『凶悪』 最凶のふたり (original) (raw)

白石和彌監督、山田孝之ピエール瀧リリー・フランキー池脇千鶴出演の『凶悪』。R15+

「明潮24」の記者・藤井(山田孝之)のもとに、元暴力団組長で死刑囚の須藤(ピエール瀧)から手紙が届く。拘置所に面会にきた藤井に、須藤は3件の殺人事件の首謀者で「先生」と呼ばれる不動産ブローカー・木村(リリー・フランキー)についての告発をはじめる。

原作は新潮45編集部によるノンフィクション小説「凶悪 -ある死刑囚の告発-」。

主人公の記者のモデルは、同誌で2008~2011年に編集長をつとめた宮本太一

知ったようなこと書いてますが、恥ずかしながらいつものように原作は読んでいません。

ふだん実録犯罪物の映画をよく観ているのでも、そういうジャンルに特に興味があるわけでもない僕がこの映画を観ようと思ったのは、ピエール瀧とリリー・フランキーが殺人犯を演じているから。

今後もこのふたりを目当てに映画を観ることはないんじゃないだろうか。

TVやラジオなどでユーモラスなキャラのイメージが強いピエール瀧が残虐なヤクザを演じるということに意外性があったし、同様にすでに観ていた『そして父になる』でリリー・フランキーは人懐っこい電器屋のおじさんを演じていて(この映画にはピエール瀧も一瞬だけ出ている)、あのときの役柄との落差も気になったので。

ちなみにこの『凶悪』は、先に『そして父になる』を観ておくと面白さが倍増します。

ただし、くれぐれも観る順番を間違えないように。

もし逆の順序で観てしまうと、真面目な感動作である『そして父になる』に予期せぬブラックな笑いの要素が生じてしまう危険があるので。

なぜかは観てもらえばわかると思いますが。

『凶悪』がブラックコメディということではなくて、この映画はあくまでもシリアスな物語です。

リリー・フランキーとピエール瀧はいずれも専業の俳優ではないけれど、これまで映画やTVドラマへの出演も多くてリリー・フランキーは橋口亮輔監督の『ぐるりのこと。』(僕は未見ですが)で主演をつとめてもいるぐらいだし、すでに他業種の人間の単なる余技ではない立派な俳優としての一面を確立している。

僕は以前は、リリーさんはその飄々としたキャラを生かしたちょっとおいしい役を振られる人、ぐらいの印象しかなかったんだけど(それでも器用な人だな、とは思っていたが)、『そして父になる』とこの『凶悪』の2本の映画を観て、遅まきながらその演技力の高さに驚かされたのでした。

これらでリリー・フランキーはあきらかに役柄の方に自分を寄せていっていて、子沢山の電器屋の庶民的な親父と、ヤクザとつるんでいる不動産ブローカーという対照的な人物を見事に演じ分けている。

そのどちらもが「こういう人間は現実に存在していそう」とおもわせる説得力があった。

逆に瀧さんの方はけっして演技が巧いのではないのだけれど、まさに彼のパブリックイメージを反転させたような極悪非道なキャラクターを、しかしどこか人のよさもうかがわせながら演じていて、やはり存在感抜群であった。

この「ぶっこんでくんで、よろしく!」なリリー&ピエールの“最凶のふたり”を見られただけでも元が取れた感じ。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE

老人を痛めつけて殺したり遺体を解体するグロ・シーンがあるし、ルポルタージュをもとにした実録犯罪物なので誰にでもお薦めできるわけではないけれど、とても見ごたえがありました。

では、これ以降は

ネタバレがありますので、ご注意ください。

この映画はおなじく実話がベースということで園子温監督の『冷たい熱帯魚』とならべて語られることがあるが、『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』が実話をもとにしながらもそこからフィクショナルな方向に飛躍していってもはや実録物とは呼べないほどに脚色されて、結果的には物語が園監督の追求する非常にパーソナルなテーマに集約されていくのに対して、この『凶悪』は(当然ながら脚色は施されているにせよ)あくまでも現実に起こった事件を追っていく。

デヴィッド・フィンチャー監督の『ゾディアック』をおもわせもするが、謎解きの要素はない。

最初から木村と須藤の犯行は明白で、藤井が気の遠くなるような取材の数々によってその裏づけを取っていく過程が描かれる。

そして劇中で木村と須藤による凶悪な殺人事件の様子が再現されるという具合。

その殺人事件の描写がハイライトである。

この映画が云わんとしているのは、「人は誰でも凶悪になりうる」ということ。

それを具体的な描写によって語っているのだ。

目を背けたくなるような残酷なシーンもあるが、なにより「人の命」がこれほどまでに軽くあつかわれてしまう、という事実が空怖ろしい。

現在、ちまたには無残な事件のニュースがあふれているように、これらはどこか自分とは無関係な場所で行なわれていることではなくて、ふと日常の隙間から垣間見える暴力と死である。

木村にも須藤にも家族がいて、特に須藤の家族の団欒シーンが何度も出てくるが、そこでは娘たちに優しい父親の姿を見せている。

それは一見のどかで温かい風景だが、木村がうまそうにフライドチキンをほおばるクリスマスパーティのシーンの直前には彼らは人をバラバラにして焼却炉で燃やしているし、幼い娘たちの前で積み上げられる札束(人殺しで儲けた金)にもおおいに違和感がある。

須藤は人を殺すことになんのためらいもないヤクザで、木村もまたとてもカタギとはおもえないほどビジネスライクに殺人を重ねていく。

彼は「先祖から土地を受け継いでのうのうと生きている老人たち」を殺してその土地を転売して儲けることにいささかの罪の意識も持っていない。

老人ホームをながめながら、木村は「世間は長い不況だけど、我々はバブルだ」「金を生む錬金術」とうそぶく。

殺人を商売としてしか考えていない木村を見ていたら、ちょっとチャップリンの『殺人狂時代』を思いだした。

『殺人狂時代』(1947) 出演:マーサ・レイ イソベル・エルソム マリリン・ナッシュ

チャップリン演じるムッシュ・ヴェルドゥは、金持ちの年配の女性を騙して結婚詐欺を働いては殺して財産をぶんどろうとする。

ラストシーンのヴェルドゥの「一人殺せば犯罪者だが、百万人殺せば英雄になれる」という台詞から反戦映画として見られてもいるが、僕には彼の言葉は詭弁におもえた。

たしかにヴェルドゥが仕事や財産、家族をうしなうのは戦争のせいだが、倫理観や道徳心がどこかで壊れたヴェルドゥには、金を儲けるために他人を殺すことになんの罪悪感もない。

金持ちの女性に飲ませる毒の効果を見るために、無関係な女性で実験しようとさえする(結局やめるが)。

映画の作りがブラックな味わいの喜劇であるせいもあって、ヴェルドゥはどこか殺人自体を愉しんでいるようでもある。

『殺人狂時代』のヴェルドゥ氏にくらべれば『凶悪』の殺人犯たちはより残虐だが、「人の命」を軽く見ている点において両者は共通している。

一方では自分の家族のことは大切にしているという、そのことにまったく矛盾を感じていないところもおなじ。

自分や家族は大事だが、他人はどうなってもかまわない。

須藤は可愛がっていた舎弟を殺すが、それはその舎弟が自分を裏切ったと木村から吹き込まれたからだった。

ほんとうに可愛がっているのなら、まず裏切りが事実かどうかちゃんと確かめようとするはずだが、単細胞な男である須藤にはそういう筋道だった手順を踏む脳ミソがない。

須藤が舎弟を殺したあとで線香をあげているのを見た内縁の妻・静江(松岡依都美)は、藤井に夫のことを「情に厚いところもある」と言うが、はたしてこういうのを“情に厚い”といえるのだろうか。

これは単なるエゴにすぎないように僕にはおもえる。

そしてこういう人間は案外多い。

須藤は木村のことを「先生」と呼んで慕っている。

このふたりがどのような経緯で知り合ったのかはわからない。

須藤は木村に「一生、先生についていく」と言う。

そこまで慕っていた男を、やがて須藤は「娑婆でのうのうと生きていることが許せない」といって告発することになる。

「一生ついていく」などと簡単に口にする奴らほどアテにならないものはない。

また、結果的に須藤に殺されることになった舎弟の五十嵐(小林且弥)は、保険金を手に入れるために殺す電器屋の経営者・牛場(ジジ・ぶぅ)に「じいさん、潔くねぇよ。覚悟決めろよ」と説教を垂れる。

ヤクザとヤンキーは人に説教垂れるのが好きだが、彼らの論理、価値観は一般の人間のそれとは異なっているので、真面目に聞いてると混乱してくる。

内縁の妻が須藤を「情に厚い」と評価するのも、あんな男に「あの人のためなら死ねる」と言っててそのとおりになった五十嵐にしても、完全に相手を見る目がないのだが、彼らにはそのことがわかっていないようだ。

須藤は面会室で藤井に木村の犯行を記事にするのは難しいと告げられると、それまで被害者たちに対して反省の色を見せていたのが嘘のように豹変して「お前の家族もぶっ殺してやる!!」と暴れだす。

これだけ見ていてもこの須藤という人物に対する怒りがわいてくるのだが、不思議なことにピエール瀧の演技を見ていると、内縁の妻が言っていたようにどこか「憎めない」のだ。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE $映★画太郎の MOVIE CRADLE

このキャスティングはじつに秀逸だと思いました。

遺体を解体するときの手際のよさや、ムショ仲間の“賢ちゃん”(米村亮太朗)が組長に金を脅し取られていると聞いてさっそく先方に乗り込んでいく男気といい、たしかに頼りがいはあったりもする。

かかわると厄介きわまりないが。

不動産ブローカーの木村は須藤とはまた違った“人を操る”タイプの人間で、悪知恵が働くので老人介護施設の福森(九十九一)と共謀して須藤も使って殺人でしこたま稼いでいる。

で、クリスマスパーティで子どもたちが見てる前で「これ、ぶっこんでくれたお礼」とか言って須藤に札束を渡したりする。

人を殺したりその後始末をするのが、完全に商売感覚になっている。

実際に殺人に手を染めていなくても、「人の命」が軽んじられている場面もある。

「明潮24」の女性編集長(村岡希美)は「不動産ブローカーがヤクザとつるんで殺人なんて、当たり前すぎて記事にならない」と、藤井に事件の取材をやめさせようとする。

この業界の人たちにはごもっともな判断なのかもしれないが、なかなか薄ら寒い発言ではある。

また須藤の内縁の妻は、取材に来た藤井に対して須藤たちの犯罪について他人事みたいな言い方をする。

彼女は殺人には直接かかわってはいないが、須藤たちがあの大金をどうやって手に入れたのかは知っていたはずだから、そのあっけらかんとした物言いがなんとも気味悪かった。

ここでも「人殺し」に対する感覚が麻痺している。

どうでもいいけど、最初は藤井の取材に否定的だったのが藤井が最後に殺人事件の真相を暴くと態度がコロッと変わるこの女性編集長と、須藤の内縁の妻を演じている女優さんがそれぞれ似た系統の顔立ちをしてるので、一瞬おなじ人が演じてるのかと思った。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE $映★画太郎の MOVIE CRADLE

ちょっと紛らわしかったかなぁ、と。

どちらも絶妙なブスさ加減がなんともいえませんでしたが。

賢ちゃんが「俺、あの女がいいッス」と指差すと、須藤が「あれは俺の女だ」と言って気まずい空気が流れたあと、「でも賢ちゃんならいっか♪」ってオトすところとかギャグっぽいんだけどまるで笑えないのも、指差されてる須藤のかみさんが美人じゃないからってのもある。

なんか、そういう、イヤァなリアリティがありましたねw

この映画に出てくる女性たちは、ヤクザたちに品定めされるホステスたちも、わざとなのか?とおもえるぐらいにみなさん揃いも揃って微妙な顔立ちで、主人公の妻を演じる池脇千鶴でさえも、彼女の顔のアップが映しだされるたびに「この人って、こんなに鼻が低かったんだ」と、妙なところが気になったのだった。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE

ハイ、わたしも女性の顔のこととやかく言えるようなツラしてませんが。

さて、ピエール瀧とリリー・フランキーのことばかりで肝腎の主人公・藤井を演じてる山田孝之についてなにもふれてませんが、この映画での彼は地道な取材によって事件を追っていく記者の立場で、直接殺人の現場に出くわすのでもなければ犯人たちと大立ち回りを繰り広げるわけでもないので、映画の進行役のような役回りにおもえる。

僕は映画を観ている途中で、彼が主人公だったことを忘れかけたほど。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE $映★画太郎の MOVIE CRADLE
「サラリーマンなんだから、もうちょっとうまく立ちまわれよ」と知ったようなことぬかす同僚にイラッとした

しかし、藤井の家庭では彼の認知症の母親(吉村実子)の介護で妻(池脇千鶴)は疲弊しており、本来ならば一番身近で切実な問題である母親のことを妻に丸投げしたまま仕事にのめりこむ夫に、彼女は「死んだ人のことなんてどうでもいい」と言う。

それに対して藤井は、自分がいまかかわっている仕事がいかに重要なのかを妻に力説するのだが、この夫婦の対話はことごとくすれ違っている。

妻は義母の面倒を見るのがあまりに大変だから彼女を施設に入れてほしい、と訴えているのに、夫は「いま大事な仕事をしているんだから我慢してくれ」と取り合わない。

どうやら藤井は、母親を介護施設に入れることになにやら罪の意識があるらしい。

このあたりがよくわからなかった。

僕は勝手に経済的な余裕がないからなのだと思い込んでいたんだけど、映画の最後に母親は結局施設に入ることになるんだから、そういうわけでもなかった。

まさか、老人介護施設に母親を入れたら木村たちのような連中の餌食にされるかもしれない、などと考えていたからではないだろう。

妻に過度の負担を押しつけるぐらいならば認知症の症状が出はじめている母親を施設に入れるのは致し方ないと思うのだが、なにを躊躇してるのか。

なにもしてくれない夫に業を煮やして妻は途中でヘルパーを雇うのだが、それが可能だったんならダンナは最初からそうしてやれよ、と観ていて非常にイラつかされたのだった。

終盤に妻は夫に告げる。

「わたしはずいぶん前からお母さんを殴っていた。もうそのことに罪の意識も感じなくなった」と。

これは、木村や須藤の殺人シーンよりも怖ろしい場面ではなかったか。

そして、残虐な殺人事件とはまったく関係がないようにおもえた藤井の家庭問題が、ここで映画のテーマとむすびつく。

人は誰でも“凶悪”になりうる。

妻は言う。

「修ちゃんは、楽しかったんでしょう?わたしも記事を読んで楽しんだ」と。

藤井が必死に事件を追いながら、それを愉しんでいたのはたしかだろう。夢中になって仕事をするというのは、そういうことだろうから。

そして、事件が明るみになって容疑者が逮捕される一方で、藤井は家庭をうしなう。

妻との離婚が成立したのかどうかはわからないが、母親を施設に入れるときに妻が見せたあの表情には、安堵よりも彼らのあいだで決定的ななにかがうしなわれたことをうかがわせていた。

藤井の記事がきっかけとなって収監された木村は、面会した藤井に言う。

「俺を一番殺したいと思ってるのは…」

そして藤井を指差してコンコン、と透明なアクリル板の仕切りを叩くのだ。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE $映★画太郎の MOVIE CRADLE

なぜ、藤井があれほどまでに須藤や木村を憎んだのか、不思議に感じられもするのだが、もともと彼のなかにあった怒りが事件が闇に葬られることへの義憤と木村に対する憎しみとなって、この事件を追わせたのかもしれない。

九十九一(なんか「オレたちひょうきん族」思いだすなー)演じる福森が車にはねられて藤井が絶叫する場面や、法廷で須藤に向かって「あなたは生きていてはいけない」と言う場面など、映画としての山場を作ろうとしたのかちょっとあざとさを感じるところもあったけれど、どんどんくたびれていく藤井を髪や服装の乱れ、そしてあの目ヂカラで表現した山田孝之の抑えた演技は素晴らしかったです。

彼のあの演技があったからこそ、ピエール瀧やリリー・フランキーたちのサイコパスぶりがより際立ったんだと思うし。

須藤と木村が牛場老人にスタンガンを何度も食らわせて90度以上ある酒をムリヤリ飲ませつづける凄惨な場面では、まるで飲み会で悪ふざけして騒いでる延長線上のようなノリで殺人が行われる。

このシーンの木村のはしゃぎ方が怖い。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE $映★画太郎の MOVIE CRADLE

人を痛めつけてその反応を見て喜ぶサディストは実際にいる。

「うちに帰りたい。家族に会いたい」と必死に懇願する老人は、彼らにとってはヘンな動きをする滑稽なオモチャでしかない。

おそらく須藤や木村を演じたピエール瀧とリリー・フランキー本人たちのなかにも、ああいうサディスティックな面がどこかにあるんだろうと思う。

そうおもわせるほどにリアルにイヤな場面でした。

まるでイジメの現場に居合わせているような心持ちがした。

牛場に酒のビンをくわえさせて木村の顔がスローモーションで大写しになるところは、あたかもエクスタシーに達したかのように演出されていて、吐き気をもよおすほど。

牛場が死ぬと木村たちが一瞬しょんぼりした感じで静かになるところは、不謹慎だが笑いそうになった。

でも牛場が死ぬことは当然彼らは予期していて、だから木村は前もって「風呂に氷を入れておけ」と命じている。

牛場の死体が入ったバスタブの横で、須藤は平然とシャワーを浴びる。

木村たちになぶり殺しにされる牛場老人を演じるジジ・ぶぅは、猫ひろしの元付き人でじつはまだ50代らしいんだけど、彼の老人演技はリアルで痛々しく、僕がこの映画を誰の立場で観たのかというと彼だったので^_^;家族からも見放されたそのあわれすぎる最期には、人が世間から不要と見なされること、遊び半分に殺されるということの怖ろしさをひしひしと感じたのでした。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE

直接手を下す須藤や木村たちのような殺人犯だけでなく、自分たちが生き残るために家族の一人を犠牲にする電器屋一家、殺人犯と共謀する福祉事業者、義母に手をあげることが常態化してしまう妻など、ふつうの人々のなかにある凶悪な面を静かにあぶりだす映画でした。

僕は個人的には『冷たい熱帯魚』よりも好きかなぁ。

いや、後味はこちらの方が断然悪いですけどね^_^;

『冷たい熱帯魚』はある意味、見世物的に無責任に殺人ショーを楽しんで観ていられるけど、この『凶悪』はそうではないから。

藤井の妻は、まるで観客である僕にも「楽しんでたんでしょ?」とたずねているようなのだ。

その言葉は微妙にこちらの居心地を悪くさせるし、事実、リリー&ピエールの殺人コンビは最高だったんで。

他者の痛みや苦しみを想像することができない、または想像するのをやめたとき、人は“凶悪”になるのかもしれない。