大田和城址~大多和氏は三浦義明の三男である大多和三郎義久が築城しました。 (original) (raw)

【大田和城址】

衣笠城南方の支城として三浦義明の三男である
大多和三郎義久が築城しました。
横須賀市大田和手取にある
標高20mのヤジロー山と呼ばれる
独立丘が大田和城とされています。
城の文字は
大田和城
太田和城
大多和城
とも表記されるとのことです。

「吾妻鏡」によりますと、
大多和義久は鎧摺城に館があったとされ、
大多和義久は三浦一族の中で
鎧摺城(あぶずりじょう)・芦名城~大田和城を経て
衣笠城に至る衣笠城南方ルートを
固めていたと考えられています。

城山に登る虎口が見えますが、
ゲートは閉ざされているとのことです。
電柱の処に「大田和城址」の標識があります。

<大田和城址の入り口付近>
大田和城址の入り口付近

【所在地】
〒238-0311 神奈川県横須賀市太田和4丁目2245

大多和氏

大多和(おおたわ)氏は、日本の氏族。
相模国の有力御家人・三浦氏の庶流であり、
相模国三浦郡大多和村
(現:神奈川県横須賀市太田和)を本貫地としていました。
桓武平氏三浦氏の一族である
三浦義明の子大多和義久が、
領地(相模国三浦郡大多和村)の名前を
名字として称したのが始まりとされています。

三浦義久の子である大多和義成は
従兄の和田義盛の乱には、
和田義盛に与せず北条氏について生き延びました。
さらに宝治合戦で
一族の三浦泰村が謀反を起こしたときも、
北条時頼に従っています。

1333年に、大多和義久の5代目の子孫である
大多和義勝(六左衛門尉義行)は
新田義貞鎌倉討伐に馳せ参じて
その傘下に入り、戦功を挙げています。

「太平記」にも記述があり、その名を確認できます。

1333年(元弘3年)新田義貞の鎌倉攻めの際、
新田義貞は、5月15日 分倍河原の戦い惨敗。
困っていたところに良文流平氏の三浦大多和義勝が
松田、河村、土肥、土屋、本間、渋谷氏を引き連れて
新田義貞の陣に駆け付けた。
新田義貞は大喜びした。

とのことです。

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