『ぼくの名前はズッキーニ』 風の子たち (original) (raw)
クロード・バラス監督によるスイス=フランスのストップモーション・アニメーション映画『ぼくの名前はズッキーニ』。2016年作品。65分。
原作はジル・パリスの小説「奇跡の子」(2018年に邦題を『ぼくの名前はズッキーニ』に改題)。
“ズッキーニ”という愛称の9歳の少年イカールは、母親を亡くして同じ年頃の子どもたちのいる施設「フォンテーヌ園」に入ることになる。親切な警察官のレイモンが時々彼を訪ねてきたり、他の子どもたちとも仲良くなり、さらに新しく入ってきた1つ年上の女の子カミーユに好意を寄せるズッキーニ。子どもたちの出会いやふれあい、別れを時に切なく、爽やかに描く。
去年、同じくストップモーション・アニメの『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を観た時に予告篇をやっていたのを覚えているし、公開が始まるとわずか1時間ちょっとの作品にもかかわらず(入場料はしっかり通常料金だったけど)Twitterで絶賛・応援するツイートをたくさん目にしたり、『マイマイ新子と千年の魔法』や『この世界の片隅に』の片渕須直監督がやはり強く推されていたりして、興味を持っていました。
僕が住んでいるところでは上映館は1館しかなくて一日の上映回数も吹き替えと字幕がたった1回ずつのためタイミングが合わなくてなかなか観られず、ようやく字幕版を鑑賞。
吹替版では大人の俳優さんたち(峯田和伸、麻生久美子、浪川大輔)が主人公の“ズッキーニ”やヒロインのカミーユなどの声をアテてるけど、原語版では子役たちが声を担当しているので、より自然に聞こえたんじゃないかと。
1コマずつ人形を動かして撮っていくストップモーション・アニメでありながら、僕はちょっとフランソワ・トリュフォー監督が素人の子どもたちを使って撮った『トリュフォーの思春期』を思い出したんですよね。
『トリュフォーの思春期』(1976)
音楽:モーリス・ジョベール 主題歌:シャルル・トレネ「日曜日は退屈」
特別劇的な出来事は起こらずファンタジー映画のような空想的な展開もなくて、まるでスケッチのように子どもたちの日常が切り取られていく。
児童虐待など、『トリュフォーの思春期』と共通するところもある。
日常を丁寧に描く、という部分で、特に片渕監督がこのアニメーション映画を高く評価されているのも頷けます。
上映時間が短いことは前もって知っていたしフランス語の作品なので、たとえばディズニーやピクサーのような賑やかで派手な展開のある作品ではないんだろうな、と予想はしていたんですが、実際に観てみると僕が思ってた以上に小粒で地味な内容の作品でした。
子どもでも観られるしその良さも理解できるでしょうが、正直なところこれ1本だけ観ると切なくて堪んなくなる。パディントンとかと続けて観たらちょうどよいのではないでしょうか。
コマ撮りアニメに使われている人形たちのデザインに少々癖があるのでなんとなく敬遠してしまう向きもあるかもしれないし、逆にヘンリー・セリックやティム・バートンのアニメのようなちょっとストレンジなテイストを期待する人もいるかもしれませんが、先ほどから述べているように映画の大半はほぼ現実の子どもたちの姿を写実的に描いているので、その何気ない毎日、その中でのほんの少しの変化などに注目して観ていると登場する子どもたちがとても愛おしく思えてくる小品、といったところ。
それではこれ以降はストーリーについて書いていきます。これからご覧になるかたはご注意ください。
冒頭から、子どもを主人公にした映画としては結構陰惨な事件が起こる。
イカールは凧にスーパーヒーローの姿をした父親を描いて大切にしている。その父親はどうやら妻子を置いて別の若い女性とどこかに行ってしまったようだ。
そのせいか母親は昼間から缶ビールをあおり、ドラマを観ながらTVに向かって悪態をついている。家の床は空き缶だらけになっている。
母親に相手にしてもらえないイカールは彼女の飲み干したビールの空き缶を集めて屋根裏部屋で塔を作っているが、ふとしたはずみに倒してしまい、空き缶が階下に落ちて大きな音を立てる。
怒った母親が息子を折檻しようと階段を上がってきたので、イカールが階段の蓋を勢いよく閉めたところ、運悪くそれが母親の頭に当たって彼女は転落、命を落とす。
事故とはいえこれは母親を殺してしまった幼い少年の物語なわけで、しょっぱなからかなり重い気分にさせられる。
施設でのシモンとの会話からも、イカールは自分が母を殺したことを理解していることがわかる。
生きていた頃の母親の言葉遣いから日頃より彼女が息子につらくあたっていたことがわかるが、それでもイカールは母のことを愛していて、だから彼は母が自分につけた愛称“ズッキーニ”で呼ばれることを望む。
なんでズッキーニなのか説明がないからわからないけれど、ジュール・ルナールの小説「にんじん」で主人公の少年は母親から“にんじん”と呼ばれていたことを思い出しました。
ひどい母親でもその愛を求めずにはいられない子どもたち。
ズッキーニ以外の施設の子どもたちも、親が逮捕されたり母国のアフリカに送還されたり、父親から性的虐待を受けていたり、それぞれが心に傷を負っている。
車の音が聞こえるたびに母親を呼んで外に出てくるベアトリスの様子は可笑しくも哀しい。
「身体にいいから」と歯磨き粉を食べて食事中に嘔吐するジュジュブは、親に信じ込まされたことを続けているのだ。
ただ、だからといって彼らはいつも暗く沈んでいるわけではなくて、甲高い声で歓声を上げたり楽しそうに遊んでいる子どもたちの姿が本当に可愛い。
子どもたちがいつも食べてるのがフライドポテトで、たまには違うものも食べさせてあげてー、と思うけど。
子どもたちのリーダーのような存在のシモンはいかにもイジメっ子然としていてしょっちゅうまわりのみんなに意地悪をするが、それは人との正しいコミュニケーションの取り方を学んでこなかったからで、彼が新しく入ってきた子に必ず「ここに来た理由」を尋ねるのは、純粋にその子のことを知りたいからだ。
だから、ズッキーニがただ黙って苛められるままではなく、大切な凧を勝手に揚げているシモンに立ち向かっていったり、カミーユが年長の女の子らしく彼を軽くあしらうと、それ以上無用に彼らにカラんだりはしない。
ズッキーニは無口なので一見するとイジメられっ子のようだが、シモンと殴り合いの喧嘩をして負かしたあと仲良くなったり、しばらくすると学校のみんなとも馴染んでカミーユのことも好きになるし、わりとたくましい。
イジメっ子とかイジメられっ子とか、わかりやすいキャラ分けがされていないんですね。
あるいは、人にはいろんな面があることを描いている。
独りぼっちになったズッキーニをフォンテーヌ園に連れていった警察官のレイモンは親切だが、ズッキーニとカミーユを自分の家に招いた時に、実の息子と縁遠くなっていることを告げる。
その理由は述べられないが、もしかしたら彼は彼で何か問題を抱えているのかもしれない。
特に娯楽作品の場合、キャラクターたちには役割分担があってしばしばステレオタイプ的に描き分けられたりもするものだけど、この映画の登場人物たちはストーリーを進めていくためのコマにされていないんですね。ただそこにいる。
園長先生も別に怖くも厳しくもない。普通。
さまざまな事情があって親と一緒に暮らせない子どもたちが住む施設というのはフィクションの中ではつらい場所であることが強調されがちだけど、ここでの彼らの生活は比較的穏やかで、映画は1本の太いストーリーで観る者の興味を引くというよりも、日々の小さなエピソードの積み重ねによって構成されている。
遊園地でおばけ屋敷に入って盛り上がったり、雪の中のコテージを借りてみんなで賑やかに踊ったり。
そこでもアメッドがたまたま出会った女の子にゴーグルを借りたところ、彼女の母親に泥棒扱いされたり、楽しい時間の中にふと悲しい出来事が紛れ込んだりする。
カミーユは射的が得意だが、それは父親に本物の銃の撃ち方を教えてもらったからで、その父は浮気した妻を撃ち殺して自分も自殺していた。
誰もが悲しみを抱えながら、それでも健気に生きている。
ポール“おちんちん”先生とロージーのエピソードでは、子どもたちが興味を持つ“性”についてユーモアを交えて描いている。新しい生命の誕生は、彼ら一人ひとりの人生にもかかわりがあること。
唯一、強引にカミーユの親権を手に入れようとする叔母さんだけはハッキリと嫌な大人として描かれていて、子どもたちだけでなく先生たちからも嫌われているけど、彼女も別に最後に退治されたりはしない。
最初に書いたように、1時間ちょっとの作品なのは知っていたんだけれど、それでもズッキーニとカミーユがあっさりとレイモンの養子として引き取られるラストには「あれ?これでおしまい?」という味気なさを感じてしまったのは否めません。
カミーユと叔母さんの件とか、もうちょっと引っぱるのかと思ってたから。
それに、二人は親代わりの大人ができたからいいけど、他の子たちはこれからもフォンテーヌ園で暮らし続けるのだし、これで「めでたしめでたし」と言えるんだろうか、という疑問も。
何か釈然としないものを感じたんですよね。他の子たちではなくて、なんで彼らなの?と。
でも、優しい大人や好きな子と一緒に暮らす、というのはフォンテーヌ園の子どもたちの願いであって、だからズッキーニとカミーユが選ばれていったことはシモンが「俺たちのために」と言うように、あの施設の子どもたち全員の希望=夢なんではないか、とも思った。
風に吹かれる凧のように、子どもたちは舞いながら懸命に生きようとしている。
その姿に何かそっと背中を押された気がしたのです。
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