菜根譚84、マジメさについて(郭嘉の説く十勝十敗論) (original) (raw)

「官職にいる際に重要な二語がある。

ただ公正であろうと努めれば事態はより明らかとなり、ただ清廉であろうとすればそこには威厳が生じる。

家にいる際に重要な二語がある。

恕(じょ、ゆるす心)があれば感情は穏やかになり、倹約に努めれば物事に不足はなくなるのである」

・解説に「恕」についていい話がありましたので挙げて紹介したいと思います。

孔子が弟子の子貢に言ったのがこの恕であり、

「自分のして欲しくないことは他人にもするな」と。

ですからこれは裏を返せば自分がして欲しいと思うことを他人にもしなさいということにもある程度繋がるものでしょう。それというのはつまり思いやりの気持ちであるのだと。なるほどと思いましたので紹介します。

「主観的である」ってことは今日かなり批判されるものですよね。主観的に考えるな、もっと客観的に考えろと。でも客観的ってなんだ? 客観性を担保してくれるようなその主体ってなんだ? と考えていくと、客観というのはかなり幻想に近いものだと個人的には思いますし、人が求めたとしてどこまでたどり着くことができるかといえばかなり怪しいと思いますし、リクツの上での正解は示せてもそれがどこまで当たっているのか、正解の方向性を示しているのかはかなり怪しいと思っています。正解を示すようでかなり当てずっぽうなんですね。それに比べれば主観的であること、「自分はこう思う」と思えることというのは少なくとも一人はそれが正解であることを支持している人はいるわけですから信憑性としてはよりあるものと考えていいのではないかと思います。まあひとりよがり、独善に陥るきらいはあるわけですが、まあそれならそれで失敗したと思っていい経験になったと開き直ること、糧としていくことも必要なのかなと。

例えば、うまいものを人に勧めるとする。その時の根拠となるのはどうしても自分の味覚だと思うしそれの上に成り立った自らの経験になると思うんですよね。ところがうまいものとか人の味覚なんてのは千差万別であり、そこに客観性を入れていくと答えは絶対に見つからない。と謳うできない境地となる。

ここで人はじゃあ食べログで☆がいくつついているかとやるわけですが、つまり客観的にうまいものを示そう、探そうとやるわけですが、それは参考にはなるとしてもじゃあ正解があるかどうかといえばかなり怪しい。というより、恐らくどう転んでもハズれる。その時に「でも食べログ的には評価は高かったんだけどなあ」と一応言える。その方向性というのはハズレをなくそうとするものではあっても、正解をこれだと指し示す方向性ではないでしょう。そして食べログに基づくことなく「これがいいんだ」と示すことというのは、そのハズレの時のダメージを己が一身に背負うことになる。ダメージがでかいんですね。この客観性に基づきハズレを極力なくそう、少なく抑えようとするか、それともオレの舌に合う、オレの主観を喜ばせるものを突き詰めるか。この二つの方向性というのは同じく正解を模索しようという努力としてなされるものですが、しかしそれがもたらす結果としては全く違うところに出ます。

で、私の個人的な狭い経験に範囲を絞れば、この主観的な方向性でうまいものを突き詰めるということはけっこう外さないものだと思いますし、意外と精度が悪くないと思います。正解にどれだけ近づけるか、どれだけ近づいたその高みを目指せるかということについていえば、明らかに主観的にこだわり突き詰める方がいいなと。というより、そもそも客観性というものも主観的なものを外して成り立たないものである以上(つまり主観的なものというのは客観性を構築する上での一要素であり、加点はなされても本来減点されるべき要素はないという加点主義的な考えに本来元すいている以上、そこにあるのは排除の論理ではなく加点主義的なものであると言える)、本来は十分に誇っていいものであると言えるでしょう。主観的であるがゆえに排除され、その主観性の排除の先に客観性を求めるというのは本末転倒です。

最近脱線が長いですね(笑)

食べログが本筋ではないのでここらではしょります(笑)

・一つ懸念されるべきことがあるとすれば、クソマジメというのはどこまで許容されるのかということです。

マジメをよしとし、ただ従っているだけでいいというのが仕事であるならば、人よりも機械の方が明らかに優れているとなれば、マジメなだけの人間は既にいらない時代に入っているなというのを肌身を通して感じています。なにしろ人は休みが必要ですが、機械は24時間休みがいらない。故障すれば人が出向いて行って直せばいいのであって、やれ8時間だ10時間だ生活リズムだ休養時間だというのを必要としている人、その「人」というものに対する概念そのものが急速に変容しています。明らかに主体は機械であり、人ではなくなっている。最近はコンビニで24時間働けという命令が出た例もあるようですが、考えられる際の主体というのは明らかに人にできることではなくなっているし、機械が負うべき期待を人が背負っているがために破綻している例が多く見受けられるように思います。

これを念頭において冒頭の

「官職にいる際に重要な二語がある。

ただ公正であろうと努めれば事態はより明らかとなり、ただ清廉であろうとすればそこには威厳が生じる。

家にいる際に重要な二語がある。

恕(じょ、ゆるす心)があれば感情は穏やかになり、倹約に努めれば物事に不足はなくなるのである」

という文章は考えられる必要があるのではないかと思います。

・袁紹(えんしょう)という人がいました。華北の雄として知られており、曹操をはるかに上回る勢力、兵士数を持っていました。それが官渡の戦いで敗れて滅ぶことになるわけですが。

袁紹に会った郭嘉(かくか)は自分の見知った袁紹の人柄について曹操に話します。

郭嘉の十勝十敗論といいますね。

こちらのサイトが参考になります。

引用しますと、

「袁紹は人が飢えていたり凍えていたりすると、『ああ、かわいそうに』と顔や態度に表れる。しかし、視界の外のことには思いが至らない。曹操は、目の前の人の苦しみにはさほど関心は示さないが、国家全体を見渡して恩恵を施すところはどこかと目配せを怠らない。全体としてみた場合、曹操の方が仁愛にあふれる政治をしている」

これを見ると、袁紹の方が優しいと言えば優しいんですよね。

可哀そうだと涙を流すし、生活に困っているなと思えば施しもする。

曹操は冷たいので、直接そうはしない。

でも「どうしてこんなことになるんだろう」

と考え、政策をしてその問題の本質的な解決をする。

困っている人がいたら持っている魚を分け与えるのが袁紹であれば、魚を釣る仕組みを教え、釣る仕事を作ってやるのが曹操だと。そして結果的に見れば袁紹より曹操の方が問題を解決している。できている。そしてそもそも生活に困窮する者が出ない政治を行うのだと。

結果がすべてだというのはかなり冷たい見方な気もしますが、でもそこにはある一定の理があると言える。

袁紹の優しさをここで全否定しようとは思いませんが、でもじゃあ優しさというのは一体何なのだろうと思うことはできますし、その本質的な意義というのはもっと考えられていいものではないかなと。

機械が羽根を伸ばすようになった昨今ですから、よりこの袁紹的な優しさと、曹操的な解決、そしてその政策の違いにより至ることになる結果の違い、そうしたものは考えられていいように思います。