海野幸氏~弓馬の宗家と讃えられ曾我兄弟の仇討ちの際には源頼朝の護衛役、滋野氏の嫡流の家柄です。 (original) (raw)

【海野幸氏】

海野 幸氏(うんの ゆきうじ)は、
鎌倉時代初期の御家人で、
信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる
海野氏の当主です。
「保元物語」や「平家物語」などに登場する
海野幸親の三男で、
鎌倉時代初期を代表する
弓の名手として知られています。
「滋野系図」では海野幸広の子とされています。

【時代】
鎌倉時代初期 – 中期

【生誕】
承安2年(1172年)

【別名】
小太郎

【官位】
左衛門尉、従五位下

【幕府】
鎌倉幕府

【主君】
源義仲
源頼朝
源頼家
源実朝
藤原頼経

【氏族】
海野氏

【父】
海野幸親または幸広

【兄弟】
幸広、幸長、幸氏

【子】
長氏、茂氏、資氏

【海野幸氏の生涯】
治承4年(1180年)、
信濃国佐久郡依田城で挙兵した木曾義仲
父や兄らと共に参陣しました。
寿永2年(1183年)、
木曾義仲が源頼朝との和睦の印として、
嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、
同族の望月重隆らと共に随行しました。

元暦元年(1184年)木曾義仲が滅亡、
その過程で木曾義仲に従っていた
父と兄・幸広も戦死を遂げました。
そして木曾義仲の嫡男である
木曾義高が死罪が免れないと察して
鎌倉を脱出する際、同年であり、
終始側近として仕えていた海野幸氏は、
木曾義高の寝床に入って身代わりとなって
木曾義高を逃がしました。
けれども結局、木曾義高は討手に捕えられて
殺されてしまったのですが、
海野幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、
御家人に加えられたのでした。

清水八幡宮 社

【弓の名手として】
御家人となった海野幸氏は、
弓の名手として「吾妻鏡」に何度も登場します。
早くも文治6年(1190年)には、
源頼朝の射手として
鶴岡八幡宮の弓始めに
金刺盛澄らと共に参加しています。
建久2年(1191年)、
源頼朝が大壇那となって
再建された善光寺の落慶に供奉し、
建久4年(1193年)5月の
源頼朝による富士の巻狩では、
藤沢二郎、望月三郎(重隆)、
祢津二郎らとともに弓の名手と記述されています。

富士山と曽我橋

建久6年3月(1195年)の
源頼朝上洛の際は住吉大社での流鏑馬で
東国の代表者として望月重隆と共に参加しました。
建仁元年(1201年)、
源頼家の御前での的始儀の射手に
中野能成らと共に選ばれています。
そして、当時の天下八名手の一に数えられ、
武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで
弓馬四天王」と称されています。
嘉禎3年(1237年)7月にも
執権北条泰時の孫となる北条時頼に
流鏑馬を指南、
更に鶴岡八幡宮で騎射の技を披露し、
周囲の者達から「弓馬の宗家」
と讃えたと伝わっています。

流鏑馬

【武将として合戦に出陣】
また、武将としても活躍しています。
建久4年(1193年)の
曾我兄弟の仇討ちの際には、
源頼朝の護衛役を務め負傷した事が
「吾妻鏡」に記述されています。
建仁元年(1201年)の建仁の乱、
建暦3年(1213年)の和田合戦
承久3年(1221年)の承久の乱にも
出陣しています。

【海野氏の勢力の拡大】
仁治2年(1241年)3月の「吾妻鏡」では、
甲斐国守護の武田信光と、
上野国三原荘(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)と
信濃国長倉保(現在の軽井沢町付近)の
境界についての争いがあり、
海野幸氏が勝訴しています。
この記述から、海野幸氏の代に
海野氏の勢力が、
信濃から上州西部へと
拡大していたことがうかがえます。

【海野幸氏の最期】
幸氏の死期については、
現在のところは確かな記録はありません。
建長2年(1250年)3月の「吾妻鏡」に、
海野幸氏と思われる「海野左衛門入道」
の名が登場するのが、記録の最後となっています。

【幸氏以後の海野氏】
頼朝や北条家に高く評価された
海野幸氏以後、海野氏は御家人の中では
優遇されたと伝えられていますが、
同時に以後の諸系譜や資料に
異同が見られるようになります。
これは、武田氏との領土争いに見られるように、
海野氏の勢力は海野幸氏の代に急拡大し、
海野一族が各地に散っていった事による
副産物との見解がされています。
実際、南北朝から戦国時代にかけての
動乱期には、海野氏流を始めとする
滋野氏流を名乗る支族が、
信濃全域から上野西部に渡って広く存在していました。

【海野氏】

海野氏(うんのうじ/うんのし)は、
信濃国小県郡海野荘
(現在の長野県東御市本海野)
を本貫地とした武家の氏族です。

【出自】
滋野氏の後裔とされる
滋野則重(則広)の嫡子・重道、あるいは
重道の嫡子・広道から始まるとされています。
海野氏は摂関家の荘園であった
海野荘にちなんでおり、
清和天皇の第4皇子貞保親王
(滋野氏の祖である善淵王の祖父)
が住したと伝えられる場所となります。
ただし、清和天皇の後胤を祖とする
海野氏の系図は裏付けとなる史料に乏しく、
滋野氏とはなんらかの繋がりがある一族とも、
まったく無関係である在地の
開発領主をその祖とする見方もあります。

【平安時代 から鎌倉時代】
平安時代から同族(海野広道の弟から始まる)根津氏、
望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、
三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、
東信濃の有力豪族として栄えてきました。
資料の初見は「保元物語」で、
源義朝揮下の武士に
「宇野太郎(海野太郎)」の名が見えます。
平家物語には源義仲の侍大将として
海野広道の子の海野幸親と海野幸広親子の
名が出てきますが、共に戦死を遂げています。

【三男の運の幸氏】
源義仲の嫡男である
源義高の身代わりとなった忠勤を
源頼朝に賞賛され、
側近に取り立てられた海野幸親の三男である
海野幸氏が家督を継いで、海野氏は滅亡を免れます。
海野幸氏は武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで
「弓馬四天王」と称されたと
伝えられるほどの弓の名手で、
「吾妻鏡」に上野国の所領を巡って
甲斐国守護の武田氏に勝訴した記述が残されています。
この時期に信濃東部(小県郡・佐久郡など)から
上野西部(「吾妻郡」)に勢力を拡大した事がわかります。
同じく「吾妻鏡」には和田合戦で
海野左近なる者が幕府方として討死したとされています。

和田塚(鎌倉市)

【南北朝から室町時代】
その後はしばらく記録に登場しなくなります。
鎌倉幕府が滅んだあとの
建武2年(1335年)に起こった
中先代の乱では、
海野幸康が諏訪氏や根津氏らと共に
北条時行軍に参じ、鎌倉に攻め上ります。
その後の南北朝時代は
他の北条残党と同じように南朝に属し、
信濃守護家小笠原氏や村上氏らと対立しました。
「群書類従」では、
海野幸康は正平7年(1352年)に
宗良親王に従って
笛吹峠の戦い(武蔵野合戦)に参陣し
戦死を遂げています。

応永7年(1400年)の大塔合戦では、
当合戦の寄せ手大将であった
同族の根津遠光300騎とともに
滋野三家嫡流として
海野幸義が300騎を率いて参陣しており、
滋野一族の中でも嫡流家としての
影響力を保持していたことをうかがわせます。
また永享10年(1438年)の結城合戦では
海野幸数が他の滋野諸族とともに
小笠原政康に従って参陣しています。

【戦国時代】
応仁元年(1467年)、
村上氏との戦いで海野持幸が戦死して
所領である小県郡塩田荘が村上氏に奪われ、
応仁2年(1468年)にも村上氏と
「海野大乱」と呼ばれる戦いを繰り広げ、
海野氏の勢力は徐々に衰退していきました。

戦国期では永正10年(1513年)、
越後で長尾氏が高梨氏の支援を得て
守護の上杉氏と対立し、
海野氏は井上氏や信濃島津氏
栗田氏らと守護方を応援するため
越後に侵入しようとするなど
関東管領山内上杉氏の被官として
地位を保うとします。

【嫡流滅ぶ?】
天文10年(1541年)5月、
甲斐国の武田信虎、信濃の村上義清
諏訪頼重の連合軍に攻められ、
当主の海野棟綱の嫡男である
海野幸義は村上軍との神川の戦いで討ち死にし、
海野棟綱は上州の上杉憲政の元に逃れます。
海野宗家はこれにより断絶したとされています。

【海野系図】
けれども白鳥神社系「海野系図」では
海野棟綱の子に幸義以外に貞幸、
貞幸の子である幸直(小太郎・信濃守)を記載し、
幸義の子にも幸光・小太郎・信雅(三河守)らを
記載しています。

真田幸隆が継承】
なお、近世に編纂された
真田家系図に拠れば海野棟綱の女婿には
「幸隆」(幸綱)がおり、
海野氏を継承したとしています。

【海野氏の継承】
嫡流はいったん途絶えましたが、
信濃を領国化した武田晴信は
一族を信濃諸族の名跡を継がせることで
懐柔させる方策を取りました。
甲陽軍鑑」では、
永禄4年(1561年)に武田信玄
信濃先方衆の仁科氏・海野氏・高坂氏を成敗し、
武田信玄の次男で僧籍であった
信親(竜芳)が海野民部丞の養子となり、
名跡を継いだということです。
永禄10年(1567年)8月には
武田家臣団が生島足島神社に起請文を提出しており、
海野氏では幸貞(三河守)が単独で起請文を提出し、
幸忠(伊勢守)、信盛(平八郎)は
連名で提出しています。
ほか、海野被官として桑原氏・塔原氏、
海野衆として真田綱吉(真田幸隆と兄弟)、
神尾房友、海野幸光ら12名の
連名の起請文も存在しています。

【海野氏の後裔】
天正10年(1582年)3月、
武田氏が織田・徳川連合軍の
侵攻により滅亡すると、
信親は織田信忠により処刑されました。
この武田系海野氏の後裔は江戸時代、
高家武田氏へと連なることになります。
一方、戦国時代、小県郡に勢力を扶植した
真田氏は海野氏流を称しています。

【海野左馬允】
なお、海野幸義には
長男の海野業吉がいたとされ、
後の海野左馬允とする説もあります。
その場合、海野氏直系の血筋が
残されたことになりますが、
確かな証拠は現在のところ見つかってはいません。
海野左馬允は、真田幸綱(幸隆)の従兄弟とされ、
真田家臣として「加沢記」など
真田家の記録に登場します。

【そのほかの海野氏】
他に上野国吾妻郡の海野一族である
羽尾幸光(岩櫃城主・吾妻郡代)・
輝幸(沼田城代)兄弟が、
海野棟綱の死後に海野氏を継承したと
称して海野姓を名乗っています。

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