第一書簡 あるべきイスラーム理解のために (original) (raw)

イスラーム理解はなぜ困難であるか 中田考

序│東京大学イスラム学研究室

飯山陽さんは、私にとってなによりもイスラム学研究室の後輩です。東京大学文学部に日本で初めてのイスラームの専門研究コースとしてイスラム学研究室が創設されたのは1982年で、私はその一期生でした。私はイスラム学研究室に進学し1984年に学士号、1986年に修士号を取得した後、エジプトのカイロ大学に留学し、1992年に「イブン・タイミーヤの政治哲学」をテーマに文学部哲学科から博士号を授与され、その後1992年から1994年にかけて外務省から「サウディアラビアの内政における宗教勢力の動向」の調査を委嘱されサウジアラビアの日本大使館で専門調査員を務め、その後日本に戻りました。

私がイスラム学研究室に在学した時代には、出版されているイスラーム学の古典の数は限られており、東大のイスラム学研究室も含めて日本の大学や図書館には基本文献さえも揃っていませんでした。アラビア語やペルシャ語などの原典を手にすることができないだけでなく、欧文の学術雑誌の研究論文を海外から取り寄せることは言うに及ばず。Index Islamicusだけでは最新の研究を検索することすらままなりませんでした。インターネットもパソコンもまだ普及しておらず、私の卒論も修論も手書きでした。隔世の感があります。

飯山さんは1998年にイスラム学研究室の修士課程に進学していますので、私より一回り以上後輩ですが、既に研究室にアラビア語などのイスラーム学の基本文献、主要な学術誌、欧米の最新の研究書は一通り揃い、個人でもメディアがカバーしないどんな僻地であれ、爆弾の降り注ぐ紛争地であれ、リアルタイムの現地の映像、情報をインターネットでリアルタイムで入手できる研究環境でイスラーム研究を始めていることになります。

1│イスラーム研究の知的背景の変化

研究環境もずいぶん変わりましたが、それ以上に変わったのがイスラームをめぐる知的状況です。私が大学に入学した頃は学生運動は完全に下火になっていましたが、大学の人文社会科学の教員たちの間では宗教を「民衆のアヘン」と切り捨てたマルクス主義の影響がまだ強く、西欧化・近代化は進歩の不可逆な過程であり、宗教は時代遅れの過去の遺物でやがて滅び去るものと一般に考えられていました。人類の進歩にとって重要なのは社会の下部構造である経済であり、上部構造の更に上澄みに過ぎない宗教など論ずるに足りない虚偽意識(イデオロギー)であり、特にイスラームのような「遅れたアジア・アフリカ」の宗教は因循姑息な田舎の老人たちの奇習ぐらいの扱いでした。

私が大学で最初にイスラームについて受けた講義は駒場の大教室で受けた板垣雄三先生の西洋史でしたが、板垣先生はイスラム学研究室のスタッフでもありました。板垣先生の世代の先生たちにとってなすべきことは、まずイスラームが学ぶに値することを示すことでした。そしてそれは、近代化の過程は単線的ではなく世俗化による近代化の西欧モデルはムスリム世界には通用しないこと、ムスリム社会には西欧キリスト教社会とは違う固有の力学、すなわちイスラームがあり、それを知らないとムスリム世界で起きていることは理解できないこと、そしてイスラームは西欧キリスト教的偏見を排することで合理的に理解可能である、と論じることによってなされました。

追い風になったのが、1979年のイラン・イスラーム革命でした。中世から蘇ってきたような黒い「法衣」のホメイニ師の写真を掲げた百万人を超える群衆がデモで街に繰り出し、飛行機でイランに帰国した同師を群衆が熱狂して迎える映像は、飛行機が突入し世界貿易センタービルが倒壊した2001年の「9・11」よりも遥かに衝撃的でした。私にとっても、イラン・イスラーム革命は、イスラーム学研究を志すことになった主要な動機の一つであり、最初のイスラム学の専門科目として最初に取った故佐藤次高先生のレポートで選んだテーマはイラン革命でした。私は卒論のテーマにはスンナ派の法学者イブン・タイミーヤの政治哲学を選びましたが、現在までイラン・ウオッチャーを続けています。

1979年にはイラン・イスラーム革命に続き、3月にはソ連がアフガニスタンに侵入しムジャーヒディーンによる反ソ連ジハードが始まり、11月にはサウジアラビア王国を打倒しイスラーム国家を樹立しようとする武装勢力によりマッカの聖モスクが占領され、1981年10月にはイスラエルとの単独和平を強行しノーベル平和賞を授与されたエジプトのサダト大統領がスンナ派「原理主義」組織ジハード団によって暗殺され、ムスリム世界ではイスラームが現在も大きな影響力を持っていることが外部の人間の目にも疑いの余地なく明らかになりました。

2│日本におけるイスラーム研究の問題

イスラームについて理解してもらうためには、先ずイスラームが知るに値すると思わせねばならず、ついでイスラームを理解するためにはそれまでの自分たちの西欧中心主義を見直さなければならないと気付かせる必要がある、と考えるのは、大学の教養課程での教育、一般向けの講演会や啓蒙書のレベルでは現在においてもなお妥当であると私は思っています。そして20世紀終盤から今日にいたるムスリム世界の歴史は、近代化の西欧モデルがムスリム世界では通用しないことを裏書きしてきた、と言うことも出来そうです。

しかしその結果として、マルクス主義の退潮のせいもあり、かつてのイスラーム軽視の反動として社会経済的要因が蔑ろにされ、ムスリムの行動をすべてイスラームに還元するような説明が横行するという反動が生まれました。西欧近代化モデルがそのままではムスリム社会に通用しないこと、ムスリムに固有の行動パターンがありそうなことが正しいことと、それをイスラームで説明することとは全く別のことです。これは実は複雑な問題なので後で詳しく論ずるとして、もう一つの問題があります。それはイスラーム学者よりむしろイスラーム地域研究者に関わります。

それは、ムスリム社会を動かしており西欧的偏見を排して客観的に観察すれば合理的に理解できるとされるイスラーム研究者が言うイスラームが、自分が知る現実のムスリムたちの実態と全く違う、という単純素朴な事実です。「穏健」で「寛容」で「平等」で「民主的」な「平和の宗教」など一体どこにあるのか、とは、中東研究者、特にアラブ研究者であれば誰でも思うことでしょう。私自身アラブ、特に私が留学したエジプトは大嫌いで、今思い出しても頭の血管が切れそうになるような体験ばかりの日々だったように思います。あくまでも印象論ですが、総じてアラブ研究者はアラブが嫌い(か大嫌い)、イラン研究者はアンビバレント、トルコ研究者はトルコ大好き(か好き)です。ちなみにムスリムでない中東研究者は例外がいないわけではありませんが概ねイスラームが嫌いです。まぁ、それが自然なわけですが。

ムスリムでも区別できない者も多いですが、ムスリムでないイスラーム学者、イスラーム地域研究者はイスラームとムスリムの言動を区別できないので、彼らにとっては自分たちが見たムスリム社会、ムスリムの言動こそが本当のイスラームであり、イスラーム研究者がこれまで語ってきた「穏健」、「寛容」、「平等」、「民主的」、「平和の宗教」なイスラームは現実と懸け離れた護教論に過ぎないということになります。

イスラームについての知識がないばかりでなく、そもそも知る価値がない、と思われていた時代に、読者の世界観の枠組を揺さぶりつつ基本的にその枠組の中でポジティブにイスラームを描くというスタイルには時代的必然性があったと思います。しかしある程度そうした共感的理解が広まった段階では、それに対する反動として「イスラームの現実はそんなものではない」という「異議申し立て」が現れるは当然と言えば当然です。

そしてこうした「異議申し立て」の新潮流の代表が、飯山さんと同じく東大イスラム学科出身の池内恵さんと言えると思います。私も古典イスラーム学者として、イスラームを「穏健」、「寛容」、「平等」、「民主的」、「平和の宗教」のような西欧の植民地支配を蒙る以前には存在しなかった概念に切り詰め歪曲することには違和感を抱いており、またエジプトで学生としてムスリム社会の内部で5年にわたって生活し、2年間のサウジアラビア日本大使館勤務でムスリム国家の外交の一端を垣間見ましたので、ムスリム世界の現実を粉飾することは心情的にとてもできませんでした。

私はエジプト留学、そして日本大使館勤務当時に発表した「エジプトのジハード団」(1992年)、「ジハード(聖戦)論再考」(1992年)以来、『イスラーム国訪問記』(2019年)まで一貫して、サラフィー・ジハード主義の内在論理と行動を共感的に明らかにする研究を発信し続けており、日本のイスラーム地域研究者の中では例外的にこの「異議申し立て」に与する立場を取っています。

3│あるべきイスラーム

日本のイスラーム地域研究の方向性に反対という点では一致しても、それに対してどういう代案を提示するかに関しては、私と飯山さんでは根本的に方法論が違っています。というか、私の方法論的前提は飯山さんだけでなく、日本の、いや日本だけでなく、世界の全てのイスラーム研究者と違っているので、飯山さんとも当然違っている、という話です。

非ムスリムの研究者の場合、イスラームとは基本的に規範的概念ではなく記述的概念です。つまり問題となるのは「あるべきイスラーム」ではなく、現実に「あるイスラーム」であり、ムスリムの言動をおいてそれはありません。といっても、実際には、この区別は必ずしも絶対的でありません。「あるべきイスラーム」を知るには預言者ムハンマドをはじめとするムスリムの言行を参照するしかなく、イスラームのようにムハンマドという使徒とクルアーンという啓典を持つ宗教では、現実に「あるイスラーム」であってもムハンマドとクルアーンにどうしてもある程度は縛られるからです。特に飯山さんはイスラム学科で古典イスラーム法学基礎論を専攻しているので、クルアーンとハディースの解釈の体系としての古典イスラーム学が示す「あるべきイスラーム」の教義に照らして現実のムスリムの中に「あるイスラーム」を語る、というスタイルですので、その点では、私と同じとも言えます。

ちがいは二つあります。違いの第一は私が「あるべきイスラーム」の教義に照らして、ムスリムの現実を分析するのは、「あるべきイスラーム」の教義に照らして、現代世界においてのムスリム個人、ムスリム社会、ウンマ(ムスリム全体の集合)のそれぞれのレベルでの「あるべきイスラーム」を考え、それと現実に「ある」ムスリム、ムスリム社会、ウンマの乖離を見極め、いかにすればこの現代世界においてそれぞれのレベルの「あるべきイスラーム」を実現できるか、を考えるためです。これはたぶん飯山さんにはあまり関心はないでしょう。もちろん、一緒に考えてくれても構いませんが。

しかしより重要な違いはその「あるべきイスラーム」の内実です。ハーバード大学のイスラーム研究者W.C.スミスは、「イスラーム」という言葉には(1)個人的なアッラーとの関係、(2)ムスリムの制度化された宗教思想の、(3)歴史的な現実、文化、の三つの意味があると言います。クルアーンやハディースの用法は(1)の人間と神との個人的な関係を指していましたが、13世紀頃からムスリムの間でも(2)の制度化された教義の体系の意味で使われ始めます。(3)の歴史的な現実、文化を「イスラーム」と呼ぶのは、最近のことで、非ムスリムのイスラーム研究者、いわゆる「オリエンタリスト」が始めたことです。イスラームに(1)個人的なアッラーとの関係、(2)ムスリムの制度化された宗教思想、の二つの意味があることに私も異議はありません。ムスリムによって制度化された宗教思想としての第二の意味の「イスラーム」が、ムスリムにとって規範的な「あるべきイスラーム」であるのは当然でしょう。しかしムスリムにとって本当に重要なのはクルアーンの用法(1)の個々のムスリムとアッラーとの個人的関係です。

このアッラーと個人との関係としての「イスラーム」も言うまでもなく規範的な「あるべきイスラーム」です。アッラーと個人との関係における「あるべきイスラーム」とは、アッラーによって「イスラームと認められたもの」、つまり「それによって来世での楽園の救済に値するムスリムと認められた存在様態」ということです。とはいえ、キリスト教のように、人が神の子になったり、神の子の代理人がいたり、人に神(聖霊)が憑く、といった概念を持たないイスラームにおいては、誰がムスリムかを判断できるのは、神だけであり、神が人間にいちいち「今のあなたはムスリムと認められた」と語りかけるわけではないので、誰にも知ることはできません。それゆえ当の本人は自分の信仰を常に自問し続けるしかありまんが、他人の信仰については関知するところではありません。

しかしイスラームの教えはアッラーとその使徒ムハンマドを信ずる者にしか課されませんから、共同生活を送るには、ムスリムとそうでない者を区別する必要が生じます。ジハードやイスラーム刑法を持ち出さなくとも、食物規定やドレスコードが違えば共同生活が困難なのは、イスラームに限った話ではありません。そのため本来は判断する必要がない他人の信仰についても、神の御許で誰が本当にムスリムであるかはさておき、この世で暫定的に誰かをムスリムとして扱うかどうか、という問題が生じます。

ですからある人間の様態がイスラームであるか否か、との問いは、不可知ではあっても、一瞬毎にどう生きるかの決断を迫られるムスリムにとっては、わからないなりに判断を下さざるをえないために、正当化されます。それは日本のサラリーマンが食事をしなければいけない以上、自分で弁当を手作りするか、コンビニ弁当で済ますか、経済的、健康的、時間的に最適解を見出せなくとも、不完全な情報と限られた時間の中で何らかの選択をする決定を下すことを余儀なくされるのと同じです。

しかし、そういう義務のない非ムスリムに、ムスリムの存在様態がイスラームの教えに適っているか、の判断を下すことが正当化されるでしょうか。そもそもアッラーを信じない非ムスリムの研究者にとっては「アッラーによってイスラームと認められた存在様態」という規範的概念は指示対象が実在しないため、そもそも問うことが出来ないはずです。しかしできないはずですが、制度化された教義の体系が確立しているイスラームでは、外部の非ムスリムであっても、あるムスリムが何をイスラームと考えているかについて、その言動をその教義体系に照らすことで、ある程度推測することはできます。他者としてのムスリムとの接触による文化、社会、経済、政治、軍事的危険の回避を目指し、ムスリムの行動を予想し制御するための実践的な学問がイスラーム地域研究であるとするなら、ムスリムの行動原理を理解しようとすることは、その有用性に鑑みて正当化されることは理解できます。イスラーム地域研究の中でも、社会、経済、政治的要因より、イスラームがムスリムの行動を大きく規定していると考え、イスラームの教義体系に照らして、ムスリムの行動を解釈し記述するのが、飯山さんの仕事だと私は理解しています。

イスラームを制御の対象である他者とみなすイスラーム地域研究の価値観にはもちろん私は与しませんが、価値観自体の善悪、優劣を論ずることは、イスラーム地域研究の課題でもなければ、イスラーム学の目的でもありません。イスラームの教義体系に照らして、ムスリムの行動を解釈し記述するイスラーム地域研究、という学問的方法自体は、私も共有しています。ここまでが前置で、重要な違いである「『あるべきイスラーム』の内実」に話が戻ります。まず個人のムスリムの場合です。

外部の観察者は基本的に自分が見た限られた行為を元に、「あるべきイスラームの教義」の範疇に当てはめて、そのムスリムの「あるイスラーム」を判断することになります。たとえばラマダーン月に小巡礼(ウムラ)に来てマッカの聖モスクにお籠り(イウティカーフ)をしているムスリムが居たとします。この場合、小巡礼も聖モスクでのお籠りも滅多にできない善行であり、ラマダーン月に行うことは特に功徳があるとされていますので、その相手の様態、「あるイスラーム」は敬虔と判断されるでしょう。

4│複合的、重層的イスラーム

しかし、ムスリムにとっては、人生は切れ目のない連続でありどの行いも前の行為と繋がっています。そして人間の行為は、様々な次元における複合的な現象であるため、そのイスラーム性もそれぞれの次元において解析されねばならず、それ故実際の具体的な行為は通常、イスラームに合致した次元とそうでない次元の複合であり、さらに同一次元においても真偽が混在することもしばしばです。

前節の最後であげたラマダーン月にマッカに小巡礼に来てマッカでお籠りをして礼拝していたムスリムの例に即して言えば、その経緯は以下のようだったかもしれません。彼はダールルイスラーム(イスラームの国)の国境の前線の防人(ムラービト、ムジャーヒド)だったのが、異教徒が攻め入って来たので敵前逃亡して、良心の呵責からラマダーン月に一か月のマッカの聖モスクでお籠りをしようと決意し、小巡礼(ウムラ)に出かけたものの、無計画だったのでたちまち路銀が尽きて途中で出来心から巡礼装束を盗みそのまま泥棒になって盗みを重ねつつようやくマッカに着いたけれども、空腹に負けてラマダーン月の断食を破ってしまったが、悔い改めてマッカの聖モスクに籠って夜明かしし、規定の浄化の潔斎をしないままで夜通し任意の礼拝に立ち尽くしたのでしたが、実のところその礼拝の要件の多くを間違えていた、としましょう。

そうであれば、イスラーム法を知悉した者がより詳細に見るなら、そもそも聖モスクのお籠りも、夜通し立って礼拝していても礼拝の条件である浄めを行っておらず、礼拝の式次第の要件を間違っていれば全て無効ですし、ラマダーンの昼間の斎戒断食を破っているのでそのお籠りはむしろ罪深いものです。そしてマッカに小巡礼に来たこと自体、路銀も持たず、盗みを働きながらであれば、善行より罪がまさります。これは短いタイムスパンで切り取った行為の中に善と悪、合法と不法、罪と敬虔が綯い交ぜになっている場合です。より長いタイムスパンでみれば、たとえ泥棒もせず、マッカに小巡礼をし、ラマダーン月に聖モスクにしっかりお籠りし日中は斎戒を全うし、きちんと浄化を済ませ完璧に要件を満たした礼拝を夜通し続けたとしても、ダールルイスラームを侵攻した異教徒から防衛するジハードで敵前逃亡した者は、そんなことをするより、なにはともあれ一刻も早く前線でのジハードに戻るべきなのであり、敬虔であるどころか、重罪人でしかありません。

神の視点からとは言わず、信仰者としての一ムスリムの主体的な視点からでも、一人のムスリムの時間と空間の一点における「あるイスラーム」の信仰の様態さえ、時間と空間の無限に多様な「あるべきイスラーム」のパースペクティブからの分析の可能性があり、「あるべきイスラーム」の基準に照らして善悪、罪と敬虔が複雑に絡み合っており、他者の生の全体を見通すことが出来ない外部の観察者の理解を原理的に超えています。

イスラーム法では、人間の行為を(1)「行わなければ来世での罰に値するもの」、即ち「義務(ファルド、ワージブ)」、(2)「行わなくても来世での罰はないが行われば来世での報奨に値するもの」、即ち「推奨(ムスタハッブ、マンドゥーブ)、(3)「行っても行わなくとも来世での罰も報償もないもの」、即ち合法(ムバーフ)、(4)「行っても来世での罰はないが、行えば来世の報奨に値するもの」、即ち「忌避(マクルーフ)」、(5)「行えば来世での罰に値するもの」、即ち「禁止(ハラーム)」の5つの範疇に分類することは、日本でもイスラーム関係書の読者の間で知られてきたかと思います。しかしイスラーム法は_ムスリム_を対象としているので通常は論じられませんが、実は第6の範疇があります。それは「多神崇拝(シルク)」であり、それを伴えばあらゆる善行が無効になり無条件に来世での永劫の罰を蒙ることになります。言い添えると、ここでいう「多神崇拝(シルク)」は専門用語で「ムスリムでなくなる大多神崇拝(シルク・アクバル・ムフリジュ・ミッラ)」と言われるもので、そこまで重大でなく重罪ではあってもムスリムではあり続ける「小多神崇拝(シルク・アスガル」とは区別されます。またイスラーム法上の来世での罰に値する行為も、未成年や狂人などの責任能力を欠く者の場合や、正当防衛など違法性阻却事由がある場合には免責されることは、日本の法律と同じです。話を第6の範疇、「(ムスリムでなくなる大)多神崇拝」に戻すと、ムスリムの様態を判断するには外面的な行為を見るだけではなく、そもそもその人間が「多神崇拝」を犯していないか、を考慮する必要があります。外面的にいかに熱心に礼拝や斎戒断食に励み、大巡礼(ハッジ)に行き、ジハードを行っても、同時に例えばシバ神や、大日如来や、お稲荷様を拝み、十字架、神社の交通安全のお守り、曼荼羅、贖宥状(免罪符)などを後生大事に身につけていたなら、善行のすべては無効になり、大多神教の罪でムスリムでなくなり、来世での永劫の罰に晒されます。またダールルイスラームを侵略するためにムスリムを装っていたスパイの場合も同じです。

ですから、イスラームの教義に照らして_ムスリム_の行動を分析するには、個別の動作の一つ一つをイスラーム法の範疇に当てはめてカズイスティック(決疑論的)に判断するより前に、まずそもそもその人間がムスリムであるかどうか、多神崇拝を犯していないか、を総合的に判断する必要があるのです。そしてもし多神崇拝ではない、と判断できた場合でも、非ムスリムがイスラームに照らしてムスリムの行動を解釈するイスラーム地域研究にはもう一つ方法論上の大きな問題があります。

既に述べたように、イスラームを生きるムスリムの様態は、ただアッラーだけが崇拝すべき存在であると認めている限り、善と悪、合法と不法、罪と敬虔が綯い交ぜになっていても、ムスリムとみなされる、つまりその現存在の様態は総体的にイスラームとみなされます。であるならば、礼拝をする、斎戒断食をする、ジハードを行う、喜捨をする、孤児を養う、隣人に親切にする、といったイスラーム法上の義務行為、推奨行為がイスラームだとみなされる、のは良いとして、アッラーだけを崇拝すべき存在と認めているなら、イスラーム法上禁止されている殺人、強盗、姦通、飲酒などを行ってもそれもイスラームだということになり、殺人、強盗、姦通、飲酒もイスラームの特徴だということになります。

この問題については「姦夫は姦通を犯した時に信仰者であれば姦通など犯さない。酒を飲んだ時に信仰者であれば酒など飲みはしない。盗んだ時に信仰者であれば盗まない。」という解釈の難しい預言者の言葉も伝えられており、本当は長大な議論が必要なのですが、省きます。

5│日本でイスラームを語る困難

殺人、強盗、姦通、飲酒もイスラームだというのは、直感的になにかおかしい気がすると思いますが、これを日本人に置き換えてみるとその奇妙さがはっきりするでしょう。殺人、強盗、姦通、飲酒などを行っても日本の法律では日本国籍を奪われることはないので、その人間が日本人であることには変わりはありません。だから殺人、強盗、姦通、飲酒も日本人の特徴だと言えないことはありません。ところが日本の法律では外国の国籍を取得すれば日本国籍を失いますから、日本人は、殺人、強盗、姦通、飲酒はおろか、外国と通謀して日本の武力侵略の手助け(外患)を行うことは許していても、外国の国籍を取ることは許さない、と言うこともできます。

日本のことを少しでも知っている人間なら、こうした言い回しがおかしいことは常識でわかりますが、日本についてまったく知識がなければ、これを聞いて日本は極端にナショナリスティックな狂った国と誤解するかもしれません。イスラームについても同じです。イスラームについての知識がほとんどない日本人に対してイスラームを語る場合には、論理的に正しいだけでなく、誤解を招かない適切な言い回しをするように慎重に配慮する必要があります。

属性ではなく、行動の動機をイスラームの教義で説明する場合はまた別の問題があります。先ほど述べた殺人、強盗、姦通、飲酒によって、ムスリムが必ずしもムスリムでなくなるわけではない、言い換えればその「イスラーム性」が否定されないからと言って、ムスリムが殺人、強盗、姦通、飲酒を行った場合、そのムスリムが殺人、強盗、姦通、飲酒を行ったのは、イスラームの教義のためだ、あるいはそういう罪を犯した動機はイスラームの実践を意図してだ、と言うのが正しくないのは自明、と言っても異議はあまり出ないと思います。しかし、一日に5回礼拝をした、ラマダーン月に斎戒断食をした、マッカに巡礼に行ったのは、イスラームの教義のためだ、あるいはイスラームを実践するためだ、と言うのは一見すると正しそうに思えます。しかし必ずしもそうではありません。

たとえば、あるムスリムがラマダーン月に斎戒断食はしていても、一日に5回の定時の礼拝はしていなかったとすれば、イスラームの教義にあるにもかかわらず礼拝はしないのに斎戒断食はするのはイスラームの教義にあるからだ、となぜ言えるのでしょうか。斎戒断食するのはイスラームの教義にあるから、といった説明は実は説明になっていません。どちらもイスラームの教義にありながら、斎戒断食はする一方で、礼拝はしないという違いがどこから生まれるのか、その原因こそが真に求められる説明です。それは女性が髪を覆うこと、男性が太腿を隠すことのような服装コードでも、豚肉や酒を飲まない、といった食物規定でも、利子を取らない、という商法でも、窃盗の手首を切断するという刑法でも同じです。あるイスラーム法上の義務事項が守られ、禁止事項が避けられているとしても、それだけで、それがイスラームの教義に規定されているからだ、とは言えません。そう言えるのは、すべてのイスラームの教義の規定が実践されている場合だけで、そうでないならば他の規定が実践されていないのに、その規定は実践されていることの特別な理由が解明されなくてはなりません。

終りに

イスラームの教義に照らして他者としてのムスリムの行動を説明するイスラーム地域研究が抱える方法論的問題について語り始めるときりがないのですが、もはや与えられた字数を大幅に超えていますので、取りあえず今回はこれで切り上げようと思います。ここまでの議論からも、イスラーム学にもムスリム社会にも馴染みがない一般読者の皆さんにも、イスラーム学の立場から、イスラームを知らない読者を相手にイスラーム学の立場からムスリムとムスリム世界について語ることの絶望的な困難の一端は理解してもらえたのではないかと思います。

飯山さんとのこの対話が、日本のイスラーム研究、イスラーム地域研究におけるイスラームの理解、あるいはイスラームの理解の困難の理解のレベルの向上に貢献できることを願って最初の書簡を送ります。ミナッラーヒッタウフィーク(成功はただアッラーの御許から)。

「あるべきイスラーム」から離れて 飯山陽

我がイスラム学研究室のレジェンドである中田考先生と、このようなかたちでやりとりする機会をいただいたことを、光栄に思います。

私は研究室にいらした中田先生に何度もお目にかかり、また学会等でも何度もお見かけし、そのたびに「こんにちは」とご挨拶申し上げてきましたが、おそらく先生はご記憶にないことでしょう。

第一便では、先生がイスラム教について勉強を始めた当初の時代背景や、学会全体としての研究主旨について教えていただきました。残念ながら私が学生だった頃には、こうした話をしてくださる先輩や先生がいらっしゃいませんでした。あるいは、私は貧乏学生で、研究室で過ごす時間よりはるかに多い時間を仕事に費やしていたため、こうした話を聞く機会を単に逸していただけかもしれません。

イスラム教を「寛容」「平等」「民主的」「平和の宗教」といった西洋近代由来の概念に「切り詰め歪曲すること」に違和感を抱いていた、と書かれていましたが、私もその点に関しては全く同感です。それは私も、先生には遠く及ばずとも古典イスラム法を学び、また先生と同様にエジプトと、そしてモロッコで長く暮らした経験があるからかもしれません。

特に私は、「教授」とか「大使館員」といった肩書きを一切背負わず、ムスリムたちの中にポーンと放り込まれたような状況でしたから、誰一人私を特別扱いしてくれる人はいませんでした。日本から来た「教授」たちが特別扱いを受けるのを横目で眺めながら、「ああ、この人たちはこういう立場でイスラム世界に来ているから、イスラムは平和で寛容で平等な宗教だ、などと論じられるのだろう」と思ったものです。

先生と私とでは、日本のイスラム研究の方向性に反対という点では一致しているが、方法論においては根本的に異なっている、という先生のご指摘についても、異論はありません。そしてその差異はなによりも、先生がムスリムで私がムスリムではない、という点に由来しているのは、間違いないと思います。

先生は「あるべきイスラーム」について論じてくださいましたが、私は『コーラン』やハディース、イスラム法について学んではいても、それらをそもそも「あるべきイスラーム」といった概念で捉えたことはありません。語弊はあるかもしれませんが、それらは「神の命令自体」あるいは「イスラム教そのもの」と認識しています。それは私自身にとって、『コーラン』やハディース、法規範が「目指すべき目標」ではなく、純粋に「考察対象」だからでしょう。古典の法学書でも、あるいは現代のイスラム法学者の著作でも、「『コーラン』とハディースこそがイスラム法」とか、「イスラム法こそがイスラム教そのもの」という記述を何度も読んでいます。それらを「真に受けて」、現在の私の認識が確立されたのだと思います。

ですから当然、ムスリム個人、社会、共同体のレベルでの「あるべきイスラーム」についてなど考えたこともありません。おそらくムスリムであれば、ぎゃくに「あるべきイスラーム」について考えたことがない人などいないでしょう。それについて考え、語り合うことは、ムスリムたちにとっての生活の欠かせない一部だと思います。私は総じて、「あるべきイスラーム」についてムスリムたちはいろいろ考えている、と認識しています。私はムスリムではありませんから、それらに賛否を示したり、優劣をつけたりする立場にはありません。

先生は「非ムスリムに、ムスリムの存在様態がイスラームの教えに適っているか、の判断を下すことが正当化されるでしょうか」と書いてらっしゃいますが、もしこの「非ムスリム」を私と置き換えるならば、そもそも私はそのような判断を下したことはありませんし、下したいと思ったこともありません。

私は目で見ることのできるムスリムの行動、耳で聞くことのできるムスリムの言葉の淵源に、啓示的根拠が見出せる、という指摘をしてはいます。しかしその行動、その言葉が「あるべきイスラーム」に適っているかどうかという思考のベクトルは、私の思考のベクトルとは真逆です。

また先生は、「イスラームを制御の対象である他者とみなすイスラーム地域研究」と書かれていますが、私は「他者としてのムスリムとの接触による文化、社会、経済、政治、軍事的危険の回避を目指し、ムスリムの行動を予想」するというところまでは賛同しますが、「イスラームを制御の対象」などとおこがましく考えたことはただの一度もありません。私はムスリムたちが完全無欠だと信じるイスラム法を学んできました。ムスリムにとって、イスラム教が完全無欠の宗教であり唯一の真理であることも認識しています。他者によって制御などできないとわかっているからこそ、どうすれば衝突を回避できるか、というのが私の関心です。

イスラム法研究の世界に入って以来、非ムスリムにイスラム研究はできない、という言葉を数名の人から投げつけられてきました。しかし不思議なことに、アラブ諸国のムスリムにそのように非難されたことはありません。私がアラビア語を話し、イスラム法を研究しているというと、彼らの多くは「お前はもうすでにムスリムなのだ」と言います。私が書物からだけではなく、生身のムスリムから多くを学ぶことができたのは、彼らがそう「誤解」してくれたからだとも言えます。

私はこの世で信仰告白こそしてはいませんが、最後の審判の日に誰が本当にムスリムかを判断されるのは神ご自身です。法学者の慣行に倣い、アッラーフ・アアラム(神が最もよく知り賜う)という言葉で、第一報への返信を終えさせていただきます。

追伸。第一便は先生のほうからいただき、私が返信させていただきましたが、これ以降はひとつの時事的トピックについて、先生と私とで同時に分析するというかたちで進めてまいりましょう。先生にご了承いただいたとのことで、最初のトピックについては編集の方と私とで相談して決めさせていただきます。