32版』奈良県コ、サ、シ之部7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年8月31日閲覧。
- ^ 『全国工場通覧』687頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月21日閲覧。
- ^ 木村京太郎『水平社運動の思い出』下巻152頁。
- ^ 住井すゑ『時に聴く: 反骨対談』45頁。
- 商工省大臣官房統計課編『全国工場通覧』日刊工業新聞社 1931年
- 帝国興信所編『帝国信用録 第32版』帝国興信所 1939年
- 師岡佑行「阪本清一郎」『日本史大事典 3』(平凡社 1993年) ISBN 978-4-582-13103-1
- 川村善二郎「阪本清一郎」『国史大辞典 15』(吉川弘文館 1996年) ISBN 978-4-642-00515-9
- 鈴木哲雄「阪本清一郎」『日本歴史大事典 2』(小学館 2000年) ISBN 978-4-09-523002-3
- 朝治武『差別と反逆 平野小剣の生涯』筑摩書房、2013年。ISBN 978-4-480-88529-6。