38度線 (original) (raw)

曖昧さ回避 この項目では、朝鮮半島の分割占領ラインとしての北緯38度線について説明しています。基準となった緯線については「北緯38度線」をご覧ください。 国連が設定した現在の南北朝鮮の境界線については「軍事境界線 (朝鮮半島)」をご覧ください。
曖昧さ回避 他の38度線については「南緯38度線」、「東経38度線」、「西経38度線」をご覧ください。
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索?: "38度線"ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2021年6月)
38度線
各種表記
ハングル 38도선 / 38선(삼팔선)
漢字 三十八度線 / 三八線
発音 サンパルソン
日本語読み: さんじゅうはちどせん / さんはちせん
英語表記: 38th parallel north
テンプレートを表示

38度線(38どせん、: _38th parallel north_)は、本来は、第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に引かれたアメリカ軍ソ連軍の分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。大韓民国(韓国)では38線朝鮮語: 38선、三八線)と呼んでいる。

韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独立から朝鮮戦争勃発までは、それらの国の境界線(国境)となっていた。朝鮮戦争後の軍事境界線もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。北緯38度線と軍事境界線は、北緯38度0分0秒 東経126度47分13.20秒 / 北緯38.00000度 東経126.7870000度 / 38.00000; 126.7870000の地点(朝鮮民主主義人民共和国開城特別市長豊郡沙是里/大韓民国京畿道漣川郡百鶴面梅峴里)で交差する。

38度線の成立と朝鮮半島分断

[編集]

詳細は「朝鮮半島分断」を参照

1945年8月9日、8月10日から11日にかけて国務・陸軍・海軍調整委員会において「北緯38度線で暫定分割する」という案が画定され、ハリー・S・トルーマン大統領の承認を受けた[1]。この案はソ連側に提示され、8月16日にソ連はこれに同意する[1]。8月17日には一般命令第一号によって38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏することが決定された。この命令はポツダム宣言を受諾した大日本帝国に伝達され、9月2日の降伏文書調印後に大本営によってこの方針が指令された。

38度線が境界となった理由には諸説がある。一つはアメリカ軍が軍事的な便宜の面から、暫定的な境界線として提示したというものである[2]。8月10日から11日の会議の最中、ペンタゴンにおいて陸軍次官補ジョン・マクロイは、アメリカ軍の明白な進駐限界線の画定をディーン・ラスクチャールズ・H・ボーンスティール3世大佐に命じた[1]。二人は手元にあった小さな壁掛けの地図を参考にして限界線を北緯38度と決めた[3]。二人は朝鮮半島の首都をアメリカ軍の占領区域に設定することが望ましいと考えており、38度線は朝鮮半島をちょうど二分する上に、ソウルが南半分に含まれるという理想的なものであった[4]。二人がこの作業にかけたのは、わずか30分であった[4]

ほかには日本軍が関東軍大本営の管轄を38度線付近で分けており、管轄毎にソ連とアメリカに降伏したため、両国の占領区域が38度線となったという説もある[5][2]。ただし、8月9日の大陸命1389号で済州島を含む南朝鮮駐屯の第17方面軍の指揮権は8月10日午前6時より関東軍に移管されており[6]、事実ではないと見られている[2]

古い研究では38度線は米ソが事前に合意していた線であるという主張もあるが、ポツダム会談などの連合国会談でそのような合意が成されたことはない[7]

朝鮮戦争後の境界線。陸上部分が軍事境界線。

朝鮮戦争と停戦ライン

[編集]

詳細は「軍事境界線 (朝鮮半島)」および「北方限界線」を参照

1950年6月25日朝鮮戦争が勃発し、1953年国連軍朝鮮人民軍及び中国人民志願軍の間で休戦協定が結ばれた。この際、休戦協定直前の最前線が停戦ラインとされ、停戦ラインから南北2キロメートルずつを**非武装地帯**(DMZ, Demilitarized zone)と呼ばれる緩衝地帯として設置し、朝鮮半島を横切る無人の地域となっている。また南北双方は侵入を防ぐ目的で、非武装地帯を何重にも鉄条網や高圧電線で囲い、幅4キロメートルの帯状のこの地域に多くの地雷を敷設している。以後アメリカ軍とソ連軍が引いた境界線に代わり、この停戦ラインが軍事境界線として、2023年現在も南北の事実上の境界線(国境)となっている。

米国は中華人民共和国と朝鮮半島有事で米軍が境界線を越えた際の38度線までの米軍撤退などの具体的対応を協議していることを2017年12月にアメリカ合衆国国務長官レックス・ティラーソンは公表している[8][9]

現在、38度線と言えば、この停戦ラインを指すことが多い。ただし、停戦ラインの38度線はあくまでも「付近」であり、実際には西南西から東北東へと向かう歪な線となった。そのため、第二次世界大戦後から朝鮮戦争勃発までは南側であった黄海道の海岸部や京畿道開城は朝鮮戦争停戦後には北側となり(ただし、北側になってからの開城は京畿道ではなく、直轄市、黄海北道の一部を経て特別市となっている)、逆に江原道の一部(束草市など)は北側から南側となった。

韓国鉄道公社(KORAIL)の路線では、京元線が北緯38度線を跨いで運行されており、青山駅 - 全谷駅間にて北緯38度線を通過する。

脚注

[編集]

[脚注の使い方]

出典

[編集]

  1. ^ a b c 李圭泰 1992, p. 405.
  2. ^ a b c 李圭泰 1992, p. 393.
  3. ^ 李圭泰 1992, pp. 405–406.
  4. ^ a b 李圭泰 1992, p. 406.
  5. ^ 関寛治「分断の責任-米ソ冷戦は何をもたらしたのかー」、『世界』一九八四年八月号、四九頁
  6. ^「ソ」連は対日宣戦を布告し9日零時以降日「ソ」及満「ソ」国境方面諸所に於て戦闘行動を開始せるも未だ其規模大ならずの件 大陸命第1374号 昭和20年8月9日アジア歴史資料センター Ref.C13070054900
  7. ^ 李圭泰 1992, pp. 393–394.
  8. ^米、中国に約束「有事で休戦ライン越えても必ず韓国に戻る」”. 朝鮮日報 (2017年12月14日). 2018年2月14日閲覧。
  9. ^朝鮮半島有事で協議 核確保手段など詳細に”. 毎日新聞 (2017年12月13日). 2018年2月14日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

朝鮮戦争
暴風作戦英語版 甕津の戦い 開城・汶山の戦い 高浪浦の戦い 東豆川の戦い 抱川の戦い 春川の戦い 朝鮮海峡海戦 議政府の戦い 第1次ソウルの戦い 注文津港海戦 韓国航空戦 漢江の戦い 水原の戦い 鎮川の戦い 烏山の戦い 平沢の戦い 天安の戦い 鳥致院の戦い 大田の戦い 尚州の戦い 嶺東の戦い 黄澗の戦い 安東の戦い 河東の戦い
釜山円陣 霊山の戦い 馬山の戦い 浦項の戦い 長沙洞撤収作戦 杞渓・安康の戦い 大邱の戦い 多富洞の戦い(8月) 洛東江突出部の戦い 多富洞の戦い(9月) 慶州の戦い 永川の戦い
国連軍の反撃 仁川上陸作戦 第2次ソウルの戦い 282高地の戦い 元山上陸作戦 平壌の戦い 栄州の戦い 定州の戦い 粛川・順川の戦い 北朝鮮爆撃
中国の介入 温井の戦い 雲山の戦い 清川江の戦い 軍隅里の戦い 長津湖戦闘 北極熊団 第3次ソウルの戦い 第1次・第2次原州の戦い サンダーボルト作戦 砥平里戦闘 第3次原州の戦い キラー作戦 第4次ソウルの戦い カレイジャス作戦 トマホーク作戦 積城戦闘 加平戦闘
膠着 血の稜線戦闘 漢江の戦い 断腸の稜線戦闘 第1次馬良山の戦い 順川航空戦 水豊ダム攻撃 ブレイズ作戦 首都高地・指形稜線戦闘 白馬高地戦闘 狙撃稜線戦闘 フック高地戦闘 ポークチョップヒルの戦い 金城の戦い 沙尾川の戦い
事件 聞慶虐殺事件 済州島四・三事件 麗水・順天事件 漢江人道橋爆破事件 ソウル大学校付属病院虐殺事件 保導連盟事件 斗満虐殺事件 老斤里虐殺事件 303高地の虐殺 咸興虐殺事件 信川虐殺事件 国民防衛軍事件 高陽衿井窟民間人虐殺英語版江華良民虐殺事件 巨済島捕虜収容所 山清・咸陽虐殺事件 居昌事件
日本への影響 竹島占拠 日本特別掃海隊 朝鮮特需 祖国防衛隊 在日朝鮮統一民主戦線 小倉黒人米兵集団脱走事件 浅草米兵暴行事件 日米安保条約 逆コース 親子爆弾事件 吹田事件 新潟日赤センター爆破未遂事件
休戦 朝鮮戦争休戦協定 朝鮮DMZ紛争英語版対南工作 南北共同声明 南北基本合意書 南北首脳会談 太陽政策 6.15南北共同宣言 米朝首脳会談 板門店宣言 南北共同連絡事務所爆破朝鮮語版
その他 冷戦 38度線 朝鮮統一問題 軍事境界線 北方限界線 板門店 朝鮮戦争戦没者慰霊碑 兄弟の像 代理戦争
カテゴリ カテゴリ