『エリジウム』 偽りの楽園 (original) (raw)

第9地区』のニール・ブロムカンプ監督・脚本、マット・デイモンジョディ・フォスターシャールト・コプリーヴァグネル・モーラアリシー・ブラガ出演の『エリジウム』。PG12

2154年。一部のかぎられた富裕層は衛星軌道上に浮かぶスペースコロニー「エリジウム」に移住し、残された多くの貧困層は荒廃した地上に住んでいた。地上の工場労働者マックス(マット・デイモン)は作業中の事故で大量の放射線を浴び、あと5日の命と宣告される。エリジウムでは最先端の医療機器によっていかなる病気や怪我もただちに治癒する。マックスはエリジウムに向かうために闇商人のスパイダー(ヴァグネル・モーラ)のもとへ行く。

エリジウム【Elysium】
=エリュシオン【Ēlusion】 ギリシャ神話で、神々に愛された人々が死後に幸福な生活を送る野。「幸福(者)の島」ともいわれる。

『第9地区』はかなり好きな映画です。

ポール・ヴァーホーヴェン監督の『ロボコップ』を彷彿とさせる荒廃した未来社会の描写、その世界観をTVのニュース映像で説明していくドキュメンタリー風の映像からはじまって、やがて本格的なアクション映画に変貌していくさまがじつにエキサイティングでしかも最後は泣かされるという、エンタメ作品の鑑みたいな映画でした。

続篇が作られるみたいな話があったけど、どうなったのかなぁ。

でも『第9地区』はあれでじゅうぶんすぎるほどきっちりと完結してる映画なので、僕はむりやりそのつづきを作る必要もないんじゃないかと思うんですが。

もちろん作られたら観に行くつもりだけど。

そのブロムカンプ監督の新作ということで、公開を楽しみにしていました。

ところが、すでに観た人たちの感想は意外と「ふつうだった」というものが多くて。

積極的にケナしているものはそれほどないものの、「『第9地区』の監督の新作ということで期待して観たら、肩すかしだった」というものがけっこうある。

実際、公開後はほとんど話題になってないし。

どうやらストーリーが平凡らしいのだ。

あれれ、マジで?となって、ちょうどほかにも観たい作品が何本かあったのでとりあえずそちらを優先していたら、じょじょに1日の上映回数も減ってきたんで、ともかく観に行ってきました。

それでどうだったかというと…うん、ふつうに面白かったです。

たしかに“ふつう”^_^;

残念ながら、『第9地区』にあった意表をつく展開や観る者の予想をくつがえす結末、というのはない。

あれ、ブロムカンプどうしちゃったの?っていうぐらいひねりのかけらもないお話。

そういう部分では、多くの人たちの指摘には同意。

でもVFX映像に関しては、僕はこの時期にやってる似たジャンルのほかのどの映画よりもよかったと思うな。

『第9地区』もそうだったけど、ブロムカンプの映画ってVFXが丁寧なんですよね。

ハリウッド映画としては予算はけっして大作レヴェルではなかった『第9地区』のVFXの出来の良さは、公開当時わりと話題にもなったし。

たしかに今回の最新作はさらに予算が増えてるはずなのに『第9地区』を越えるヴィジュアル・インパクトがなかったのが悔やまれるが、ともかく安心のクオリティであることは間違いない。

この映画の売りを探すとしたら、それは映像の持つ説得力。

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CGだけでなく、ミニチュアも使用

まるで実写のように錯覚させてくれる空を飛ぶシャトルや宇宙に浮かぶスペースコロニー「エリジウム」の風景。

機械仕掛けのドロイドたちもほんとにそこにいて動いているようにしか見えない。

僕は観終わって、ちょっとトム・クルーズの『オブリビオン』を思いだしたんですが。

あの映画もお話の方はかなりアレだったけど、映像は見ごたえがあった。

『オブリビオン』のようにやたらと細かい設定だの“どんでん返し”だのをあれこれ盛り込んでいない分、『エリジウム』のストーリーはよりシンプルでわかりやすい。

それでは、これ以降

ネタバレがありますのでご注意を。

この映画で描かれるのは、ちょうどフリッツ・ラング監督の戦前のSF大作映画『メトロポリス』をおもわせる、人々が富裕層と貧困層に二極分化された世界。

地上では人々は劣悪な環境のなかで厳しく管理されたうえにじゅうぶんな医療行為もうけられず、職場では作業員たちは使い捨てられている。

一方で、地上を捨ててスペースコロニーに住む限られた者たちは、清潔で広々とした住環境、病気や怪我、貧困とは無縁の優雅な生活を送っている。

エリジウムの富と繁栄は、地上の人々の犠牲のもとに成り立っている。

富める者はより多くの富を手に入れ、貧しい者はさらに困窮を強いられる。

現在、日本でも富裕層と貧困層の格差の広がりが報じられているが(「一億総中流」などといわれてたのはいつの時代の話だろう)、それが極限までいったのがこの映画『エリジウム』の世界である。

「アーマダイン社」の社長カーライル(ウィリアム・フィクナー)は地上を嫌悪していて、早く自分の住処であるエリジウムに帰りたいと思っている。

カーライルの地上の人々に対するあまりにあからさまな蔑視(工場の主任に「菌がうつるから口を押さえろ」など)には寒気がするほど。

無表情で感情をあまりおもてに出さないようなキャラクターを演じることが多いウィリアム・フィクナーの「こういうヤな野郎はたしかに現実にいる」とおもわせる見事な演技。

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アーマダイン社はドロイドの大量生産とともにエリジウムの建設も担っており、社長のカーライルはエリジウムの防衛庁長官デラコート(ジョディ・フォスター)に強いコネクションがある。

デラコートの信頼厚いカーライルだが、逆にいえば長官の思惑一つで彼の首は簡単に飛ぶということでもある。

そのデラコートは上層部とのあいだに軋轢があり、彼女もまたエリジウムの最高責任者であるパテル総裁(ファラン・タヒール)に目をつけられている。

誰もが誰かの下にいて、その地位を守るために汲々としている。

マックスは工場に出勤する途中で警備用のドロイドにほんのちょっと軽口を叩いたために左腕を折られる。

向かった病院で、幼い頃にともに生活していたがやがて街を出たフレイ(アリシー・ブラガ)と再会する。彼女は街にもどり看護師として働いていた。

フレイとお茶の約束をとりつけたマックスだったが、工場での作業中に事故で被曝してしまう。

致死量の放射線を浴びたマックスは余命5日と言われて工場を解雇される。

瀕死の彼を見て「早く放り出せ」と言ったのは、社長のカーライルだった。

マックスは闇商人スパイダーのアジトへ行き、彼のために働くことを条件に強化外骨格“エクソ・スーツ”を装着する手術をうける。

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そして、エリジウムにある、いかなる病気や怪我もただちに治す医療機器で身体をもとにもどすために、エリジウムを目指す。

しかし、地球から無許可でエリジウムに向かう人々を乗せたシャトルは、デラコートの命令で次々と撃墜される。

なんとかエリジウムにたどり着いてもただちにドロイドによって捕らえられ、地球に送還される。

エリジウムにもぐり込むためには、住民のIDを手に入れなければならない。

こうして、マックスはカーライルを標的に選ぶ。

こうやってストーリーを追っていくとまったくなんの問題もないようにおもえるけど、まずこの映画のなかでの最大のツッコミどころは、どんな病気や怪我も一瞬で完治させてしまう魔法のような医療機器の存在。

これがまたスゴい性能で、とりあえず生きてさえいれば、装置の中で身体をスキャンするだけで誰でも以前の健康体にもどれるという代物。

それどころか手榴弾の爆発でぶっ潰れた顔さえも傷一つなく元どおりに再生する。

いくら140年以上先の未来が舞台といっても、ここまでドラえもん並みに万能だとまるでリアリティが感じられない。

地上の人々がエリジウムを目指すのはこの医療機器が目的なので、これはストーリーの根幹にかかわるガジェットである。

それにリアリティが感じられないというのは致命的ではないか。

おそらくこの映画が「イマイチ」と感じた人たちは、まずここに引っかかったのではないだろうか。

なんでもできてしまう機械というのはお話を転がすのには便利だが、観客に「そんなことありえないでしょ」と思わせてしまう危険がある。

たとえば、あんなアバウトな装置じゃなくて、エリジウムでの最先端医療技術についてもっと克明に描いておいたらよかったのではないか。

どんな病気や怪我も完治するわけではないが、それでも金さえ出せばきわめてそれに近い治療をうけられる、ということを映画の冒頭でしっかり見せておく、とかね。

クルーガーの顔も元どおりになるのではなくて、不完全にところどころメカで補強されてるとかにすればより悪役っぽくなってよかったのに。

この映画は、アメリカという、世界で唯一の超大国でありながら国民皆保険が存在せず、導入しようとすると大半の国民から反対されてしまうというわけがわからない国に対するおおいなる批判が込められている。

マイケル・ムーア監督の『シッコ』でも語られていたように、貧乏人どころか民間の保険会社にちゃんと保険料を支払っている人々ですら、病院でまともな治療がうけられないという異常な世界。

金持ちたちは湯水のごとく(水資源は“ただ”ではないのだから、いまとなってはこの表現にも問題があるが)金を使ってみずからを守ろうとするが、そんな財源のないほとんどの人々はつねに生命の危険にさらされている。

アメリカは日本にも民間の保険会社を進出させようとしてたりして、腐った金持ちどもはさらに自分たちを儲けさせてくれる餌食を探している。

『エリジウム』の世界では、地上はCCB(民間協力局)によって管理されている。

警備用のドロイドたちはマックスたちの手によって製造されているにもかかわらず、彼ら地上の人々を人間あつかいしていない。

警官ロボも、冗談みたいな顔してるくせにジョークを言うと「皮肉のつもりか?ナメた口きくとぶちこむぞコラ」と態度がめっちゃ横柄。

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ケヴィン・ベーコンじゃないよ

しかし、エリジウムの住人たちに対しては完全服従。この差も酷い。

バブルの頃なら、こういう極端な格差社会を舞台にした物語は、自分たちとは関係のないただのファンタジーと感じられたかもしれない。

でも、僕はこの映画を遠い未来の自分とは無関係な絵空事だとはおもえなかった。

なんでも治してしまう医療機器というのはわかりやすくデフォルメされた表現であって、「エリジウム」というのは天国とか極楽みたいな想像の産物じゃなくて、誰もが当たり前のように医療行為をうけられる世界の比喩なのだ。

従業員の健康のことなど考えてもいない企業は、彼らを酷使して「クビ」をチラつかせて危険な作業を強要したあげく、事故が起こっても責任を取らずに「お疲れさんでしたー」と体よくお払い箱にする。

また、一日中仕事をしていても重病を患う娘に治療をうけさせてやることもできない。

現在の日本では、都会のド真ん中で老人たちや若い母親と幼い子どもが餓死して、その一方でバブルの再来のように贅沢三昧の浮かれた人間たちがいる。

僕はこの現代日本で“富裕層”などと呼ばれる人間がいることに驚きとともに如何ともしがたい怒りをおぼえるのだが、彼らはこう言い捨てるのだ。

「貧乏だろうがなんだろうが、それは自己責任だから」

ひややかに地上の人々を見下すカーライルをおもわせる態度である。

現実が限りなくフィクションの世界に近づいている。

この映画に対する批判の一つに、「エリジウムの住民たちの描写がほとんどない」というのがある。

全人類のなかではまぎれもない“支配階級”であるデラコート長官は、得意のフランス語をあやつりながら(演じるジョディ・フォスターはイェール大卒でフランス語に堪能)セレブたちのなかを颯爽と歩く。

金持ち=フランス語、というわかりやすすぎる表現がなんだか可笑しいが。

登場する金持ちたちには人格すら与えられず、彼らは単なる記号として配置されているに過ぎない。

なぜなら、これは地上に住む貧困層の視点から描いた物語なのだから。

天国の住人たちには用はない。これは持たざる民たちが王侯貴族たちから自分たちの国、彼らの正当な権利を奪還する物語なのだ。

どんな病気や怪我も治せる、そんな便利な道具があるならみんなに分け与えればより良い世界が作れるだろう。

しかし一部の特権階級は、それを良しとしない。

自分たちだけの権利として独占しておきたい。

だから「分かち合う」ということをしない。

貧乏なのは彼ら自身のせいなのだから、野垂れ死のうがどうしようが我々には関係ないじゃないか。

…エリジウムの住人たちのそんな言い草が聞こえてきそうだ。

デラコートは医療をもとめてやってくる地上からの密航者たちをためらいもなく殺し、自分たちの特権を守ろうとする。

それは彼女にとっては自分たちを守る「正義」である。

デラコートは、カーライルに命じてエリジウムのシステムを“リブート=再起動”しようとたくらんでいた。

現総裁をしりぞけ、みずからがエリジウムの支配者になるためだった。

わたしが新総裁になったあかつきには、あなたの会社には今後200年の契約更新を約束する、と言ってカーライルにエリジウムのリブートのための極秘プログラムを地上から運び込ませようとするデラコート。

しかし、カーライルの脳に収められたエリジウムのIDや預金データをねらうマックスたちによって、彼は捕らえられる。

デラコートが雇った傭兵クルーガー(シャールト・コプリー)たちとの銃撃戦でカーライルが撃たれる。

カーライルの脳からデータをコピーするマックスだったが、リブートのための極秘プログラムが彼の脳にダウンロードされ、カーライルは死んだために今度はマックスの脳の中身がねらわれることになる。

自分がすぐには殺されないことを知ったマックスは、クルーガーたちに投降。

クルーガーたちとともに長官の待つエリジウムへ向かう。

『第9地区』では木っ端役人だったのがどんどん大変な状況に追い込まれていく主人公を演じていたシャールト・コプリーが、今回は悪役として登場、マット・デイモンと戦う。

この人、『第9地区』の頃からおっさんあつかいされてたけど、現在39歳なのでそんな年くってるわけでもない。

素顔はけっこう男前だし。

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もともと俳優ではなくブロムカンプ監督の昔からの友人で、いっしょに制作会社を立ち上げたプロデューサーだったのがいきなり『第9地区』の主役に抜擢、という話も公開当時よくされていた。

いまではプロの俳優としても活躍中ですが(ハリウッド・リメイク版の『オールド・ボーイ』にも出演)。

劇場版『特攻野郎Aチーム』のときもそうだったけど、なんとなく人の良さや気の小ささみたいなものが顔からにじみでてるので強敵という感じがしないんだけど、『第9地区』でエビ星人相手にあわてふためいてたあのヴィカスが悪役、というのもなかなか新鮮でいいかもしれない。

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空飛ぶルンバでマックスを追跡。武器は日本刀

マット・デイモンとの最後の戦いは、キャメラ振りすぎで観づらかったのが残念ではあったけれど、なかなか健闘してました。

ただやっぱり、ヴィカスが最後の敵ではちょっと物足りなかったのもたしかで。

デラコート長官については、「ジョディ・フォスターの無駄遣い」という指摘もある。

この映画のジョディ・フォスターは完全に悪役で、ちょっとシガニー・ウィーヴァーの路線っぽい。

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彼女がここまでハッキリとした悪役を演じることはなかなかめずらしいし、もともと険のある顔立ちでもあるから僕はけっこういい感じだったと思うんだけど、みなさんが不満を述べているように、このキャラクターは非常にもったいない使われ方をしている。

おそらくデラコートはアメリカの一部の政治家や有力者の象徴のような存在で、アメリカに根づく「不寛容」を体現するキャラクターなのだが、彼女の退場のしかたがなんともあっけないのだ。

デラコートはパテル総裁に非難されながらも傭兵のクルーガーを雇いつづけるのだが、クルーガーは予想以上にバカだったので、「俺がエリジウムの支配者になるぜヒャッハー!」と割れた鏡の破片でデラコートの首をぶっ刺す。

捕らわれていたフレイの応急措置もむなしく、デラコートはあっけなく失血死する。

権力者であっても死は唐突にやってくる、ということなのかもしれないが、やはり彼女には地上の人間を代表するキャラクターであるマックスと最後にちゃんと決着をつけてもらいたかった。

実力のある俳優が演じる悪役というのはじつに魅力的で、だからあのジョディ・フォスターが最後にマット・デイモンに倒される姿はきっとかなりグッときただろうから。

この映画に登場するスペースコロニー「エリジウム」のコンセプト・デザインには『ブレードランナー』のシド・ミードもかかわっているそうで。

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あのようなスペースコロニーの内部が実写映画で本格的に映像化されるのって、これまでほとんどなかったんじゃないかなぁ。

ちなみに、エリジウムの住人たちは人口増加や環境破壊によって荒廃した地球を見捨てて宇宙に進出したのだし、これまでにもSF映画には「地球を離れて宇宙で暮らす人類」というのがよく出てきたけれど、どうやら現実にはあのようなスペースコロニーで地球と変わらないぐらいの生活をするために必要な量の酸素を供給するのはかなり難しく、コスト面からいっても実現はほぼ不可能らしい。

つまり、人類が地球を離れて暮らすことはこの先も当分ないということだ。

だからむしろこの映画では、エリジウムの住人からは汚物のように見られていた地上の世界の素晴らしさを主人公たちが再発見するようなラストにしたらよかったのではないだろうか。

地上の人々が空を仰ぎ見ながら理想郷として憧れる“エリジウム”の名を持つスペースコロニーが最後におもいっきり崩壊していくようなカタルシスがあったら、もしかしたらこの映画は『第9地区』と並ぶぐらいの名作になったかもしれない。

せめて映画のなかでぐらい、力を持たぬ者たちが権力者や金持ちどもに打ち勝ったっていいじゃないか(それが現実につながってくれることを望みますが)。

マット・デイモン演じるマックスは、少年の頃に世話をしてくれていたシスターから、あなたには使命があると言われていた。

貧しい暮らしのなかで仲間たちと窃盗を繰り返していたマックスが、人々のため、なにより「いつかエリジウムに連れて行く」と約束したフレイと彼女の娘のためにみずからの命を犠牲にするこの物語を僕はけっして「つまらない」と一蹴したくはないのだけれど、どうもこういう感じの、主人公が最後に死んでみんなを救う「アルマゲドン症候群」の映画って特に最近やたらとあるんで、残念ながら感動は薄かった。

『第9地区』のあの切ないラストを知っているだけに。

それよりも、偽りの楽園を破壊して、これまで主人公たちが生きてきた“地球”にこそエリジウムを作り上げるべきだ、という結末の方が僕はしっくりくる。

自己犠牲の精神も大事だが、傷だらけになりながらも愛する者とともにこれからも生きていく、そういう物語こそいま僕らには必要なんじゃないかと思うのだが、どうだろう。