『15時17分、パリ行き』 運命に導かれて (original) (raw)

クリント・イーストウッド監督、スペンサー・ストーン、アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、レイ・コラサニ、ジュディ・グリア、ジェナ・フィッシャー、ウィリアム・ヘニングス、ポール=ミケル・ウィリアムズ、ブライス・ゲイサー、P・J・バーン、トニー・ヘイル、トーマス・レノン出演の『15時17分、パリ行き』。

少年時代からの親友であるスペンサー、アンソニー、アレクたちは余暇を利用して欧州を観光旅行していた。しかし、パリ行きの列車に乗り込んだ彼らは銃を持ったテロリストに遭遇する。

2015年に起きた、アムステルダムからパリに向かう高速鉄道タリス車内で起きたイスラム過激派の男による無差別テロ未遂「タリス銃乱射事件」の映画化。

イーストウッドの最新作で、しかも主役である3人の若者を事件の当事者たちが自ら演じているということで興味を持っていました。

僕は映画評論家の町山智浩さんの解説を聴くまでこの事件のことを知らなくて、2015年というわずか3年前の事件を早速映画化するイーストウッドのフットワークの軽さに驚かされたんですが、前作『ハドソン川の奇跡』(2016)も2009年の事故を描いていたし、本作品もまさにその方法論の延長線上で作られた映画なわけで、『ハドソン川~』でも不時着水した飛行機の人々の救助にたずさわった関係者をご本人たちが演じていたけど、何しろ今度は主人公の3人さえも当事者に演じさせたのだから、これはもう究極の「再現ドラマ」ですよね。

かつて黒澤明がハリウッドの戦争映画『トラ・トラ・トラ!』で演技の素人を軍人役に起用しようとして果たせなかったことを、今イーストウッドがやってる面白さ(なんでいきなりクロサワなのかといえば、もちろん『荒野の用心棒』繋がりで)。

しかも本人に自分自身を演じさせるという徹底ぶり。

『ハドソン川~』の時もフェリーの船長さんが演技が実に自然だったので言われなきゃ俳優ではないとは気づかなかっただろうし、今回の『15時17分~』の3人も、そのうち2人は現役の軍人だからいかにもなガタイでゴツいんだけど、まるでドキュメンタリーでも観てるみたいで画面に馴染んでいた。

といっても、いわゆる“ドキュメンタリー・タッチ”(たとえばキャスリン・ビグローの映画のような)ではなく、撮影そのものはしっかり劇映画のそれだし、その中でまったくの演技の素人である3人が(さらにテロに遭遇した人たちまで)違和感なく「台詞」を喋ってることに驚く。

アンソニーなんて「実は俳優」と言われても信じそうになるほどのナイスガイだし。

スペンサーとアレクの母親役のジュディ・グリアとジェナ・フィッシャーはプロの女優だから、そのことを知ってて観てると、俳優と本人たちが入り混じった状態のなかなか奇妙な感覚を味わうことになりますが。

ってゆーか、10年ちょっと前にはあんなにあどけなくて可愛かった男の子たち(もちろん演じているのはプロの子役)が今ではあんなイカツい兄貴たちになってることも驚きなんですが^_^;

さて、実話の映画化だしその経緯はすでに知られてるんだからもはやネタバレも何もないんですが、それでも話の展開について知りたくないかたは以降は映画の鑑賞後にお読みください。

この映画は3つのパートに分かれていて、最初は子ども時代のエピソード──彼ら3人(ウィリアム・ヘニングス、ポール=ミケル・ウィリアムズ、ブライス・ゲイサー)の出会いと別れが描かれる。

スペンサーとアレクは学校では教師(P・J・バーン)から反抗的な生徒と見做されていて、何かといえば校長室に呼び出されて説教食らっている。

そんな2人は、やはり問題児扱いされているアフリカ系のアンソニーと意気投合して友情で結ばれる。

彼らが通っているキリスト教系の学校の描かれ方がなかなか手厳しい。

息子たちに問題があるのはシングルマザーであるスペンサーとアレクの母親たちのせいだ、という校長(トーマス・レノン)や担任教師。

やる気のないバスケのコーチ。ああいう教師いたよなー。

ハリウッド映画で描かれる学校の先生って、子どもたちの可能性を延ばすために親身になって協力する善良な人がわりと多い気がするので(もしくは極端にデフォルメされた鬼教師みたいなのとか)、生徒たちにバスケをさせてるコーチ(トニー・ヘイル)のテキトーな仕事ぶりとか、ああいう教師はアメリカにもいるんだなぁ、って思った。アンソニーがボールをぶつけられたことには気づきもしなくて(あるいはわざと無視してる)、でも彼が相手に悪態をつくとすぐに罰する、みたいな。コーチへの「あんた、クソ?」っていうアンソニーの捨て台詞が痛快。

この学校の教師たちのスペンサーたちを見下す態度は不愉快だが、疎まれていた彼らがのちにやり遂げたことを思うと、大人たちの見る目がいかになかったのかがよくわかる。

とはいえ、彼ら、特にスペンサーが問題児だったことは確かで、さすがに悪戯が過ぎて母親がキレることも。子どもたちがサバゲー好きなのはともかく、まだ幼い子どもにあんなゴツいエアガンを大量に買い与えるのもどうかと思った。

結局、アンソニーは別の学校に転校、またアレクも父親に引き取られることになって3人はバラバラになるが、彼らの友情は続いた。

そして次の場面ではもう彼らは若者に成長していて、スペンサーとアレクは軍人に。

アレクは州兵としてアフガニスタンに駐留していたが、これまでに何かを成し遂げたことがなかったスペンサーは一念発起して一年間身体を鍛えるも、“奥行知覚”の検査に引っかかって希望していたパラレスキュー部隊に入れず、人命救助部隊に配属される。

彼の軍隊での落ちこぼれぶりは、その後描かれるタリスでのテロ阻止の布石になっている。

列車内で銃を手にしたテロリスト(レイ・コラサニ)がトイレから出てきて銃を発砲、という描写は映画の冒頭でされているので、観客はこれから何が起きるのかはあらかじめ知っている。

だから逆算してスペンサーの過去の場面からさまざまに予兆めいたものを感じ取ることになる。

こじつけっぽいものもあるかもしれないが、それでもスペンサーの「自分は運命に導かれていたのではないか」という思いに自然に繋がっていくように描かれている。

柔術。銃の扱い。人命救助。誰にも勧められなかったパリ行きを選んだこと。

彼らは軍隊でも休み時間にスカイプで旅行の打ち合わせをしたり、旅行先でもインスタ映えを気にしながら自撮り棒でセルフィーを撮ってる、どこにでもいるような若者たちで、旅先で出会った人たちと語らい、クラブで朝まで飲んで踊って翌日は二日酔いで後悔したりする。

スペンサーとアンソニーがアジア系の同じアメリカ人の女性(アリサ・アラパッチ)と出会ってしばらく一緒にヴェネツィアの街をめぐる場面は、ウディ・アレンの映画かと思ってしまうほど。

旅行のシーンは結構尺をとっているので、「この起承転結のない描写はいつまで続くんだろ」と少々不安になってしまったぐらい。

それでも、あの一見ダラダラしたホームムーヴィーを観ているような時間こそがその後の列車での彼らの行動をより際立たせることになっていて、実に効果的だった。

まぁ、あの旅行の場面をカットしちゃったら映画が1時間ぐらいで終わっちゃうし^_^;

事件そのものは映画の3幕目で描かれたのと同じぐらいの時間で、ほんの何分~十数分ぐらいのことなんですよね。

そのわずかな時間のために、それまでの描写=スペンサーたちの人生、があったように、すべてがあの時のために用意されていたかのように思えてくる不思議。

キリスト教の学校はあれほど批判的に描かれていたのに、何やら“神意”のようなものさえ感じさせる。

僕はあの車内の格闘シーンで無意識のうちに涙がジワ~ッと出てきたんですよ。しかもなぜか左側の目だけ。もしかしたら花粉症のせいかもしれないけど^_^;

いや、ほんとに偶然そこに居合わせた彼らが(犯人の確保には他の乗客も協力している)見事にそれぞれの役割を果たして虐殺を食い止めた(犯人は270発の弾丸を所持していた)ことにストレートに震えたんですよね。

スペンサーが軍隊に入ったのは、敵を倒したいからではなくて人を救いたかったから。彼が希望して入れなかったパラレスキューもその名の通り人を救うための部隊。

そして彼はそれをあの列車の中で親友たちとともにやり遂げる。

それにしてもあらためて恐怖を感じるのは、武器を持って本気で人を殺す気でいる人間は屈強な男たちが数人がかりで押さえ込んでようやくその動きを止められるのだということ。

スペンサーは習っていた柔術を駆使して犯人を押さえ込もうとするが、犯人が持っていたナイフによって負傷する。もし切りつけられた場所が悪ければ彼は命を失っていたかもしれない。

武器の扱いに慣れたアレクは犯人が持っていた銃器からすばやくマガジンを抜き、危険を回避する。アンソニーは撃たれた人の出血をおさえるためのタオルを求めて走る。

みんなが適切な行動をとったおかげで銃撃による重傷者は命を取りとめた。映画ではこれもご本人が演じている。

一方で、映画の中ではほとんど描写されなかったが、事件が起こると乗客を守るべき乗務員は自分たちだけ逃げて鍵をかけて他の人々を見殺しにしようとした。スペンサーたちの活躍がなければ500名以上を乗せた列車は大量虐殺の場になっていた。

子ども時代のスペンサーは銃器のオモチャを大量に所有するミリオタっぽい、正直「こいつ大丈夫か」と心配になりそうな少年だったし、軍の施設で誤作動による警報が鳴った時にボールペンで“敵”に立ち向かおうとした時にはある「危うさ」も感じた。正義感が強い、というのは場合によっては危険なこともあるので。

でも、彼はいざという時にとっさに然るべき行動をとった。それは正しかった。

僕が心を打たれたのはそこでした。

偉そうなことを言うのはたやすい。しかし本当に人間の真価が問われるのは、大勢の命にかかわる時に瞬時に的確な行動がとれるかどうかだ。スペンサーはそのタイミングを見逃さなかった。

これはテロを未然に防いだ“英雄”たちの実話だけど、それこそレスキュー隊などが災害や事故の現場で人々を必死に救助している姿を見る時の胸に込み上げてくるものと同種のものをあの3人に感じたんです。

人を殺すための訓練を受けていて武器を使う可能性もある軍人のスペンサーやアレクが人を救ったことに、「戦争」をめぐる世の中の多くの矛盾が集約されてる気がする。

それでも人を救うことは尊い。それは間違いない事実。

もうすぐ3.11ですが、あの大震災でも自衛隊の人たち(もちろん、それ以外の多くの人々も)が活躍されました。

傷つけたり殺すのではなく、救う。世界に必要な“英雄”とはそういう人々のことだと思います。

「英雄とは、大きな困難に並外れた反応を示す普通の人々なのだ」
《クリスチャン・サイエンス・モニター》紙

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