「反革命分子」の思考 - 雪斎の随想録 (original) (raw)

■ 鳩山内閣には、懸案を処理していく「推進力」は、もはやない。
普天間基地案件の決着は、雪斎が読む限り、次の三つのシナリオしかない、
① 鳩山総理が、苦渋の決断を演出して、「現行案」に近い線での落着を図り、政権の維持を狙う。
② 鳩山総理が、自分の首と引き換えに、「現行案」に近い線で落着させる。
③ 普天間移設が、実質上、頓挫する。
この件jは、あとで、あらためて書くことにしよう。

ところで、民主党のウェブ・サイトを見ていたら、次のニュース記事には、腰を抜かした。
○ 小沢幹事長「民主党青森県連躍進パーティー」で挨拶 腰を抜かしたのは、次の記述である。

主催者を代表して、横山北斗県連代表が「昨年の総選挙では、まさに革命と呼ぶにふさわしい出来事として、私たちは政権交代を実現したが、革命の後は、反革命が起こる」とし、「今、民主党を批判する反革命分子に負けずに、この危機を乗り越えて行かなければならない」と強い決意を述べた。

青森県といっても、雪斎は、南部・八戸の出なので、津軽方面の事情は詳しくない。
だから、この発言の主である横山北斗県連代表という人物が、どういう政治家かも知らない。
何故、腰を抜かしたのか。
自らと政治上の立場を異にする人々を平気で「反革命分子」などと呼ぶ感覚に対してである。
横山議員は、自分のウェブ・サイトにも堂々と書いている。

「反革命分子は普天間問題が自民党政権時代の最大の負の遺産の一つであったことは、鋭い忘却力を駆使して覆い隠し、『この案もダメ、あの案もダメだ』とさかんに喧伝してくる」。

故に、彼の「反革命分子」発言は、民主党青森県連会合という場の雰囲気に煽られて、出た言葉でもないようである。彼は、本気で「「反革命分子」の妨害を信じているのであろう。彼が、どいうい人物か興味が湧いたので、プロフィールを見たら、「大学院―大学政治学教授―政策担当秘書ー衆議院議員」だそうである。キャリアに関しては、割合、雪斎と似たところがある。けれども、彼は、政治学徒として何を研究したのか。
「反革命分子」などという言葉を平気で使う感覚の下で行われた政治は、もはや政治ではない。政治という営みの前提は、たとえばハンナ・アーレントが指摘したように、「多様性」への愛着があることである。凡そ、「反革命分子」という言葉を使う論理からすれば、「反革命分子」とは、排除と根絶の対象にしかならないl。それは、フランス革命期の「ジャコバン派」から、二十世紀中国の「紅衛兵」やカンボジアの「クメール・ルージュ」に至るまで、繰り返し再現された光景である。

多分、彼の「革命」の観点からすれば、雪斎は、「反革命分子」、「反動分子」の筆頭であろうから、世が世なら真っ先に粛清の対象であろう。
最も穏便な場合でも、国外に亡命しなければならないとか…。
こういう心配をさせる言葉を政権与党の一県連代表たる政治家が使うとは、凄い時代になったものである。
アナトール・フランスの小説『神々は渇く』の世界が、日本でも出現するとは、夢にも思わなかった。
…というのは、いささか筆が滑ったというところであろう。

だが、こうした言葉遣いを民主党政治家がすることに示されるように、民主党の失速は、もはや鳩山・小沢の二枚看板の責任だけではあるまい。むしろ、「反革命分子」などという偏狭極まりない言葉を遣っても、咎められない雰囲気があることが、民主党の失速に大きく与っている。小沢一郎幹事長が検察の捜査を受ければ、検察を批判し、検察審査会が「起訴相当」の議決を出せば検察審査会への批判に走る。政権交代という「革命」を担った自分たちに逆らう輩は、「反革命分子」だという意識が民主党にあるのであれば、そういう意識は、現下の国民意識委からは、かなり懸け離れているであろう。民主党失速jの因は、そうしたことにあるということは、もう少し冷静に見ておいたほうががいいであろう。
アナトール・フランスは、『神々は渇く』を通じて、「人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全な者であること、されば人生の掟は寛容と仁慈でなければならないこと」を伝えようとした。「反革命分子」などという言葉のどこに、「寛容と仁恕」を感じることができるというのであろうか。

『神々は渇く』は名著である。「正義を実現する」という動機の裏に潜む狂気と傲慢をを教えてもらったという点では、雪斎には、忘れ難い作品である。そういえば、「事業仕訳」作業の面々にも、似たような空気が…。きのせいであろうか。