『そして父になる』 ほんとうの家族 (original) (raw)

是枝裕和監督、福山雅治尾野真千子真木よう子リリー・フランキー出演の『そして父になる』。

第66回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作品。

大手建設会社に勤める野々宮良多(福山雅治)と妻のみどり(尾野真千子)は、6歳の息子・慶多(二宮慶多)がじつは彼らと血がつながっていないことを知る。実の息子は産院で取り違えられて、電器屋を営む斎木家(リリー・フランキー、真木よう子)の子どもとして琉晴(黄升炫)という名前で育てられていた。

ストーリーの

ネタバレを含みますのでご注意ください。

カンヌ映画祭での受賞も記憶にあたらしい、是枝裕和監督の最新作。

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先行上映がはじまった24日に観てきました。

僕が是枝監督の作品を観るのは、ペ・ドゥナ主演の2009年の『空気人形』以来です。

評価の高い『誰も知らない』もいまだに観ていないし2011年の『奇跡』も未見なぐらいで、この監督の作品をまともに観たのはこれまでにわずか3本(ほかに『幻の光』と『花よりもなほ』)。

つまり熱心に作品を追っている映画監督さんというわけではないのですが、それでもこの最新作はなんとなく気になっていました。

予告篇から、自分たちが育ててきた子どもは実の息子ではなかったことを知る夫婦を描いた物語であることはわかったので、そこからどのようなドラマが生み出されるのか興味があった。

何ヵ月か前にTVで観た是枝監督のインタヴューによれば、主役をオファーされた福山さんは最初「自分は結婚していないし子どももいない。父親役には相応しくないのでは」と戸惑っていたらしい。

それについて是枝監督は、むしろ父親に見えないからこそ彼を選んだ、というようなことを言っていた。

これは「主人公が父親になっていく話」なのだから、と。

なかには違和感をおぼえた人もいるようだけど、僕は映画を観終えて、このキャスティングはとてもハマっていたんじゃないかと思いました。

たしかに福山雅治が演じるエリートサラリーマンには見事なまでに生活感がなく、はじめのうちはその父親ぶりにも、尾野真千子が演じる妻や6歳の息子・慶多との生活すべてに対して「なんか嘘臭い家族だなぁ」と感じた。

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でもそれはおそらく意図的な演出であって、もう一方のリリー・フランキーと真木よう子たちの家族風景との対比のためだということが観ていればわかる。

樹木希林演じる祖母が言うように「ホテルみたい」な高層マンションに家族3人で暮らす野々宮家と、町の小さな電気屋で認知症気味の祖父も含めた6人がひしめきあって生活している斎木家。

産院の責任者に呼びだされて、困惑するままに事情を聞かされる良多とみどり。そして遅れてあらわれた斎木夫妻。

ここでのやりとりから、すでに両家の違いが明確に示されている。

良多たちと同様に、自分たちの息子が他人の子だったと知らされて青天の霹靂といったていの斎木夫妻は、しかしさっそく賠償金の話をはじめる。

また、野々宮家との交流がはじまると、その際の細かい出費にもちゃっかり産院持ちで領収書を切る。

当初、斎木夫妻はそろって遠慮もなくずけずけとモノを言う、がさつで金にがめつい人々に映る。

彼らにあずけた自分たちの息子が転んで擦り傷を負ったのに気にする様子もなく、謝りもしない。

良多はこの夫婦を、自分たちとは生活水準の違う者たちとみなしている。

斎木の電気屋に慶多を連れて行って、その古びた店の様子を見て「…冗談だろ」とつぶやいたり、妻の前で彼らのことをハッキリと見下す発言をしている。

逆に斎木の方は、積極的に子どもとかかわろうとしない良多に苛立ちをおぼえ、父親の役割について彼に忠言する。

リリー・フランキーの気のいい父ちゃんや真木よう子の威勢がよくて面倒見のいい母ちゃんなど、「あぁ、こういう夫婦いるよな」とおもわせられる。

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対する野々宮夫妻は、夫の良多と妻のみどりのあいだにも、じつは格差意識がある。

もとはおなじ会社で良多と知り合ったらしいみどりは、良多と自分はほんとうは釣り合っていないと思っている。

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いいとこのお坊っちゃんである良多と、けっして裕福な家庭に育ったわけでもなければ有能な社員でもなかった自分をくらべてコンプレックスに苛まれている。

結婚してすでに辞めた会社の元同僚のうわさ話すらいまだに気にするほどに。

息子にピアノを習わせ英才教育を施そうとする夫に従いながらも、その息子が夫が期待するほどの成果をあげられないのは自分に似たからだと自責の念に駆られている。

これまでTVドラマ「カーネーション」や「夫婦善哉」などで関西弁の気風のいい姐さんを演じてきた尾野真千子が、ここではつねに自分を抑えて夫にも息子にもどこかで気を遣っているような女性を演じているのが、よりいっそう不穏な空気をかもしだす。

なんかそのうちブチギレてダンナに飛び蹴りとか食らわしそうで^_^;

本来なら、この映画でも肝っ玉母ちゃん役の真木よう子と互角にタイマン張ってもおかしくない人なんだしw

中村ゆり演じる看護師がわざと赤ん坊を取り替えたことを知ったとき、そして彼女が時効によってほとんど罰をうけることもないことがわかって、みどりがみんなの前で「一生許さない」と怒りに震えながら言う場面には、彼女のなかにこれまで溜まっていたものが堰を切って吐き出されたようにおもえた。

みどりは次第に良多に対して険のある物言いをするようになる。

「距離を置いた方がいい」と言う夫の意見に反して、斎木の妻と母親同士仲良くなったりして。

僕がこの映画にとても心動かされたのは、これが父と子の物語であると同時に、母と子の物語でもあり(良多と風吹ジュン演じる義母との描写を見ればわかる)、そして夫婦の物語でもあるという、さまざまな視点からなる作品だったこと。

寝床のなかで部屋の外からかすかに聞こえる両親の言い争いの、なにが理由なのかわからないがどうやら自分のことを話題にしているらしいことがうかがえたときの幼い子どもの不安。

この映画は、生まれてから何年もともに親子として生活してきた者たちがじつは血がつながっていなかったことがわかったときに、ではその親子関係を解消できるのか?そして他人として生きてきた者を我が子として迎え入れることができるのか?というきわめて限定的なシチュエーションを描いている。

この映画にあまりピンとこなかったらしい人たちの感想のなかに、「自分は結婚してない、あるいは子どもがいないのでよくわからなかった」というものがあったけど、はたしてこれは、たまたま「自分の子どもが他人だとわかった」という非常に特殊な経験をした家庭についてだけ描いている映画なのだろうか?

僕はもっと普遍的な家族の関係について語っていると思ったんですが。

だって、たとえ結婚していなくたって、子どもがいなくたって、誰もが誰かの子どもなんですから。

仮に生まれたときから会ったことすらなくても、誰にだってかならず母親と父親がいる。

またこれは、二つの家族を描いているようでいながら、一つの家族の物語として読み取ることも可能なのではないか。

最初に僕は福山雅治演じる良多とその家族が「嘘臭い」と感じたと書いた。とりわけ優しい性格でいつも聞き分けのよい息子の慶多と、完璧でまるで隙がないように見える父・良多の姿には、作り物っぽさしか感じなかった。

じゃあ、それはシナリオがよくないのか、役者の演技がヘタだからか、あるいは監督の演出がダメだからなのか。

でも、おなじ福山雅治が演じる良多と血を分けた親子である琉晴とのやりとりに、僕はリアリティを感じたのだ。

良多はそれまで慶多や妻には一度も声を荒らげることなどなかったのに、血はつながっているが他人同然の琉晴がピアノをジャンジャン弾き鳴らすのにイラ立って「

やめろって言ってるんだ!」とはじめて怒鳴る。

琉晴もまた、この映画ではそれまで一度も見せなかった反抗的な態度を“実の親”に示す。

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我が子とスキンシップをとろうとせず高圧的にモノを言う父親、父に懐かず言うことも聞かない息子。

父親が息子のあつかい方がわからないのは、彼もまた自分の父と疎遠だったからだ。

それは僕がかつて経験した父と息子の姿でもある。

僕の父はかつて、祖父の弔いの席で「親父ともっと話をしておけばよかった」と言っていた。

僕はそのとき、未来で自分がおなじようなことを人々の前で語っている姿を幻視した。

巧まずして子は父に似ていた。

感情的になって息子を叱るあの父親の姿は、僕がこの映画ではじめて見た現実的な「親子関係のめんどくささ」だった。

一方で、良多が内心見下していた斎木一家にはそのような深刻な問題がない。

斎木家の人々は「孤独」を好む者にとってはプライヴァシーにどんどん立ち入ってくるわずらわしい存在だが、そのかわり誰も「ぼっち」にはしない。

ただし、週末の「交換お泊り」がはじまった初日、一瞬だけ慶多がほっとかれてる場面がある。

はじめて来たのに、そこの親たちは慶多のことをお客さんあつかいしてはくれない。

なんとなくネグレクト(育児放棄)を感じさせるものがあって、ビッグダディ的な大家族である斎木夫妻に対する不安を感じもしたのだが、それ以降、彼らは慶多にほかの子どもたちと分け隔てなく接している。

これまで一人っ子として育てられてきた慶多も、妹や弟たちとの生活に新鮮さと居心地のよさを感じているようでもある。

この作品で強調されているのは、血縁関係の大切さよりも「親と子の絆」の方だ。

「血のつながり」にこだわっているのは良多だけで、斎木夫妻にはこれまで我が子同然に育ててきた琉晴を手放す気はなく、みどりも慶多をよそにやる気などさらさらない。

しかも良多自身、血のつながらない母に育てられてきたのだから、物語の結末は見えている。

だからここで描かれているのは「血縁か情か」をめぐる葛藤などではなく、「(血がつながっていようがいまいが関係なく)お前は父として子をちゃんと愛しているのか」という問いかけなのだ。

リリー・フランキー演じる斎木が一見ステキな父親に見えるのは、すべてを妻に委ねているからだ。

この電気屋のオヤジは、かみさんがこうだと言ったら右へならえで従う(以前やってたCMでもリリー・フランキーは深津絵里の言いなりだったが)。

いつも遅刻の言い訳に「こいつが服を~」とか言ってるが、夫のボケをうけとめてくれる女房がいるからこそ、彼はお気楽に父親を演じていられる。

映画の終盤で、いきなり琉晴と慶多がたがいに取り替えられることになってて「あれ?みんな納得してなかったんじゃないのか?なんで結局息子たちを交換することになったんだろう」と?印が頭んなかで大量に飛び交ったんだけど(特にあれだけ悩んでいたみどりが承諾するとはおもえない)、この映画がじつは良多が「父親になるためのミッション」だったのだ、とすれば納得がいく。

あるいは僕が見逃しただけで、良多は裁判で我が子を勝ち取ったんだろうか。

良多は慶多に「これは強くなるためのミッションだ」と言う。

つねに闘争心を持って競争に勝つ努力をしろ、と慶多に教えてきた良多は、なぜ息子は自分に似ていないのだろう、と疑問を感じてきた。

だから、息子がじつは血のつながらない赤の他人だったと知ったとき、彼は「やっぱりそうだったのか」とつぶやく。

妻のみどりはその言葉にかみつく。夫のその薄情な一言を「一生忘れない」と。

自分のように優秀な息子でなかったから失望したのか?なんて冷たい父親なんだ、と。

こういうところも女性と男性の違いがうかがえて、じつに面白い。

母は自分が愛し、育ててきた子をときに夫よりも大切に想う。

この映画で、夏八木勲(ご冥福をお祈りいたします)が演じる良多の父親は、「血のつながり」の大切さを息子に説く。そして「これからどんどんその子はお前に似てくるんだ」、だからとっとと実の息子を引き取れと言う。

また、良多の上司(國村隼)は、お前は経済的に余裕があるんだから金積んで両方引き取っちゃえよ、と信じられないようなことを平然と口にする。

相手が我が子同然に育ててきた子どもを金で買えと言ってるわけだ。

そして、良多はそれをそのまま先方に提案する。

またしてもここで男たちはみな愚かである。

人の命をないがしろにして、人身売買まがいのこともいとわない。

そのくせ、血筋が、遺伝が、などとホザくのはたいがいアホな男たちだ。

虐待されてるわけでもなく、幸せに生きている子どもにとっては生まれたときから自分を育ててくれた親が一番大事に決まってるだろ!!ヽ(`Д´)ノ

二つの家庭の息子たち、慶多と琉晴にしてみれば、一連の「取り替え子騒動」ではすべて自分たちがあずかり知らぬところで親同士で勝手に話を進められてしまっていて、彼らにとっては迷惑千万な話だ。

この映画のなかで「それぞれの息子を取り替える」という取り決めは、交換される当人である慶多と琉晴たちの意志はいっさい無視されている。

親たちが彼らに事情を話して本人たちの気持ちをたずねる場面はない。

野々宮家にやってきた琉晴が“パパじゃないのに、これからはパパと呼ばなければならない”のは「なんで?」と何度も何度もたずねて納得しないことからも、彼ら二人は自分たちが取り替えられることを知らずにいたのだ。

これはもう立派な「児童虐待」といえるのではないか。

生まれたての赤ん坊ならばともかく、6歳であれば親と他人の違いなど当然認識している。

それを理由もなにも告げずにいきなり交換、今日から俺をパパと呼べ、というのはいくらなんでもあまりに乱暴ではないか。

「我が子の取り違えが判明した家庭では、100パーセント交換する」という話が出てくるが、これは事実なのだろうか。

やがて堪えきれずに迎えにきた父・良多に「パパなんてパパじゃない!」と静かな怒りを抱えながら、黙々と歩き続ける慶多。

ずっと父親の望むように努力してきた彼は、この映画のなかでその父親にはじめて自分の気持ちをぶつける。

言葉や態度にこそ出さないが、血のつながらない、しかしまぎれもない「親子」として6年間ともに生活してきた息子は父にその想いをずっと発信していた。

別れの直前に父親から一眼レフのカメラを「やる」と言われても「いらない」と答える。

鈍感な父は、息子の気持ちが理解できていない。

「血のつながった実の息子」琉晴が実の父と打ち解けてともに楽しく遊んだあとに、それでも流れ星に「(斎木家の)パパのところに帰りたい」と願った直後、あのカメラに収められていた「血のつながらない我が子」慶多が撮った画像を見たとき、愚かな父はようやく悟るのだ。

自分が“ほんとうの息子”からいかに愛されていたのかを。

良多の友人の弁護士(田中哲司)が笑いながら言う。

「意外だなぁ。お前も誰かに愛されたいのか」と。

自分が家族にいかに愛されていたのか。

家族を養い、すべてを自分がコントロールしてきたと思っていた男が、じつはその家族に支えられて生きていられたのだと知る、これは一つの寓話である。

良多は金持ちの家のお坊っちゃんなどではなかった。

小さなアパート暮らしで年老いて病気がちな彼の父親はアルバイトをしていて、父の後妻である良多の義母はパートをしながら家計をギリギリ支えている。

良多が心のなかで軽蔑しているおちぶれた貧しい生活を、いま彼の両親は送っている。

育ての親をもとめて野々宮家から逃げだした琉晴や、鬱憤晴らしに赤ん坊を取り替えたあの看護師を守ろうとけなげに良多の前に立ちふさがった彼女の義理の息子は、良多の写し絵だ。

父の再婚時には家出もした自分を、血のつながった息子のように大切に育ててくれた義母。

良多は電話で“母”に詫びる。

「あんたとはもっとくだらない話がしたい」と電話の向こうで明るく笑う母。

プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』でも描かれた「血のつながり」の問題は、この映画で答えが出されているように思う。

リリー・フランキー演じる斎木は言う。「時間だよ」と。

親子は、家族は、いかに長く濃密におなじ時を過ごしたかが重要なのだ。

会ったこともない親戚よりも、もともとは赤の他人だがながらくともに過ごしてきた友の方が何千倍も大切な存在であるように。

きっかけがなにかは人それぞれだが、翻って考えれば、いま自分がともに生活している、あるいは過去にかかわりがあった“家族”がいかにかけがえのない存在だったのか、ということ。

そのことをじっくりと考えさせてくれる映画でした。

この映画には、印象的な場面でバッハ作曲「ゴルトベルク変奏曲」のアリアが使われている。

エンドクレジットで流れるグレン・グールド演奏によるヴァージョンのバックにかすかに聴こえるハミングは、グールド自身のもの

美しい旋律で耳にずっと残るけど、これ聴くとまっさきにレクター博士を連想しちゃうんですが^_^;

出演者たちもみな好演。

いつもほかの映画ではおいしいとこ持っていくような役柄が多いリリー・フランキーが、全身でふつうのおじさんを演じている。

真木よう子について僕は、顔の各パーツとその配置が完璧に近い人だなぁ、といつも思っているんですが(^o^) 今回の尾野真千子同様に気が強いキャラクターから儚げな役柄まで幅広くこなせる貴重な女優さんだと思います。

実際にプライヴェートでも小さなお子さんがいるからか、お母さん役も板についてるし。

尾野真千子さんは、けっして出演作を逐一チェックしているわけではないのに妙に気になる人で、どれだけの人が観たのか知らないけれど、以前、彼女が主演した『心中天使』という映画も観ました。

わけわかんなかったけど^_^;

ちょっとおっかなそうなイメージが強いからこそ、この『そして父になる』で彼女が演じたような受身のキャラクターが新鮮で、ああいう尾野さんもいいなぁ、と。

そして主演の福山雅治。

人によっていろいろ意見はありそうだけど、僕は生活感のなかった良多が後半じょじょに生身の人間っぽくなっていく感じがとてもよかったと思います。

容疑者Xの献身』のときよりも、福山さんの演技はいっそう繊細になってきているのではないだろうか。

この映画のシナリオは、是枝監督みずからが我が子とのやりとり(ひさしぶりに会った幼い娘から「また来てね」と言われた)から発想して書いたという。

台詞で説明するのではなく、物語のなかに父と息子、母と息子、夫婦など、いくつも対になる関係が描かれていて、そのことによって「家族」というものが浮かび上がってくる見事な構成でした。

これは父の息子に対する懺悔の物語である。

そして息子にとっては、たとえこの世で一番愛する存在は妻や子ども、母親であっても、しかし

誰よりも彼自身の人生に決定的な影響をおよぼすのは「父親」だということを描いた物語でもあった。

この映画は僕はオススメですよ。