阿部忠秋 (original) (raw)

阿部忠秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

凡例阿部 忠秋
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年7月19日1602年9月4日
死没 延宝3年5月3日1675年6月25日
改名 阿部正秋→忠秋
墓所 多磨霊園日光東照宮
官位 従四位下豊後
幕府 江戸幕府 小姓組番頭→六人衆老中格老中
主君 徳川家光家綱
下野壬生藩主→武蔵忍藩
氏族 阿部家
父母 父:阿部忠吉、母:大須賀康高の娘
正室:**稲葉道通の長女継室:戸田康長の娘**
養子:_**正令(正能)**_
テンプレートを表示

阿部 忠秋(あべ ただあき)は、江戸時代前期の下野壬生藩武蔵忍藩[1]徳川家光家綱の2代にわたって老中を務めた。同じく老中の阿部重次は従兄にあたる。忠秋系阿部家初代。

慶安の変後の処理では浪人の江戸追放策に反対して、就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は明治時代歴史家竹越与三郎より「(酒井忠勝松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)と高く評価された。鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。関ヶ原の戦いを扱った歴史書関原日記』(全5巻)の編者でもある。

忠秋は「**細川頼之以来の執権**」と評せられ[2]、責任感が強く、また、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。子供の遊ぶ様子を見るのが、忠秋の楽しみであった。

阿部忠吉阿部正勝の次男)の次男(長男という説も[3])。母は大須賀康高の娘。長兄の夭折により家督を相続する。ははじめ正秋、寛永3年(1626年)に徳川秀忠偏諱を拝領し、忠秋と名乗った。正室は稲葉道通の娘、継室は戸田康長の娘。息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部政澄(重次の兄)の遺児の正令(後に正能と字を改める)を養子として迎えた(正令は忠秋の隠居にともなう家督相続まで阿部家(宗家)岩槻藩支藩大多喜藩主として留まった)。

寛永元年(1624年)、父の遺領6000石を継ぐ。同3年(1626年)加増され、1万石の大名となる。同6年(1629年)、5000石加増。同10年(1633年)、小姓組番頭から六人衆(後の若年寄)に転じ、さらに5月5日より老中格に任じられる。同12年(1635年)、下野壬生藩2万5000石に転封され老中。同16年(1639年)忍藩5万石。正保4年(1647年)6万石。寛文3年(1663年)8万石。同6年(1666年)老中退任。同11年(1671年隠居。延宝3年(1676年)に死去した。

父母

正室、継室

養子

  1. ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、16頁。ISBN 978-4-09-626607-6
  2. ^ 森銑三著作集 続編 第一巻 95ページ
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 46頁。
  4. ^ 明治以降は現金。大正時代発生の関東大震災まで続いた。

カテゴリ: