「動員」と「徴用」を混同させるマスコミ (original) (raw)

さて、本日は一連の徴用工問題に関連し、「動員」と「徴用」を混同させ、動員全体が徴用と同質の強制性のあるものであったかのように印象操作する報道について手短に書いていきます。
また、「官斡旋」について、保存資料を再度確認していたところ、制度に勘違いしている部分があったため、その件も扱っていきます。

まずはこちらの記事から

朝鮮挺身隊の苦悩、韓国で上演 歴史継承、日本の劇団員ら
共同通信 2024/02/25
https://www.47news.jp/10570721.html
https://nordot.app/1134359627863474453

太平洋戦争末期に朝鮮半島から日本の工場へ動員された朝鮮女子勤労挺身隊の歴史を継承しようと、日本のアマチュア劇団員ら市民約30人が24日、韓国南西部・光州で演劇を披露した。元挺身隊員の動員時や戦後の苦悩、日本と韓国で支援者らと共に裁判闘争する過程を描いた。日本語で演じ、韓国語字幕を表示した。約500人の観衆が盛大な拍手を送った。

観劇した光州の中学3年生、姜ソ賢さん(14)は、挺身隊問題を知らなかったという。「幼い時にとてもつらい経験をしていたのが悲しい。日本人の演劇だったことで、いっそう感銘を受けた」と話した。(光州共同)

こちらの共同通信の記事では、「太平洋戦争末期に朝鮮半島から日本の工場へ動員された朝鮮女子勤労挺身隊の歴史を継承しようと」と書かれています。

前々回の記事で説明したように、日本政府の定める「動員」の定義には3種類あり、「自由募集」と「官斡旋」と「徴用」です。
また、女子挺身隊に関しては元々の始まりは民間の婦人団体が設立した民間組織であり、時期により「自由募集」と「官斡旋」と「徴用」がありますが、徴用に該当するのは1944年8月施行の「女子挺身勤労令」です。

ただし、制度上は朝鮮半島でも「女子挺身勤労令」が施行されていましたが、実際に適用された事例があるのは日本内地のみであり、終戦まで朝鮮半島で行われていたのは「自由募集」と「官斡旋」に相当する制度のみでした。
つまり、朝鮮での女子挺身隊は「動員」には含まれますが、「徴用」には該当しないという事です。

参考資料
戦前の女性って社会で働いていたの?
アジ歴グロッサリー/国立公文書館アジア歴史資料センター
https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa21.html

群馬県による強制連行碑撤去を巡る問題記事 後編
http://ooguchib.blog.fc2.com/blog-entry-484.html

これだけですと、共同の記事は「徴用も含まれる動員」について語っているだけで、説明不足ではあっても、間違いではないように見えます。
しかし次の記事を読むと

強制徴用を演劇で告発した日本人たちの「アリラン」
東亜日報 February. 26, 2024
https://www.donga.com/jp/List/article/all/20240226/4771837/1

「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン峠を越えてゆく」

24日、光州市南区(クァンジュシ・ナムク)のピッコウル市民文化館の大公演場で日本人の役者たちが韓国の民謡「アリラン」を歌うと、観客は目を潤ませた。舞台の幕が下りると、観客は一斉に立ち上がって拍手を送った。脚本、演出、演技をすべて日本人が担った演劇「ほうせん花Ⅲ」が盛況のうちに幕を閉じた瞬間だった。

「ほうせん花Ⅲ」は、日本の植民地支配期に三菱重工業名古屋航空機製作所に動員された勤労挺身隊の人権侵害の実態と、40年以上にわたる人権回復運動の過程を盛り込んだ演劇だ。強制労働被害者を支援する名古屋市にある市民劇団が、日本社会に勤労挺身隊問題の実態を知らせ、人権回復の必要性を強調するために2003年に制作した。強制動員被害者が1999年に日本政府と三菱重工業を相手に訴訟を起こし、法廷闘争を繰り広げていた時期だった。
(後略)

同様の記事について韓国三大紙の一つ「東亜日報」が報じている内容を見ると、「強制動員」「強制労働」という単語が使われており、この演劇における動員とは、強制労働と定義しているという事が分かります。

つまり、過去にも何度か引用したことがありますが、

韓国外交次官「世界遺産、全体の歴史が重要」…軍艦島を間接的に批判
ⓒ 中央日報日本語版2020.11.25 10:46
https://japanese.joins.com/JArticle/272667

(一部抜粋)
李泰鎬(イ・テホ)韓国外交部第2次官は24日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)韓国委員会と共同でソウル・プラザホテルで開催した「2020ユネスコ世界遺産解釈国際会議」で1992年世界遺産に登録されたドイツの「ランメルスベルク鉱山」に言及して「未来世代が世界遺産をめぐる全体の歴史と様々な話を理解できるように包括的かつ包容的な遺産解釈が重要だ」と明らかにした。

李次官は「ドイツの『ランメルスベルク鉱山』は強制労働の痛みに関する膨大な資料を展示することで強制労働犠牲者をたたえ、遺産の全体歴史を均衡的に見せている」とし「肯定の歴史だけでなく『負の歴史』も受け入れるべきだ」と強調した。

NS-Zwangsarbeit im Erzbergwerk Rammelsberg (ドイツ語)
https://de.wikipedia.org/wiki/NS-Zwangsarbeit_im_Erzbergwerk_Rammelsberg

彼らの主張する「動員」とは、韓国政府の「強制労働」の定義である、第二次大戦中にドイツにあった「ランメルスベルク鉱山」のような、有刺鉄線付きの強制労働施設を想定しているという事になります。

そして、この「徴用」と「自由募集」と「官斡旋」がいつ頃から混同されだしたかなのですが、これは一次資料で確認が取れていないので、あくまで「噂話」程度と取ってほしいのですが、韓国の金泳三大統領の時代(1993~1998年)に、村山政権との間で徴用工の件が問題となったことがあるそうです。

その際に韓国側は、「自由募集」も「官斡旋」も強制連行に含めており、それを日本政府側が明確に否定しなかったというのが始まりと聞いたことがあります。

また次にあるように、

戦争における人権侵害の回復を求める宣言
日本弁護士連合会 1993年(平成6年)10月29日
https://www.nichibenren.or.jp/document/civil_liberties/year/1993/1993_3.html

(一部抜粋)
先の戦争において、日本はアジア・太平洋地域に深刻な被害をもたらした。このなかには、住民虐殺・生体実験・性的虐待・強制連行・強制労働・財産の収奪・文化の抹殺等、重大な人権侵害にあたるものが数多く存在する。

戦後日本は、関係諸国との間で、賠償条約等により一定の解決をはかってきたが、直接被害を受けた住民に対する補償は、ほとんど行われていない。

戦後半世紀に及ぼうとしている今日、こうした戦後処理のあり方を抜本的に見直すことは、人間の尊厳の確保と正義の要請するところである。

国は、速やかに被害実態の把握と責任の所在の明確化など真相の究明を徹底して行い、これらの被害者に対する適切・可能な被害回復措置のあり方について早急な検討をはじめる必要がある。同時に、この戦争の実相を正しく後世に伝える教育を行うべきである。

基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする我々も、その実現のため全力を尽くすことを誓うものである。

以上のとおり宣言する。

1993年(平成6年)10月29日
日本弁護士連合会

※以下では韓国と同じく「強制動員」という単語も使われています。

戦後補償のための日韓共同資料室
日本弁護士連合会
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/nikkan_shiryo.html

宇都宮元日弁連会長「日本の企業は韓国最高裁の判決を受け入れるべき」
ハンギョレ新聞 2019-09-06
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/34286.html

こちらの1993年に行われた日弁連の「戦争における人権侵害の回復を求める宣言」において、「強制連行・強制労働」等と書かれており、この頃から動員が強制労働や強制連行を伴う制度であるという認識が出来上がっていったようです。

こうして出来上がったイメージが、1944年8月以前の事例も全て「強制連行」とされる判決に繋がっていったという背景があり、日本のメディアで使われる「動員」の定義も、多くの場合でこれを踏襲しています。

つぎに実態としての官斡旋についてなのですが、今回改めて保存している資料を読み返してみたところ、制度への勘違いがあったので、その件についても説明します。

朝鮮人「強制連行」問題とは何か(上)
日本政策研究センター 2002/12/28
http://www.seisaku-center.net/node/260

(一部抜粋)
○ゆるやかだった朝鮮の戦時動員

では、この「強制連行」問題を検証する際に、踏まえられるべき事実とは何であろうか。

一つは朝鮮に対しては内地と比較してかなり緩やかな戦時動員が実施されたという事実である。昭和十四年、前年に成立していた国家総動員法に基づいて国民徴用令が発せられ、戦時動員が開始される。しかし、朝鮮ではこの国民徴用令が三段階にわたって緩やかに実施された。

まず、同年九月から「自由募集」という形で戦時動員が始まる。これは、炭坑、鉱山などの内地の事業主が厚生省の認可と朝鮮総督府の許可を受け、総督府が指定する地域で労務者を募集し、それに応じた人たちが内地に集団渡航するというものである。

実は、戦前の日本政府は、朝鮮人の内地渡航に対しては治安や労務面で社会問題があるため就職や生活の見通しを持たない朝鮮人の渡航を制限する行政措置を講じていた。日本への渡航には証明書を必要とするとか、釜山など出発港において就職先や滞在費を持たない渡航者の渡航を認めない渡航諭止制度を設けるなどしていたのに対して、この「募集」制度は、戦時動員の一環としての「募集」手続きに従った内地渡航に限っては渡航制限の例外としたのである。

従って、戦時動員とはいうものの、平時の渡航とほとんど変わらないものであった。ところが、この「募集」方式では、当然のことながら、動員計画はほとんど達成されなかった。昭和十六年までの三年間は動員計画数二十五万五千に対して、「募集」で送り出された朝鮮人労務者は十四万七千人に過ぎず、達成率は六六%に留まった。また、応募者の大半は農民であり、炭坑鉱山などの坑内作業を嫌い、職場を離脱するものも多かった。

そこでこの「募集」に替わって、昭和十七年から採られたのが「斡旋」という方式である。これは、企業主が朝鮮総督府に必要とする人員を許可申請を出し、総督府が道(日本の県に当たる)を割り当て、道は郡、面に人員の割り当てを行う、つまり行政の責任において労務者を募集するというシステムであった。

さらに、この「斡旋」が昭和十九年九月から「徴用」に切り替わる。道知事の徴用令書によって出頭し、指定された職場で働く義務を伴う、いわば兵士の「応召」に準じるものであった。「国家から命じられた職場で働く義務があり、その工場なり事業場の事業主とは使用関係に立ちますが、直接雇用関係に立たず、(被徴用者は)あくまで国家との公的関係にある」(朝鮮総督府『国民徴用の解説』)わけであるから、徴用先も労務管理の充実した職場に限られ、給与も法定され、留守家族援護から収入減の場合の補償に至るまでの援護策が講じられた。また、同様の措置が「斡旋」で既に稼働している者にも現員徴用として適用された。

むろん、「徴用」の場合は忌避すれば罰則があり、国家総動員法によって一年未満の懲役又は千円以下の罰金に処せられた。これに対して、「募集」「斡旋」に対しては、当然のことながら応じなくても罰則はなかった。

また、「募集」「斡旋」の場合は、配属された職場から離脱しても罰則はなく、離脱したり契約期間(多くの場合は一年~二年)を終えて内地に残留しても、日本国民としての公権(参政権など)が保証された。これに対して「徴用」の場合は、指定された職場から離脱すれば徴用拒否と同じ罰則があった(ただし、「特高月報」などをみると実際は職場離脱によって検挙されても、ほとんどは元の職場に復帰させられるか朝鮮へ送還されている)。

こう見てくると、朝鮮での戦時動員は内地より遅れて、しかもはるかに緩やかに実施されたということが分かる。また、内地と違い朝鮮では最後まで女子には適用されなかった。徴用だけでなく朝鮮においては徴兵も昭和十九年十月になってようやく実施されている。なお、「徴用」による日本への送り出しも翌二十年三月末には関釜連絡船の運行が止まり、わずか七ヶ月で終わる。

「徴用」は、まさに強制力を伴った戦時動員であった。それを「強制連行」というであれば、既に全面的に実施されていた内地の日本人はほとんど「強制連行」されていたということになる。

こちらに書かれているように、官斡旋に関しては単に「国が募集する」というものではなく、「企業主が朝鮮総督府に必要とする人員を許可申請を出し、総督府が道(日本の県に当たる)を割り当て、道は郡、面に人員の割り当てを行う、つまり行政の責任において労務者を募集するというシステム」となっています。

他にも「「募集」「斡旋」の場合は、配属された職場から離脱しても罰則はなく、離脱したり契約期間(多くの場合は一年~二年)を終えて内地に残留しても、日本国民としての公権(参政権など)が保証された」と書かれています。

そのうえで、以前も紹介したことのある次の事例のように

「日韓誤解の深淵」
西岡力著 亜紀書房 1992年
https://www.amazon.co.jp/dp/4750592129

(一部抜粋)
また、いわゆる「強制連行」の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の「官斡旋」による道外募集(いわゆる強制連行の一部とされている)では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている(くわしくは広瀬貞三「『官斡旋』と土建労働者」、『朝鮮史研究会論文集』第29集参照)。

官斡旋の仕組みについて「使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている」と書かれているように、働く場が民間企業であっても制度上労働者の最低限の補償はされていた事が分かります。

そのうえで、

百万人の身世打鈴―朝鮮人強制連行・強制労働の「恨(ハン)」
「百万人の身世打鈴」編集委員 著 1999年
https://www.amazon.co.jp/dp/4885916410

(一部抜粋)
昭和17年(1942年)の事例
姜壽煕
「日本は天国だと思っていました。村から日本に行った人が帰ってくると、洋服を着て中折れ帽子を被って革靴を履いているんです。親は親で、『うちの息子は日本から帰ってきて、革靴を履いている』と自慢していました。……その頃は、朝鮮では村一番の金持ちの子どもでも革靴など履けなかったのです。……ですから、『日本に行け』と言われたとき、そんなに抵抗感もなかったのです。」

李斗煥
「役所に呼び出されて『日本へ行ってくれ』と言われた。いやとも言えないしな。まあ正直いえば嬉しかったの。日本に来たくてもなかなか来られないんだから。韓国にあっても、仕事ないし、百姓ぐらいだから。おれだけじゃなくして、日本に来たがってたの、大勢いたんだ」

次の事例のように「官斡旋」では自治体などが若者に対して、企業の要求する割り当てが揃うよう、「日本に行く事」をお願いや要求していたという事が分かります。

つまり、徴用のような強制ではなく、また職場放棄をしても罰則などは無いが、現場の自治体レベルでは「ノルマ」のようなものがあり、一定の強制力があったのは確かのようです。

勿論、それは「強制労働」や「強制連行」のようなものではない事が、当時の資料や資料と整合性のある上記のような証言からもわかりますが。

ただし、官斡旋も後期になると色々と問題が起きていたようで

8.復命書及意見集/1 復命書及意見集の1
内務省 昭和19年7月31日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B02031286700
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B02031286700

(一部抜粋)
六、内地移住労務者送出家庭の実情

従来朝鮮における労務資源は一般に豊富低廉と言われてきたが支那事変が始って以来、朝鮮の大陸前進兵站基地としての重要性が非常に高まり各種の重要産業が急激に勃興し朝鮮自体に対する労務事情も急激に変り、従って内地向の労務供出の需給調整に相当困難を生じて来たのである。
更に朝鮮労務者の内地移住は単に労力問題にとどまらず内鮮一体という見地からして大きな政治問題とも見られるのである。
しかし戦争に勝つ為には斯くの如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令によって無理にでも内地へ送り出さなければならない今日である。
然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果たして如何であろうか。
一言を以てこれを言うならば、実に惨憺目に余るものがあると言っても過言ではない。
蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的略奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさることながら、送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である。その詳細なる統計は明かではないが最近の一例を挙げてその間の実情を考察するに次の様である。

大邱府の斡旋に係る山口県下冲宇部炭鉱労務者967人について調査して見ると、一人平均月76円26銭の内、稼働先の諸支出月平均62円58銭を控除し残額13円68銭が毎月一人当りの純収入にして、言わばこれが家族の生活費用に充てらるべきものである。
斯くの如く一人当りの月収入は極めて僅少にして何人も現下の如き物価高の時に、これにて残留家族が生活出来るとは考えられない事実であり、更に次の様なことに依って一層激化されるのである。

(イ)右の純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること
(ロ)内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的実施及び払出の事実上の禁止等があって到底右金額の送金は不可能であること
(ハ)平均額が右の通りであって個別的には多少の凹凸があり中には病気等の為、赤字収入の者もあること、しかも収入の多い者といえどもそれは問題にならない程の極めて僅少な送金額であること

以上の如くにして彼等としては、この労務送出は家計収入の停止となるのであり、いわんや作業中不具廃疾となりて帰還せる場合においては、その家庭にとっては更に一家の破滅ともなるのである。

こちらの1944年7月の内務省による報告によると、官斡旋によって「朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的略奪的拉致等※が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさることながら、送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である」と書かれています。

(一部抜粋)
もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。

このことから、恐らく国民徴用令の朝鮮半島適用直前頃には、官斡旋が実質的に徴用と同様の状態になっており、その結果働き手を失った朝鮮の家庭が困窮するという、日本内地でも起きていた問題と同様の問題が起きていた事が分かります。

また、先ほど引用した日本政策研究センターで言及されているように、「応募者の大半は農民であり、炭坑鉱山などの坑内作業を嫌い、職場を離脱するものも多かった」ことから、すぐに辞められるとこまる雇用側が実質的な強制貯金を行っており、定められた契約期間就労しないと給料を満額受け取れなかったことから、法律としての強制はなかったが、ペナルティー自体はあったという事と、少なくとも内務省は1944年7月時点での官斡旋を制度として問題視していたという事が分かります。

ただし、これらを含めても、最初の方で紹介したような、日本のいくつかのマスコミ日弁連、また韓国側の主張するような「強制労働」「強制連行」とは全くの別物であり、彼らの使用する「動員」という単語は史実に反しているという事になります。

「動員」という単語を使うマスコミ報道にはこういった問題もあるわけです。

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