狭山の黒い闇に触れる 1119 (original) (raw)

『原文を読みやすくするために、句読点をつけたり、漢字にルビをふったり、中見出しを入れたり、漢字を仮名書きにしたり、行をかえたり、該当する図面や写真を添付した箇所があるが、中身は正確である』

【公判調書3471丁〜】

「筆跡などに関する新しい五つの鑑定書の立証趣旨について」

弁護人:山下益郎

(前回より続く)新鑑定のこのような方法には際立った特徴があり、それは、誰がこの文書の筆者であるかという問題を一応捨象(注:1)しており、直裁(注:2)に言えば、積極消極の意味で予断の入る余地をなくしているということであります。ところが高村など三鑑定は、各文書が同一人の書き手になるものではないかという予断のうえに立って、少なくとも予断を持って事にあたるという姿勢に与し易い(注:3)弱点を鑑定方法それ自体の中に持っているということであります。つまり鑑定人の主観だけで同一筆跡なりとも言えるし、またこれを否定することも出来るわけで、この鑑定方法は主観的、部分面(原文ママ)、一面的、したがって非科学的な方法と言わざるを得ません。

第一審裁判所は、長野鑑定などを鵜呑みにして、石川一雄君に死刑の判決を言い渡したものであります。当審:高村鑑定について特に指摘しておかねばならないことは、脅迫文の対照資料に用いた文書は全て石川君が逮捕されたあと留置場で習字の機会が与えられた後に書き綴ったことの明らかな、昭和三十八年六月二十七日付:中田栄作宛および同年十一月五日付:内田裁判長宛の各書簡(脅迫文と異なり、いずれも縦書きの文書)を用いており、石川君が逮捕される以前に書き写された上申書が用いられていないことであります。その鑑定価値はゼロに等しいと言って過言ではありません。なぜなら、石川君は逮捕されたあと留置場で脅迫文に似せて字を書くことを強制された疑いが極めて強いからであります。

これに加えてこれまでの筆跡鑑定はすべて"警察の手で作成された" という正当な批判を逃れることは出来ない、ということであります。つまり関根政一および吉田一雄の両鑑定人はいずれも、埼玉県警本部刑事部鑑識課所属の警察技師、長野勝弘鑑定人は警察庁の付属機関である科学警察研究所警察庁技官、高村鑑定人もまた、昭和四年から三十三年まで同研究所に勤務した事実が指摘されねばなりません。とくに狭山事件が警察の失態により、みすみす犯人を取り逃し、世の指弾を浴びている事実をも併せ考えるときに、三鑑定に頼ることがどれほど危険なものであるかは、誠に明白なことであります。

弁護団がここに証拠調を申請しようとする新しい三つの鑑定書は、名実ともに筆跡鑑定に価する新証拠と言うべきで、以下その立証趣旨の概略を述べます。

(続く)

注:1 捨象(しゃしょう) =現象の特性、共通性以外を問題とせず、考えのうちから捨て去ること。

注:2 直裁(ちょくさい)=①ただちに裁決すること。②当人が直接裁決すること。

注:3 与し易い(くみしやすい)=大した相手ではなく、扱いが容易であることを意味する形容詞。(=御しやすいとも言う)

・・・ところで、縄張り争い以外、猫社会ではほぼ揉め事は見当たらない。犯罪や冤罪などという妙な出来事が起こらないゆえ、猫社会には検察も裁判官も弁護人も存在しない。犬社会もそうだ。この事実は昆虫界や動物界、植物界や魚類の世界にも言える。とすると、我々人間らは、現在の価値観を捨て、彼らの社会を模範とし生きることが賢明かも知れない。

猫の場合、「ニャン」とか「ニャア」あるいは「フーッ」といったかなり限られた意思表現であっても、彼らは古代エジプトクフ王が君臨した時代から現在までその子孫を残しているのである。学ぶべき点は多そうだ。