阿波野秀幸 (original) (raw)

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阿波野 秀幸

読売ジャイアンツコーチ時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県横浜市保土ケ谷区(現:旭区
生年月日 (1964-07-28) 1964年7月28日(60歳)
身長体重 178 cm75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1986年 ドラフト1位
初出場 1987年4月12日
最終出場 2000年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
横浜市立桜丘高等学校 亜細亜大学 近鉄バファローズ (1987 - 1994) 読売ジャイアンツ (1995 - 1997) 横浜ベイスターズ (1998 - 2000)
コーチ歴
読売ジャイアンツ (2001 - 2005) 横浜ベイスターズ (2006) 住友金属鹿島 読売ジャイアンツ (2012 - 2018) 中日ドラゴンズ (2019 - 2021) 読売ジャイアンツ (2023)
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阿波野 秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日 - )は、神奈川県横浜市保土ケ谷区(現:旭区)出身[注 1]の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ野球解説者マネジメント契約先はスポーツビズ

父親が地元の少年野球チームでコーチをしていたその影響から、小学4年生の時から野球を始める[1]横浜市立鶴ヶ峯中学校時代、東海大学付属相模高等学校からの誘いを受けていたにもかかわらず[2]、あえて公立の横浜市立桜丘高等学校を志望し、塾通いをして文武両道を目指した。桜丘高校では3年夏の神奈川大会は4回戦で敗退し、甲子園出場経験はなかった。

高校卒業後は亜細亜大学に進学(同期にパンチ佐藤、1年後輩に与田剛がいる)。東都大学野球リーグで通算62試合登板、32勝17敗、防御率1.83、282奪三振。最高殊勲選手に1度、最優秀投手に3度、ベストナインに3度選ばれた。4年秋の9勝はリーグタイ記録で、駒澤大学との優勝決定戦では延長13回を投げて自身も4安打を放つが敗れた。

1986年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツ横浜大洋ホエールズ近鉄バファローズの3球団が1位指名で競合。阿波野の意中球団は巨人か大洋と言われていたが、抽選の結果、交渉権確定のくじを引き当てたのは、「指名するという事前のあいさつが一切なかった[1]」という近鉄だった。当時の近鉄監督岡本伊三美は、亜細亜大の監督から聞いた話として「試合で打たれると頭を壁にぶつけて悔しがっていた」「打者の膝から上の球はきませんよ」[3]などと、また阿波野の入団前に接した際に、阿波野が関西のことはわからず、「近鉄という会社はどこにあるのですか」ときいてきた、と振り返っている[3]。そういうこともあって、交渉権が近鉄に決まった時には「呆然とした」という[1]。亜細亜大監督の内田俊雄は「挨拶もしないままで指名してくるなんてあり得ない」としてこのドラフト当日は祝福の胴上げなどせずそのまま帰し、同じく総監督の矢野祐弘は、しばらくはグラウンドに近鉄のスカウトが来ても追い返していたという[1]。担当スカウトは河西俊雄[4]。阿波野を外した巨人は木田優夫、大洋は友利結を再指名で獲得。

1987年は15勝・両リーグ最多の201奪三振・249.2イニングを記録。1986年ドラフト1位でプロ入りした同期の西崎幸広日本ハム)と熾烈な新人王争いを繰り広げた。阿波野は32試合登板で15勝12敗・防御率2.88、西崎は30試合登板で15勝7敗・防御率2.89と甲乙つけがたい成績を残したが、結果は大差がついて阿波野が新人王に選出された。両者は共に「トレンディエース」と呼ばれ(「トレンディエース」については西崎幸広参照)、特に女性に高い人気を誇った。

1988年もエースとして14勝を挙げた。ナゴヤ球場でのオールスターゲーム第2戦先発し3回を被安打0自責点0奪三振3を記録。レギュラーシーズン優勝のかかったロッテオリオンズとの川崎球場でのダブルヘッダー、いわゆる「10.19」に、両試合とも当時の抑え吉井理人の後を受け連投。この試合の2日前、阿波野は対阪急戦で完投しており疲労が残っていた。第1試合では9回、1点リードで二死満塁のピンチを迎えたが、森田芳彦を三振にしとめ、逃げ切った。このとき阿波野は帽子を鷲掴みにしてガッツポーズした。しかし、第2試合に1点リードの8回、高沢秀昭に痛恨の同点本塁打を打たれた。この後、ショックで記憶が飛び、なぜ捕手山下和彦のサインで指示された自分のストレートを信頼できなかったかと悔いが残ったという[5]

その後9回無死一・二塁で古川慎一牽制球で刺した記憶もはっきりしていなかったというが、ここでロッテ監督の有藤道世が判定を巡り9分間にわたって抗議を続け試合は中断したことも影響し、第2試合は引き分けに終わり近鉄は優勝を逃した。

10.19で苦い思いをしたが本来はロッテを得意としていた。この1988年は4勝1敗、翌1989年は4勝0敗の成績を残しており、通算67勝のうち21勝をロッテから挙げている。

1989年は、前年の雪辱を特に意識して迎えたという。終盤、10月12日のダブルヘッダー第2戦や優勝決定の場面で登板した。10月12日について、阿波野は10.19でも負けていないことからダブルヘッダーと決まった時点で「よーし」となったと振り返っている[_要出典_]。優勝決定の場面では、前年「10.19」での思いからストレートを続けたという[6]最多勝(19勝[7])、最多奪三振(183個)のタイトルを獲得し、近鉄の優勝に貢献。巨人との日本シリーズでは第1戦・第5戦に先発し同い年の斎藤雅樹と2度も投げ合い、第1戦の完投勝利を含む15イニングを投げ、1勝1敗、5失点の成績で、優秀選手に選ばれた。最多勝と最多奪三振のタイトル料がプラスされた結果、入団からわずか3年で年俸7000万円に上がり、「入団当時(580万円)に比べたら、想像がつかない額ですよ」[8]と述べていた。

1990年からボーク判定が厳格化され、その影響で当時近鉄と毎年激しい優勝争いを繰り広げていた西武監督の森祇晶、そして当時の三塁ベースコーチの伊原春樹は阿波野の牽制がボークではないかと執拗に抗議。その結果として阿波野は本来のフォームを崩しこの年以降成績が下降線を辿るようになったとされているが[9][10]、先発で連続完投後にリリーフで連投した10.19も含め入団1年目から酷使された影響という指摘もある[11]。パ・リーグ審判員山崎夏生は、当時の阿波野は審判員の間でブラックリストに入っていたと語っている[12]。ボークと指摘されるようになってからシーズン中にクイックモーションの練習を多くしたところ左肘の靭帯を損傷してしまい、加えて野茂英雄が入団したことで焦りが生じ状態をより悪化させてしまったのが原因であると語っている。更にこの年の終盤試合中に左膝にライナー性の打球が当たり骨折。この時点で9勝を挙げてたため4年連続二桁勝利だけでもしたいと無理を押して登板した結果下半身をかばいながらの投球は肩肘に大きな負担を掛けてしまったとも後に語ってる[13]。一時は、トミー・ジョン手術をすることも検討したが、ウエイトトレーニングで肘の周りの筋肉を鍛える方法を選択し、これにより投球フォームも変えることを余儀なくされた[14]

西崎幸広とは1987年から1990年までの合計勝利数が同じ58勝で、まさにライバルと呼ぶにふさわしい数字が残っている。この年の5月20日の対ロッテ戦で阿波野は勝利投手となり通算50勝に到達しているが、同日、西崎も対ダイエー戦において勝利投手となり同じく通算50勝となった[15]

監督の仰木彬は阿波野を信頼し続け、1991年には野茂を抑えて阿波野を3年連続の開幕投手に抜擢している。

1992年にはリリーフも兼務。また、仰木が近鉄の指揮を取った最後の試合の先発投手は阿波野であった。仰木によれば「一番投げさせてやりたい投手を使った」という[_要出典_]。しかし、成績が上向くことはなかった。

1994年オフ、仰木の後任監督の鈴木啓示との確執もあり[注 2]、シーズンオフに香田勲男との交換トレード読売ジャイアンツへ移籍(鈴木との確執は野茂英雄吉井理人などにも同様のエピソードがある)。

1995年からは中継ぎ投手として再起を目指した。左投手の登板数ではチームトップの24試合だったが0勝3敗に終わり、防御率も4点台だった。

1996年はシーズン終盤に一軍で好投。河野博文川口和久宮本和知達とレフティーズを結成し、恩師仰木が監督を務めるオリックスとの日本シリーズでも登板した。巨人での3年間は殆ど二軍暮らしで一軍未勝利に終わった。

1997年シーズンオフに永池恭男との交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍。

近鉄時代に投手コーチを務め、阿波野の絶頂期を知る監督の権藤博が阿波野を積極的に起用した。

1998年は主に中継ぎとして自己最多の50試合に登板するなど、荒井幸雄らと共に復活を果たし、「権藤再生工場」第1号と呼ばれた。1998年の日本シリーズ第6戦では8回途中に2番手で登板して1989年第1戦以来の勝利投手となり、チームも日本一を決め、後に「すべてが10.19からつながってるんですよ」と振り返っている[16]。また、同シリーズは近鉄時代のライバルだった西崎幸広が日本ハムから西武に移籍した初年度で中継ぎ登板していたこともあって投げ合いが期待されており、第3戦で阿波野が7回裏に登板し、その後9回表に西崎が登板したものの、結局実現することはなかった。

1999年、開幕からリリーフとして登板し、4月8日の対巨人1回戦では8年ぶりのセーブを記録した。しかし、チームは投手の駒不足が深刻化し、オールスター明けには先発ローテーションに組み込まれ、8月3日の広島東洋カープ戦で6年ぶりの先発勝利を記録している[17]。しかしながら、先発としてはこの1勝に終わり(先発では8試合、1勝3敗、防御率6.61)通算でも40試合登板、2勝8敗1セーブ、防御率6.32と大きく成績を落とした。

権藤が監督を辞めて新監督の構想から外れ悩んだが潮時だと思い2000年に引退[18]。ドラフトで競合1位指名を受けた3球団全てに在籍した。また、現役時代に在籍した3球団全て優勝を経験し、日本シリーズに出場を果たした。3球団からの日本シリーズ出場は最多タイ記録[注 3]であるが、ドラフト指名された全球団で出場したのは阿波野だけである。「先発の立場でもリリーフの立場でも優勝に貢献できたので嬉しかったですよ。故障した時に今の時代トミージョン手術を受け違う結果になっていたのかなと思います。オフシーズンの過ごし方も見直したいですね。当時のパリーグはイベントが多くて体を休める暇がなかった。」[18]と述べている。

2001年から2003年まで巨人の二軍投手コーチ。

2004年から2005年まで巨人の一軍投手コーチ(2004年はブルペン、2005年はベンチ)を務めたが4.50、4.80と2年連続で球団ワーストの防御率を更新し、2005年はチーム防御率リーグ最下位[19]で順位は5位に終わった。

2006年は横浜の一軍投手コーチ務めたがリーグ最下位の防御率4.25で[20]、2年ぶりの最下位に終わった。

2007年からはテレビ東京野球解説者に就任(札幌テレビスカイ・A sports+JSPORTSフジテレビONEプロ野球ニュース」にも本数契約で出演)。また同年2月1日から2011年まで住友金属鹿島硬式野球部の投手コーチに就任[21]、同部で、後に楽天に入団する井坂亮平、横浜に入団する加賀繁らを指導した。

2011年11月4日、二軍コーチとして巨人に復帰することが発表され[22]、11月19日に就任会見[23]

2015年10月29日、2016年から巨人に新設される三軍の投手コーチに就任することが発表された[24]

2018年限りで退団[25]

2018年10月29日、大学の後輩である監督の与田剛に招聘され、2019年から中日ドラゴンズの一軍投手コーチに就任することが発表された[26]。同年、救援防御率は4.93から3.32へと劇的に向上し、チーム防御率も4.36から3.72に大きく改善した[27]。2021年は12球団トップのチーム防御率3.22を記録し[28]、同年退団した。

2022年フジテレビミヤギテレビtvk日テレジータスの野球解説者を務める。

同年10月13日、2023年から一軍投手チーフコーチとして巨人に復帰することが発表された[29]。チームの先発防御率は前年と同じリーグ4位、3.64から3.21へと改善し、その一方で救援防御率はリーグ最下位の3.82で、前年の3.78から悪化する結果となった[30]。同年シーズン終了後の10月10日、阿波野自身の申し入れにより同年限りでの退任が発表された[31]

2024年からはジャイアンツアカデミーのコーチを務める[32]。 その傍らミヤギテレビ・J SPORTSなど野球解説者に復帰する。

近鉄時代の同僚である佐野慈紀中根仁によると、大のイタズラ好きであったという[33]

山田久志とは、阿波野の両親がともに山田と同郷の能代市出身者だったこともあり、新人時代から親交が深かった。[_要出典_]

年度 球団 登板 先発 完投 完封 無 四 球 勝利 敗戦 セ 丨 ブ ホ 丨 ル ド 勝率 打者 投 球 回 被 安 打 被 本 塁 打 与 四 球 敬遠 与 死 球 奪 三 振 暴投 ボ 丨 ク 失点 自 責 点 防 御 率 W H I P
1987 近鉄 32 30 22 3 4 15 12 0 -- .556 1002 249.2 211 27 58 2 4 201 3 0 86 80 2.88 1.08
1988 29 27 15 3 0 14 12 1 -- .538 898 220.1 199 21 51 6 5 181 1 0 66 64 2.61 1.13
1989 29 28 21 5 0 19 8 1 -- .704 955 235.2 187 25 80 4 4 183 4 0 75 71 2.71 1.13
1990 25 24 10 0 1 10 11 1 -- .476 815 190.2 192 33 62 5 3 141 5 2 111 98 4.63 1.33
1991 13 6 0 0 0 2 2 1 -- .500 163 38.1 41 7 12 0 2 20 4 0 22 21 4.93 1.38
1992 19 16 2 0 0 6 6 0 -- .500 408 93.2 95 5 38 1 4 77 2 0 38 35 3.36 1.42
1993 22 4 0 0 0 1 3 0 -- .250 244 50.2 69 11 30 3 0 38 0 0 43 39 6.93 1.95
1994 6 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 58 10.1 22 2 6 1 0 9 1 0 14 14 12.19 2.71
1995 巨人 24 1 0 0 0 0 3 0 -- .000 139 29.1 33 2 19 2 2 26 2 0 19 14 4.30 1.77
1996 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 35 9.0 5 0 2 1 0 13 0 0 3 3 3.00 0.78
1997 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 1 0.0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----
1998 横浜 50 1 0 0 0 4 1 0 -- .800 237 54.0 50 6 22 1 4 44 3 2 29 28 4.67 1.33
1999 40 8 0 0 0 2 8 1 -- .200 295 62.2 79 10 24 0 6 41 1 0 49 44 6.32 1.64
2000 11 1 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 66 15.2 15 1 5 0 2 11 0 0 8 8 4.60 1.28
通算:14年 305 148 70 11 5 75 68 5 -- .524 5316 1260.0 1198 150 410 26 36 985 26 4 563 519 3.71 1.28

初記録

節目の記録

その他の記録

  1. ^ 幼少期に出身地域が保土ケ谷区から旭区へと再編。

  2. ^ 日本プロ野球トレード大鑑1936-2001(ベースボール・マガジン社)によると、鈴木監督の時は二軍で調整後に一軍に上がって一度打たれると次のチャンスを与えてもらえなかった。

  3. ^ 他には若生智男大毎阪神広島)、永尾泰憲ヤクルト・近鉄・阪神)、大宮龍男日本ハム中日・西武)、中尾孝義(中日・巨人・西武)、工藤公康(西武・ダイエー・巨人)、中嶋聡オリックス・西武・日本ハム)、岡島秀樹(巨人・日本ハム・ソフトバンク)の7人。

  4. ^ a b c d 週刊ベースボール 2023年12月4日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 阿波野秀幸・1』(59 - 61頁)

  5. ^【私の失敗(3)】阿波野秀幸、観客席で『球場1周』競走…「全員、退部だ!!」”. SANSPO.COM (2015年12月3日). 2021年8月26日閲覧。

  6. ^ a b 岡本伊三美 (2011). 岡本、少しは野球面白ぅなってきたか. SIC. ISBN 9784904955079

  7. ^近鉄入りの運命…死闘続きの阿波野vs西武/パ伝説”. 日刊スポーツ (2019年9月17日). 2021年8月26日閲覧。

  8. ^[1988年10月19日近鉄vs.ロッテ]阿波野秀幸「ホームランの後の記憶がないんです」”. Number (2005年4月28日). 2009年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月26日閲覧。

  9. ^ ベースボールマガジン 2009年3月号 52頁 -

  10. ^近鉄・加藤哲郎が明かした「巨人はロッテより弱い」発言の真相」『文春オンライン』2020年11月25日。2020年12月1日閲覧。

  11. ^プロ野球選手の「異常に安かった」バブル期の年俸 沢村賞投手に提示された“衝撃の額””. AERA dot. (2021年1月10日). 2021年1月10日閲覧。

  12. ^【4月22日】1990年(平2) 「ボークだ!」西武 仇敵近鉄・阿波野秀幸潰した”. スポーツニッポン (2012年4月22日). 2012年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月26日閲覧。

  13. ^近鉄の絶対的エース・阿波野秀幸はなぜ勝てなくなってしまったのか 「登板過多」「左膝の骨折」「西武からのクレーム」...”. web Sportiva (2024年7月13日). 2024年7月13日閲覧。

  14. ^西武OBも同情…菊池雄星に“2段モーション疑惑”なぜ今?”. 日刊ゲンダイ (2017年8月22日). 2021年8月26日閲覧。

  15. ^ 元パ審判員・山崎夏生氏と“トレンディエース”西崎幸広氏の時効話炸裂! 西崎さんも載っていた!?“審判員のブラックリスト”とは? - YouTube

  16. ^近鉄の絶対的エース・阿波野秀幸はなぜ勝てなくなってしまったのか 「登板過多」「左膝の骨折」「西武からのクレーム」... (2ページ目)”. web Sportiva (2024年7月13日). 2024年7月14日閲覧。

  17. ^【私の失敗(5)】阿波野秀幸、クイック練習を多くして左肘の靭帯損傷”. サンケイスポーツ (2015年12月5日). 2021年8月26日閲覧。

  18. ^【5月20日】1990年(平2)宿命の同期・阿波野秀幸と西崎幸広 50勝に同日到達”. スポーツニッポン (2008年5月14日). 2008年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月26日閲覧。

  19. ^ Sports Graphic Number790. 文藝春秋. (2011) p.p.58~59

  20. ^ 2000 ベースボール・レコード・ブック 101頁 1999年度主要記録集「6年ぶりの先発勝利」より。1993年4月14日の千葉ロッテマリーンズ戦以来である。

  21. ^ a b 週刊ベースボール2024年1月1日号、レジェンドを訪ねる、昭和時代の言い残し、阿波野秀幸④、61頁

  22. ^年度別成績 2005年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2021年8月26日閲覧。

  23. ^年度別成績 2006年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2021年8月26日閲覧。

  24. ^阿波野氏が巨人2軍投手コーチ就任へ 左腕育成を期待”. スポニチアネックス (2011年11月3日). 2021年8月26日閲覧。

  25. ^巨人コーチに阿波野氏ら=プロ野球」『朝日新聞』2011年11月4日。オリジナルの2013年12月11日時点におけるアーカイブ。2011年11月19日閲覧。

  26. ^【巨人】阿波野が7年ぶりコーチ復帰会見」『日刊スポーツ』2011年11月19日。2011年11月19日閲覧。

  27. ^来季の三軍コーチングスタッフについて”. 読売巨人軍公式サイト (2015年10月29日). 2021年8月26日閲覧。

  28. ^コーチングスタッフの退任について”. 読売巨人軍公式サイト (2018年10月22日). 2021年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月16日閲覧。

  29. ^中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース ★来季コーチングスタッフのお知らせ”. dragons.jp (2018年10月29日). 2018年10月29日閲覧。

  30. ^救援陣防御率4.93から3.32に向上も来季へは喜べない現状。2人の助っ人投手流出の可能性など不安は山積[中日2019検証・投手編]”. 中日スポーツ (2019年10月24日). 2019年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月26日閲覧。

  31. ^プロ野球順位表”. スポーツ報知. 2021年12月16日閲覧。

  32. ^来季のコーチングスタッフ について”. 読売巨人軍公式サイト (2022年10月13日). 2022年10月13日閲覧。

  33. ^【巨人】阿波野秀幸投手チーフコーチが退任へ…大久保博元コーチに続き投打のチーフが退任」『スポーツ報知』2023年10月10日。2023年10月10日閲覧。

  34. ^【巨人】阿波野秀幸コーチ、小笠原道大コーチ、石井昭男コーチが退任と発表」『日刊スポーツ』2023年10月10日。2023年10月10日閲覧。

  35. ^元木新校長、新コーチ就任のお知らせ”. 読売ジャイアンツ (2024年1月5日). 2024年1月19日閲覧。

  36. ^【近鉄黄金伝説】第一弾 今だから語れる "爆笑" 近鉄トーク”. YouTube. 2021年8月26日閲覧。

  37. ^ 『週刊ベースボール』1989年12月18日号

  38. ^【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者」『SANSPO.COM』産業経済新聞社、2016年11月23日。2017年9月8日閲覧。

業績
日本シリーズ優秀選手1950年代 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960年代 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970年代 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980年代 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990年代 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000年代 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010年代 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020年代 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 パシフィック・リーグ新人王1950年代 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1960年代 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970年代 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980年代 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990年代 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2000年代 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010年代 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020年代 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 記述のない年は該当者なし パシフィック・リーグ最多勝利投手1950年代 1950 荒巻淳 1951 江藤正 1952 野口正明 1953 川崎徳次 1954 宅和本司, 田中文雄 1955 宅和本司 1956 三浦方義 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960年代 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保征弘 1963 稲尾和久 1964 小山正明 1965 尾崎行雄 1966 米田哲也 1967 池永正明 1968 皆川睦男 1969 鈴木啓示 1970年代 1970 成田文男 1971 木樽正明 1972 山田久志, 金田留広 1973 成田文男 1974 金田留広 1975 東尾修 1976 山田久志 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 山田久志 1980年代 1980 木田勇 1981 今井雄太郎, 村田兆治 1982 工藤幹夫 1983 東尾修, 山内和宏 1984 今井雄太郎 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 山沖之彦 1988 渡辺久信, 西崎幸広, 松浦宏明 1989 阿波野秀幸 1990年代 1990 渡辺久信, 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野田浩司, 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 K.グロス 1996 K.グロス 1997 西口文也, 小池秀郎 1998 西口文也, 武田一浩, 黒木知宏 1999 松坂大輔 2000年代 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 涌井秀章 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010年代 2010 和田毅, 金子千尋 2011 D.ホールトン, 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平, 涌井秀章 2016 和田毅 2017 東浜巨, 菊池雄星 2018 多和田真三郎 2019 有原航平 2020年代 2020 千賀滉大, 石川柊太, 涌井秀章 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平伊藤大海 パシフィック・リーグ最多奪三振1950年代 1950 米川泰夫 1951 阿部八郎 1952 柚木進 1953 米川泰夫 1954 宅和本司 1955 河村久文 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960年代 1960 杉浦忠 1961 稲尾和久 1962 米田哲也 1963 稲尾和久 1964 尾崎行雄 1965 尾崎行雄 1966 田中勉 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970年代 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 成田文男 1974 鈴木啓示 1975 東尾修 1976 村田兆治 1977 村田兆治 1978 鈴木啓示 1979 村田兆治 1980年代 1980 木田勇 1981 村田兆治 1982 松沼博久 1983 山沖之彦 1984 佐藤義則 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 阿波野秀幸 1988 小川博 1989 阿波野秀幸 1990年代 1990 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 伊良部秀輝 1996 工藤公康 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000年代 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 松坂大輔 2004 新垣渚 2005 松坂大輔 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 杉内俊哉 2009 杉内俊哉 2010年代 2010 ダルビッシュ有 2011 ダルビッシュ有 2012 田中将大 2013 金子千尋 2014 則本昂大 2015 則本昂大 2016 則本昂大 2017 則本昂大 2018 則本昂大 2019 千賀滉大 2020年代 2020 千賀滉大, 山本由伸 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 1989年にタイトル制定 1989年 パシフィック・リーグ ベストナイン 阿波野秀幸 山下和彦 ブーマー.W 辻発彦 松永浩美 田辺徳雄 秋山幸二 / 藤井康雄 / R.ブライアント 門田博光 パシフィック・リーグ ゴールデングラブ賞(投手)1970年代 1972 足立光宏 1973 成田文男 1974 足立光宏 1975 足立光宏 1976 足立光宏 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980年代 1980 木田勇 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 東尾修 1984 東尾修 1985 東尾修 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 西崎幸広 1989 阿波野秀幸 1990年代 1990 渡辺久信 1991 郭泰源 1992 郭泰源 1993 野田浩司 1994 工藤公康 1995 工藤公康 1996 西崎幸広 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 松坂大輔 2000年代 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 西口文也 2003 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 松坂大輔 2006 松坂大輔 2007 ダルビッシュ有 2008 ダルビッシュ有 2009 涌井秀章 2010年代 2010 涌井秀章 2011 田中将大 2012 田中将大 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 涌井秀章 2016 涌井秀章 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 千賀滉大 2020年代 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞 日本シリーズにおけるパシフィック・リーグ出場チーム第1戦先発投手1950年代 1950 若林忠志 1951 江藤正 1952 大神武俊 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 柚木進 1956 川崎徳次 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960年代 1960 中西勝己 1961 J.スタンカ 1962 土橋正幸 1963 稲尾和久 1964 J.スタンカ 1965 杉浦忠 1966 渡辺泰輔 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 石井茂雄 1970年代 1970 木樽正明 1971 足立光宏 1972 山田久志 1973 江本孟紀 1974 金田留広 1975 足立光宏 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 井本隆 1980年代 1980 井本隆 1981 高橋一三 1982 松沼博久 1983 松沼博久 1984 山田久志 1985 松沼博久 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 渡辺久信 1989 阿波野秀幸 1990年代 1990 渡辺久信 1991 工藤公康 1992 渡辺久信 1993 工藤公康 1994 渡辺久信 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000年代 2000 若田部健一 2001 J.パウエル 2002 松坂大輔 2003 斉藤和巳 2004 石井貴 2005 清水直行 2006 ダルビッシュ有 2007 ダルビッシュ有 2008 涌井秀章 2009 武田勝 2010年代 2010 成瀬善久 2011 和田毅 2012 吉川光夫 2013 則本昂大 2014 J.スタンリッジ 2015 武田翔太 2016 大谷翔平 2017 千賀滉大 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020年代 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 近鉄バファローズ開幕投手1950年代 1950 黒尾重明 1951 関根潤三 1952 沢藤光郎 1953 関根潤三 1954 田中文雄 1955 武智文雄 1956 武智文雄 1957 武智文雄 1958 山下登 1959 大津守 1960年代 1960 大津守 1961 蔦行雄 1962 板東里視 1963 徳久利明 1964 久保征弘 1965 徳久利明 1966 徳久利明 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970年代 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 鈴木啓示 1974 鈴木啓示 1975 神部年男 1976 神部年男 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 鈴木啓示 1980年代 1980 鈴木啓示 1981 柳田豊 1982 柳田豊 1983 谷宏明 1984 鈴木啓示 1985 鈴木啓示 1986 村田辰美 1987 村田辰美 1988 阿波野秀幸 1989 阿波野秀幸 1990年代 1990 阿波野秀幸 1991 阿波野秀幸 1992 小野和義 1993 野茂英雄 1994 野茂英雄 1995 山崎慎太郎 1996 高村祐 1997 高村祐 1998 高村祐 1999 岡本晃 2000年代 2000 B.ウォルコット 2001 門倉健 2002 S.バーグマン 2003 J.パウエル 2004 岩隈久志 2004年12月1日にオリックス・バファローズに吸収合併され球団消滅。合併先の開幕投手についてはTemplate:オリックス・バファローズ開幕投手を参照。 報知プロスポーツ大賞 - パ・リーグ1970年代 76 山田久志 77 山田久志 78 鈴木啓示 79 C.マニエル 1980年代 80 木田勇 81 江夏豊 82 落合博満 83 東尾修 84 ブーマー 85 落合博満 86 落合博満 87 工藤公康 88 門田博光 89 阿波野秀幸 1990年代 90 野茂英雄 91 秋山幸二 92 石井丈裕 93 辻発彦 94 イチロー 95 イチロー 96 イチロー 97 松井稼頭央 98 イチロー 99 松坂大輔 2000年代 00 中村紀洋 01 T.ローズ 02 松井稼頭央 03 城島健司 04 松中信彦 05 渡辺俊介 06 ダルビッシュ有 07 山﨑武司 08 岩隈久志 09 鉄平 2010年代 10 T-岡田 11 内川聖一 12 吉川光夫 13 田中将大 14 大谷翔平 15 柳田悠岐 16 大谷翔平 17 D.サファテ 18 山川穂高 19 森友哉 2020年代 20-21 中止
日本の旗 野球日本代表
日本の旗 野球日本代表 - 1984年日米大学野球選手権大会監督 鴨田勝雄 コーチ 内田俊雄 松田博明 投手 阿波野秀幸 井口和人 河野博文 竹田光訓 伊藤敦規 西川佳明 三原昇 宮山博 捕手 大束二郎 秦真司 善波達也 内野手 上田和明 島田茂 広沢克己 村上文敏 山口敏弘 山越吉洋 和田豊 若井基安 外野手 伊吹淳一 川崎泰介 古川慎一 湯川素哉 山本貴 日本の旗 野球日本代表 - 1986年日米大学野球選手権大会監督 佐藤昭雄 コーチ 太田垣克幸 投手 阿波野秀幸 石井丈裕 猪俣隆 岩本利仁 西岡剛 西崎幸広 松田大 保坂彰茂 八野田充彦 捕手 高田誠 宮里太 森浩之 内野手 相場勤 佐藤公宏 田中泰 為永聖一 原則明 蛭田広則 安岡靖晃 外野手 内藤雅人 丸忠幸 今井克善 加藤正樹 忍成功好 日本の旗 野球日本代表 - 2010年 第17回IBAFインターコンチネンタルカップ監督 83 岡崎郁 コーチ 79 大西崇之 81 阿波野秀幸 82 駒田徳広 投手 12 岩尾利弘 13 須永英輝 16 加賀繁 17 大場翔太 18 笠原将生 19 梶本達哉 46 植村祐介 47 赤川克紀 60 佐藤祥万 65 清原大貴 捕手 2 中村悠平 27 市川友也 46 會澤翼 内野手 4 小窪哲也 24 美沢将 36 谷哲也 37 野原将志 50 翔太 55 大田泰示 56 中川大志 外野手 1 橋本到 3 枡田慎太郎 7 中村晃 10 岩本貴裕