般若心経に意味はない~『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』のレビュー~ (original) (raw)
この広告は、90日以上更新していないブログに表示しています。
世はまさに大哲学時代!
もくじ
*** 哲学ブームの背景にあるのは日本人の宗教アレルギーか** *** 『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』** *** 東洋哲学と西洋哲学の違いって何?** *** 東洋哲学の理解には「実体験」が絶対に必要** *** すべては「方便(ウソ)」である** *** 般若心経で一番大事な箇所** *** マインドフルネスも同じ** *** おわりに**
書店に行けば、ビジネス書に混じって哲学の本がゴロゴロしている。ちょっと羅列してみよう。
※どの本も読んでないので、おもしろいかどうかは知らない。ただ『いま世界の哲学者が考えていること』はおもしろそうなので、そのうち読んでみる
なぜいま、哲学が世に求められているのか? それはよくわからないが、急に人々が真理の探究に目覚め始めたわけではないと思う。
哲学ブームの背景にあるのは日本人の宗教アレルギーか
ただ個人的に思うのは、高度成長時代やバブルの時代を経て世の中が混迷を極め、テクノロジーの発達も加速度的に早くなり、数年先ですら世の中がどうなっているかわからない社会が到来したことと関係はある。*1
こういう状況だと、即物的なハウツーはあまり役に立たない。なぜなら、いまの常識がたった数年で古びて役に立たなくなる可能性が高いからだ。そこで、人々がよりどころとしたくなるのが、どれだけ時間がたっても変わらない永遠普遍の智慧になるのである。
そういう状況では多くの場合「宗教」が頼られがちだが、日本ではオウム真理教の事件などもあって宗教に対するアレルギーが強い。そこで、宗教色はないけれど同じく真理を学術的に探究している(ように見える)哲学に関心が集まっているのだろう。……などと勝手に分析している。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』
で、今回紹介するのがこちら。
本書は第2弾であり、前作はこちら。
とにかく、わかりやすい!
著者の飲茶氏はブロガーで、数学や物理学・量子力学などにも詳しい人だが、私たちにとって卑近な例を出しながら「偉い哲学者たちはなにをどう考えていたのか?」ということをすごくわかりやすく伝えてくれているのである。
哲学的な基礎知識はまったく必要ないし、第1弾を読んでいなくても内容の理解にはまったく問題ないので、哲学に興味がある人は読んでみてほしい。
今回はこの中から、徒花が特におもしろかったポイントをかいつまんで紹介していく。
東洋哲学と西洋哲学の違いって何?
まずそもそも「西洋哲学」と「東洋哲学」はどのように区分されるのだろうか?
これについては厳密な定義がないので恣意的になってしまうが、とりあえず本書の場合は
西洋哲学=古代ギリシャ哲学をルーツにしたもの
東洋哲学=古代インド哲学をルーツにしたもの
としている。
んで、次に伝える内容が最大の違いであり、本書でも非常に強調されている。
それは「西洋哲学の真理は本を読めば理解できるが、東洋哲学の真理は本で読んでも絶対に理解できない」という点である。
なぜなのか?
これはそもそも「理解する」の定義が西洋哲学と東洋哲学では違うからである。
東洋哲学の理解には「実体験」が絶対に必要
本書ではその理由が細かく書いてあり、厳密にはそれらをわかっていないとダメなのだが、簡単に説明すると、
西洋哲学における理解=相手に説明できればOK(知識として理解できればOK)
東洋哲学における理解=知識ではなく実体験が必要
である。引用しよう。
たとえば、「あの路地裏に蛇がでるよ」という噂があったとする。
たしかに暗い路地裏をのぞきこんでみれば、蛇みたいなものがいるのが見える。当然、そんな恐ろしいところには誰も近づかない。だが、ある日、勇気をだしてその路地裏に行った人があなたにこう教えてくれた。
「あそこには蛇なんかいないよ、あれはただのロープだ」
また、彼は、そこに蛇がいない理由についても理路整然と説明してくれた。「そもそも蛇の習性から言って、あそこにいるはずがないんだ」などうんぬんかんぬん。その説明はとても妥当で論理的で、あなた自身「うん、そうだね、キミの言うとおりだ、反論のしようもないよ」と思ったとする。
でもだからといって、「じゃあ、おまえ、いますぐあの路地裏に行ってこいよ」と言われたら、ひるんでしまう。足がすくんでしまう。
そんなあなたを見て、不思議そうに彼は言う。
「あれ? 蛇はいないってさっき説明したじゃない。忘れたの、もう一回説明する?」
いやいや、何度説明されても同じ。身につくのは結局のところ「知識」だけである。
(中略)
では、「ホントウに知った」と言えるのはどういうときだろうか。それはもう「ホントウかどうあ」を自分で体験して確かめたときである。
あなたは勇気を出して路地裏に行き、ドキドキしながら蛇の姿をした何かに近づいた。
(中略)
そして近づいてみると――、それはロープだった。上から見てもロープだった。横から見てもロープだった。つまんでしげしげと眺めてみても――、やっぱりロープだった!
あなたは急いで帰って、別の友人にそれを報告する。
「見てきた! あれはロープだった!」
というわけで、この本を読んで東洋哲学が伝える心理を理解できたとしても、それはあくまでも「知識として」わかっただけであって、東洋哲学でいうところの「理解」からは程遠い。
その意味で、本書は「読んでも東洋哲学を“理解”はできません」と述べているのである。
すべては「方便(ウソ)」である
当然ながら、「真理(=悟りの境地)」はひとつだけである。
しかし、そこにたどり着くまでに仏教ではいろいろな方法を使う。ある宗派はひたすら座禅するし、ある宗派は問答をするし、ある宗派は滝に打たれるし、ある宗派は念仏をひたすら唱える。
しかし、じつをいえば、これらの行為には全然意味がない。というよりも、全部ウソである。ウソというと耳触りがよくないかもしれないが、人々を惹きつけるための方便なのだ。
たとえば本書では般若心経もかなり分かりやすく解説してくれているが、端的に言えば、般若心経だって方便(ウソ)である。南無阿弥陀仏も方便だ。それ自体にはまったく意味がない。
般若心経で一番大事な箇所
もっと端的に言えば、般若心経の言っている内容なんて理解する必要はこれっぽっちもない。
なぜなら、仏教の目的は般若心経の内容を知識として理解することではなく、ブッダと同じことを「実体験」してもらうことだからだ。
たとえば般若心経では「色即是空 空即是色」という。これはすげー簡単に説明すれば、
「あなたが“実在”すると思っているものは、あなたが勝手に名前をつけた、ただの“状態”であって、モノというのはこの世界には存在しないのである」
ということだ。
しかし、別にこんなことを理解する必要はない。
むしろ、頭を使ってこのことを理解しようとした瞬間に「真理」と「真理を理解した私」という二者が生まれてしまい、永遠に真理にはたどり着けなくなってしまうのである。
もし般若心経の中で一番大事な部分を挙げるとすれば、それは最後の部分だけである。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ギャーテーギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボウジーソワカー)
この言葉には、まったく意味がない。
しかし、だからこそ意味がある。
この言葉を、意味をまったく考えずに唱えることこそが、真理(悟り)に近づく道なのだ。なぜならこの言葉を無心に唱えている瞬間、「真理」と「真理を理解するもの」という二者がなくなるからだ。
マインドフルネスも同じ
仏教の目的は「私」と「私以外」をなくすことであって、この境地に達するためにさまざまな手法を伝えているのが各宗派に分岐しているのである。
なにしろ「何も考えるな」というのは非常に難しい。「白熊のことを考えるな!」といわれると、どうしても白熊のことを考えてしまうのと同じだ。
最近話題のマインドフルネスでは「呼吸にだけ集中しろ」という。
これも同じで、いま、この瞬間の呼吸にだけ集中させることによって、できるだけ別のことを考えさせないようにする方便なのである。だから、別に私がなくなる瞬間を作れるのであれば、呼吸に集中する必要なんてない。
(そして、このカラクリを知ってしまったことで、我々はさらに真理にたどり着きにくくなってしまう……というのは皮肉である)
おわりに
というわけで、もしあなたが本当にこの世の真理にたどり着き、悟りを得たいのであれば、こんな本なんて読んで「知識として」東洋哲学を理解してはいけないのである。
ただ、もし単に知的好奇心を満たしたいだけなら、とにかくこの本はわかりやすく、おもしろく学べるのでおススメである。
哲学は奥深い。
そういえば、この間はこちらの本も読んだ。
こっちは西洋哲学者たちをモチーフにした4コママンガだ。
4コママンガなので当然オチがあるのだが、徒花は8割くらい意味が理解できなかった。
まだまだ修行が足りない。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
*1:別に世の中の見通しが立たないのなんていまに始まった話でもないが、そのことに人々が実感を持って気付き始めた……ともいえる