華氏451〜本を読むことが禁止された管理社会を描くトリュフォー監督作 (original) (raw)
原作はアメリカのSF作家レイ・ブラッドベリが1953年に刊行した同名小説。1920年にイリノイ州に生まれたブラッドベリは10代の頃より創作活動を開始。短編を書いて初めてギャラをもらったのが21歳の時。これがきっかけで数多くのパルプマガジンなどで作品を発表し続けた。1950年の『火星年代記』で評価されたのち、未来社会の焚書をテーマに取り組んだのが本作だった(実際に30年代のナチス・ドイツでは、ヒトラー自らの思想や支配に“悪影響”を与えかねない書物や知識が次々と焼かれた)。タイトルの数字“451”は紙が燃え上がる温度を示す。
ところで「SF」と聞いて、何を想像するだろうか。宇宙開発の冒険、異星人の侵略、地球の滅亡、社会の未来図、現実の“IF”……これほど作家の空想力を必要とするジャンルは他にない。ブラッドベリは2012年6月5日に91歳で亡くなるまで、この世界で生きてきた。
(以下ストーリー・結末含む)
書物を読むこと、活字文化が禁じられた管理社会。モンターグ(オスカー・ウェルナー)の仕事は、密告による書物の捜索と焼却を任務とする焚書。今日もサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』やナボコフの『ロリータ』を処分したばかり。警報が鳴るとポールを滑り降りて出動し、目的地で本を焼き、勤労時間が終わるとモノレールで帰宅し、家でくつろぐという生活をループしている。家で呑気にテレビを見入っている美しい妻リンダ(ジュリー・クリスティ)とは空虚な関係になりつつある。
そんなある日、通勤時のモノレールで妻そっくりのクラリス(ジュリー・クリスティ/一人二役)と出逢ったことから、運命が動き始める。彼女は熱心な本の愛好家/読書家であったことから、モンターグも次第に本に興味を抱く。そしてディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』を妻に隠れて読み始める。それからは現場から何冊、何十冊と本を盗んでは読み耽り、忘れていた感動を取り戻していく。
しかし、彼を待っていたのは妻の冷酷な裏切りだった。社会の異端者にされたモンターグは、火炎放射器で自分を逮捕しようとする上司を殺害。殺人犯として追われる身となる。逃亡先は以前クラリスが教えてくれた森の先。そこは「本の人々」が密かに共同生活を送っている。全員がそれぞれ担当する本を暗記しており、名前は「不思議の国のアリス」といったように本のタイトルで呼び合う世界。モンターグは何かに取り憑かれるかのように森の中へ入っていく……。
『華氏451』は、フランスのヌーヴェルヴァーグを代表するフランソワ・トリュフォー監督によって映画化された。1962年に版権を獲得。資金問題の影響で動き出すのに3年半も掛かってしまった。カイエ・デュ・シネマ誌では、1966年1/11〜6/21の撮影日誌を掲載。トリュフォーの苦悩が記されていて興味深い。
●1月16日(日曜)
3年前には『華氏451』は、奇想天外な未来生に彩られユニークなSF映画の形態を備えていた。だがそれからジェームズ・ボンドが出現し、クレージュの宇宙的ファッションがあり、ポップアートが流行し、ゴダールが「アルファヴィル」を作った。
●1月21日(金曜)
ユニバーサル専属のハリウッドの弁護士たちが、フォークナーやサルトルやプルーストやサリンジャーらの本を焼かないでくれ、と言う。公衆道徳問題で裁判沙汰になりはしないか恐れているらしい。馬鹿な話だ。
●2月22日(火曜)
オスカー・ウェルナーにまたまた手こずる。私の演技指導を無視し、勝手にクラリス役のジュリー・クリスティーの腕を取ったり、彼女に笑ってこっちを向いた方がいいなどと、自前の演出を始める。私はついに頭にきて怒鳴りつける。「もし私の撮るシーンが気に食わぬのなら、さっさと控え室にでも引っ込んでくれ。私は君なしで、あるいは代役を使って撮る」
●3月9日(水曜)
映画のテーマは奇妙にスタッフの内面に大きな影響を及ぼすものだ。『突然炎のごとく』の撮影中にはみんなドミノ遊びに夢中になったし、『柔らかい肌』ではみんな妻、あるいは夫を裏切った! そして『華氏451』は開始以来、みんなが読書に熱中しだした。
●5月26日(木曜)
バーナード・ハーマンと映画音楽についての打ち合わせをする。私たちは『華氏451』のプリントを1巻ずつ上映しては、音楽について話し合った。何よりまず、音楽が“何も意味しない”ように頼んだ。各シーンの異常性をエスコートするだけの音楽を要求したのである。
●6月13日(月曜)
『華氏451』の中に引用される書物には、
・画面に登場するもの
・朗読されるもの
・台詞の中に使われるもの
・焼却されるもの
と4種類あるが、その選択意図にはあまり気をまわしてもらいたくないと思う。
●6月21日(火曜)
音入れの仕事がまだ7月末まで続く予定だが、私は今日でこの日誌を締めくくりたいと思う。「こんな話を普通と違ったやり方で語ったら面白いに違いない」というのが、私のすべての作品の発想だ。『華氏451』では幻想的な話を日常的なスタイルで描くことによって、異常な事柄を正常な事柄に還元しようとした。小説を書くにしても、映画を作るにしても、作家とはあたかも正常な人々に向けて演説する異常な狂人のようなものだ。