本多勝一氏の「「ノーベル賞」という名の愚劣賞」(1973年)と「天皇にこそノーベル平和賞を!」(1974年) (original) (raw)

わたしは日本被団協への今回のノーベル平和賞授与を高く評価し喜びとする者のひとりであり、日本被団協ノーベル平和賞受賞に水をかける気持ちなどこれっぽっちもないが、「ノーベル賞」そのものにたいして無批判に礼讃していると受け取られても心外なので、むかしに読んだ本多勝一氏の「「ノーベル賞」という名の愚劣賞」(1973年)という一文の一部を以下紹介しておきたい。

「貧困なる精神」第1集(1974)

かなり最近、といっても、ほぼ十数年前まで、私もまた多くの日本人と同様、ノーベル賞というものを無条件に「すばらしい、世界最高の賞」と思っていた。これに疑問を抱きはじめたのは、主として言語の問題からであった。

極端な例をあげよう。たとえばエスキモーの偉大な詩人が、エスキモー語で、偉大な詩を書いたとする。いや、実は「書いた」ということ自体が、「ノーベル賞」的な発想なのだ。「字」というものがあろうとなかろうと、偉大な詩は、あくまで偉大である。それが「字」で表現されることを必要条件とする「必要」は全くない。アイヌの世界が、ユーカラはもちろん、物語としてのウエペケレ、言い伝えとしてのウパシクマといった壮大な”文学”(この言葉「文」学もまた偏見の所産であろう)を持っていることを、「字」の世界はどうとらえるのか。この偉大な世界を、どうして、どのような方法で、「世界」(実は西欧)に伝えたらいいのか。

ノーベル賞という奇妙な「賞」は、実はこの点に決定的に関連する。そのエスキモーの大詩人がノーベル賞を受賞するためには、それが西欧の言葉、それも世界侵略をすすめた上で支配的な主流としてのイギリス語とかフランス語とかに訳されている必要があったのだ。すなわち、西欧の、しかも決してバスク語とかルーマニア語ではない、地球的には一方言としての言葉の世界で認知されぬかぎり、賞には無縁なのであったし、今もある。

ことは日本語といえども変わりはない。(中略)

その中に「平和賞」があることでも知られるように、ノーベル賞は設立の当初から「平和」に重点があった。ノーベルの遺言状には「人類の福祉に最も具体的に貢献した人」を対象とすることがうたわれている。地球はじまって以来、最も残虐な侵略をつづけてきた合州国を「特別熱心に」応援した川端氏(引用者注:ノーベル文学賞を受賞した川端康成氏のこと)に賞を出すことが、いかにノーベルの遺言と反対のものであるかは、もはや多言を要さぬであろう。

さて、このたび、その合州国キッシンジャー氏、あのB52によるハノイ市絨毯爆撃・大虐殺に最も貢献したキッシンジャー氏に、こともあろうにノーベル「平和」賞が決定した。私は心底から「おめでとう」を言いたい。なぜなら、ノーベル賞というものがいかに愚劣きわまるものかを、大衆に理解されるためにこれは大変役立つからである。これほど明快に本質を見せつけてくれた例は、これまで少なかった。その意味では、ニクソン大統領に平和賞をやった方がもっと良かったのだが。

ノーベル賞をこれまでに受賞した人々に申上げたい。多少ともうしろめたいものを感じたなら、今からでもよい、返上したらどうだろうか。湯川、朝永両氏も含めて、両氏とも反戦・平和には熱心ときいている。今のままでは、あなたがたは量産されたノーベル賞受賞者の中の「その他おおぜい」にすぎない。返上してこそ、「その他おおぜい」から脱出・浮上することができるのだ。

(後略)

(『潮』一九七三年一二月号 初出)

(「貧困なる精神」第1集 再録 すずさわ書店)

以上のように述べて、本多氏は、「もともと「賞」というものはすべて基本的に愚劣なのだろう。(中略)その中でも特に愚劣なノーベル賞は、かくのごとく、言語的・文化的には「人種差別賞」であり、平和に関しては逆に「侵略賞」である。こんなものに断じて幻想を抱いてはならない」と一文を結んでいる。

「貧困なる精神」第2集(1974)

上記で紹介した一年後、佐藤栄作氏がノーベル平和賞を受賞したことについて驚愕し、上記の一文の問題意識につづけるかたちで、本多氏は「天皇にこそノーベル平和賞を!」という一文を書いている。以下、その一部を引用して紹介しておきたい。

その日の夕刊を見て、ウヒャーッというような、何とも形容しがたい声を私はあげた。あの佐藤栄作氏に、冗談でなしにノーベル「平和」賞!

万歳!

そうだ。一言でいえば正にこれは「万歳!」以外に叫びようがない。

さて、この感激を何から書きはじめようか。いったい私は、これを知ってどういう感情に包まれたのだろう。悲しみ?そんなものは全くない。いったいだれのために悲しむのか。栄作氏が、世界各国の首相の中でも特別熱心に、アメリカ合州国ベトナム侵略を支持したことから、虐殺されたベトナム人たちのために悲しむ、という理屈も成立つかもしれない。だが、北ベトナム南ベトナム解放区の人々は、ノーベル賞などというしろものの愚劣さとイカサマ性など、日本人などよりもずっと早くから、すっかり見抜いている。今さら改めて「悲しむ」必要もない。

では怒りか。去年のちょうど今ごろ、キッシンジャーがやはりノーベル「平和」賞を受賞したとき、本誌昨年一二月号でこの賞の愚劣さについてくわしく書いた(『貧困なる精神』第1集参照)。怒りというものは、裏切られたことに初めて気付いたときにこそ、覚える感情だ。だが、すでにノーベル賞の馬鹿馬鹿しい本質を知っている者にとって、どうして改めて新しい怒りを感じえようか。「やっぱりね」と確認しただけのことにすぎない。

とはいうものの、ウヒャーッと驚いたことは事実である。悲しみでも怒りでもないとすると、この驚きはどうも「喜び」のせいとみるのが正しいと考えざるをえない。決して「意外」だったのではないのだから。意外どころか、キッシンジャーのとき書いた分析が、予言的にピタリと当ったのだから。

そうだ。これはノーベル賞の本質についての自分の分析が、あまりにもピッタリだったことを確認してくれた喜びなのだ。この喜びは、さらに大きな喜びにつながる。すなわち、日本人のかなりの多数部分は、これまでノーベル賞にまだ幻想を抱いていただろう。それが、今回のエイサク氏の受賞により、日本人にとってこの上なく身近な実例として、この賞の馬鹿馬鹿しさを示してくれたのだ。これほど最良の教育、これ以上のすぐれた反面教師、これにまさる本年度のブラック・ユーモア(これは黒人が怒る言葉だが)が、あるだろうか。その夜、私は心底からの喜びの乾杯をノーベル賞と栄作氏のためにささげた。

怒った人たちの中には、賞の取消しを要求する抗議電報を打った例もあるようだが、とんでもない。取消してくれてはせっかくの反面教師がダメになる。せっかく日本人からノーベル賞の幻想をふきとばしてくれたのに、また修正されては困ります。

当日の朝日新聞には、あるOLの「こんなことならヒットラーにもノーベル賞を」という声が出ていた。当然の反応だ。ヒットラーはもういないから、次はだれが平和賞に適しているかを考えてみると、アジアでいえば、たぶん韓国の朴正熙大統領であろう。しかし生存者の中での最高の適任者となると、わが日本の天皇・祐仁にまさるものはあるまい。(後略)

(『潮』一九七四年一二月号 初出)

(「貧困なる精神」第2集 再録 すずさわ書店)

本多氏は「ノーベル賞などというものが、いかに反平和賞であり、愚劣な三流賞であるかは、実はかなり古くから証明されてきており、西欧の一応の良識派の間では、こんなものへの幻想など持たないのが常識と化している。有名な例のひとつはチャップリンであろう。チャップリンが大量殺人業としての戦争屋を皮肉った作品『殺人狂時代』(一九四六年)は、合州国の日米活動委員会などの体制側を怒らせ、国外追放の動機となった。このようなチャップリンに対して、フランス映画批評家協会は「ノーベル平和賞」を与えるようノルウェーの選考委員会に要請した(一九四八年)。だが、考えてもみよう。チャップリン氏とエイサク氏が同じ賞だなんて、ありうることだろうか。もちろん、エイサク氏の方がこの愚劣賞に適している。チャップリンのような本当の平和主義者には、ノーベル戦争賞など出るはずはなかった」とも述べている。

この一文は、さらに続くが、引用はこの辺でとどめておく。

「殺人狂時代」(1947)

本多氏のこのふたつの文章は50年前のものだ。

本多勝一氏は、当時朝日新聞の花形記者だった。これらの論稿は朝日新聞に掲載された記事ではないけれど、この半世紀の間の日本の新聞・メディアの堕落と凋落は眼をおおうばかりだ。今回、ホンモノの日本被団協を正当に評価したノーベル平和賞選考委員会の水準が、日本の堕落ぶり・凋落ぶりと同じく、この半世紀で、同程度に下降していないことだけは確かなことのようだ。やはりそれは、今日のウクライナやガザを見て、核兵器による人類絶滅の可能性からもはや眼をそむけることはできないという危機感からの評価であるにちがいない。

いずれにせよ、日本政府が、これ以上核兵器禁止条約に背を向けることはもはや不可能である。