『クワイエット・プレイス』 愛の音 (original) (raw)
ジョン・クラシンスキー監督、エミリー・ブラント、ジョン・クラシンスキー、ミリセント・シモンズ、ノア・ジュプ、ケイド・ウッドワード、レオン・ラッサム出演の『クワイエット・プレイス』。
他に人の見当たらない農地に暮らすリーとイヴリン、リーガン、マーカス、ビューらアボット一家の間には、けっして大きな音を立ててはならない、というルールがあった。なぜなら──
現在も公開中の『カメラを止めるな!』と同時に映画評論家の町山智浩さんが作品紹介をされていて、『カメ止め』同様にネタバレ厳禁の作品なためにあまり詳しいことはわからなかったですが、「アイディアが秀逸」ということなので、面白そうだな、と思ってました。
で、公開が始まると評判もいい。Twitterでも褒めてる人たちがちらほらと。皆さん、やはりその“アイディア”を絶賛している。
なので、これは『カメ止め』のようにシナリオが巧みな作品なんだろうか、と期待して観にいったのだが──
まず、この映画は急に大きな音がする場面が頻繁にあるので、そもそもそういうのが苦手なかた、音に敏感な人にはお薦めしません。それから予告篇を観たらわかるけど、わりと「怖い映画」ですから、やはりそういうのが好みでないかたも避けられた方が無難かと。
もっとも年齢制限はなくて、目を覆うような残酷描写はありませんが。実は人が直接殺される場面も一切画面には映されない。
それでは早速ですが、以降はネタバレを含みますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。
この映画は「音を立ててはならない」ということを強調しているので音響にいろいろと工夫を凝らしていて、また登場する家族の中の一人は耳が聴こえない設定(演じているミリセント・シモンズも、実際に聴覚に障害を持っている)なので、やはり彼女の耳の中の状態とそれ以外の者が聴いている音がショットごとの空気音の違いなどで表現されている。
で、町山さんの作品紹介を聴いたり予告篇を観てれば予想がついたことなんだけど、これはホラー映画なんですよね。
ということは、観客を驚かすために要所要所で結構派手に大きな物音がする。ショックを表現する音響効果も通常よりも大きめに入れてある。
だけど、僕は以前にも書いたけど、急にドンッ!とかバンッ!とかけたたましい音がするのが大の苦手で(この映画にはないけど、犬の吠え声なども)、それはビビリだからということもあるけど、単純に耳に負担になるんですよ。怖いとかスリルがあるというよりもうるさく感じてしまって(だから映画が始まる前に出る日本の配給会社のロゴで、バックに流れる曲の音量がやたらと大きなものとかがとても嫌)。
なのに、この『クワイエット・プレイス』は、そういう急にデカい音が鳴る場面ばっかなんですよね。
何かが突然画面に飛び込んでくる場面だけでなく、弟が姉の腕を掴んだりエミリー・ブラントがガラス戸に手をつくショットにすら必要以上に大きな効果音を使っている。ちょっと“こけおどし”が過ぎるんじゃないかと。
僕は残酷な描写とか、何か怖いものが映っている映像などは普通に楽しめるんだけど、この大き過ぎる音だけはどうしてもダメで、だからかなり苦痛だった。映画が始まって早くも観たことをちょっと後悔してしまった。
音で驚かすのって要するに「おばけ屋敷」と同じ発想なわけだけど、たとえばおばけ屋敷やジェットコースターって驚いたり怖かったら思いっきり悲鳴を上げられるじゃないですか。それが発散になるわけで。
でも、外国ではどうだか知らないけど、とりあえず日本では映画館でいちいち大声上げたり飛び上がったりしたら恥ずかしいし、まわりにも迷惑がかかる。
だから劇中でいきなり大きな音が鳴っても平静を装ってジッと微動だにしないようにするのが大変で。気を緩めるとビクッと反応したり思わず耳を塞いじゃいそうになるから、ずっと緊張しっぱなしですっごく疲れた。
きっとDVDとかTV放送とかで観たら大丈夫なんだろうけど、なまじ音響設備のいいシネコンで観てるもんだから、余計やかましく感じてしまった。
かと思えば、静かな場面が続いてるところですぐ近くの席で観ていたおねえさんがポップコーンをガサゴソ、バリバリやり続けてるのが地味に耳障りだったりして。「音を立てるな」っつってんでしょーが(;^_^A
隕石とともに飛来した大量の凶悪モンスターによって人類の大半が殺されてしまったらしい2020年が舞台で、登場するのは5人家族と、あとは老人夫婦ぐらい。そのうちの2人が早々と犠牲になる。
非常に限定された空間とシチュエーションで90分間を見せきるモンスターホラーで、だからこういうジャンルが好きな人はきっと面白いだろうと思います。褒めてる人たちがいるのはよくわかる。
ただ、僕はかなり期待し過ぎてしまって、しかもその期待がこの作品が提示しているシンプルなB級ホラーの面白さではなくて、もっとこう、ヒネリのあるお話を想像していたものだから、肩すかしを食らった気分に。
確かに多くのかたたちが言及されているようにM・ナイト・シャマランのいくつかの映画を思わせるし、目が見えなくて聴覚だけを頼りに獲物を探す“モンスター”は『ドント・ブリーズ』や『トレマーズ』、最後にモンスターたちの弱点が判明して反撃するところは『マーズ・アタック!』といったようにいくつもの映画が思い浮かんで、そういうところは純粋にホラーとかモンスター物を観る楽しさはある。
中盤以降、なんとかデカい音を我慢しながら、僕もそれなりに一家とモンスターの攻防戦に入り込んで観ていたし。
モンスターに襲われそうな時に産気づく、という恐怖の描写はなかなか新鮮でしたね。
エミリー・ブラントはそれを台詞もなく顔の表情や息遣いだけで表現していて、迫真の演技とはこういうのをいうんだなぁ、と思いました。
実際の撮影現場では、おそらくCGの合成用に身体にいろいろつけた面白い格好の人を相手に演技していたんだと思うと和みますがw
エミリー・ブラントは『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でトム・クルーズとともにモンスターと戦ってましたが、なかなかモンスターづいてますね。
日本では来年に彼女主演の『メリー・ポピンズ』の続篇も公開されるし、売れてるなぁ。
長男のマーカス役は、『ワンダー 君は太陽』でジェイコブ・トレンブレイ演じる主人公オギーのクラスメイトを演じていたノア・ジュプで、あの映画での彼の表情の演技は素晴らしかったので、今回でも恐怖で顔を歪ませながら逃げる場面などで彼の演技力が十二分に発揮されてました。
この映画の出演者たちを見ていると、ホラー映画というのがいかに役者の演技力にかかっているかよくわかる。
長女のリーガンを演じたミリセント・シモンズは、彼女が出演した『ワンダーストラック』は僕はあいにく未見ですが、先ほど述べたように彼女は本当に耳が聴こえないということで、劇中で父親のリーとのやりとりで苛立ちを見せる様子など繊細な演技が光ってました。思春期の女の子のめんどくささも含めて。
リーガンは自分が手渡した音が鳴るオモチャのせいで下の弟のビュー(ケイド・ウッドワード)を死なせてしまった自責の念から、自分は父親に愛されていない、と思っている。
彼女の苦しみには同情するし年頃の女の子だからいろいろと不安定にもなるのはわかるんだけど、父親から頼まれたにもかかわらず身重の母親を一人きりにしたまま暗くなるまで外にいるとか(リーも、女性二人を残していってるんだからせめて明るいうちに帰ってこいよ、と思ったし)、その行動には少々イラつかされた。
穀物の入ったサイロに落ちた弟を助けようとして自分も落っこちるとか、現実にはそういうふうにうまくいかないものだけど、どうもこのリーガンという少女が長女としての自覚に欠けてる気がして。
家族の中で自分だけに耳の障害があるということも、彼女が抱える苛立ちとその行動に影響を与えているのかもしれないけれど。
でも、だからこそ、そういう揺れているリーガンの存在がモンスターを倒すきっかけを作ったということが重要なんですね。
父は娘を愛していて、彼女のために補聴器を作り続けていたが、その補聴器が最終的にモンスター退治の武器になる。彼女のハンディキャップが家族を襲う困難に打ち勝つヒントになったのだった。
…と、こうやって要約してると、なんか素晴らしい映画に思えてきたけどw
町山さんが仰ってた「父泣き映画」や、多くのかたたちが高く評価しているのもこの部分なんでしょう。
父と姉の間にわだかまりがあることに気づいているマーカスは、リーに「リーガンに『愛してる』とちゃんと伝えて」と告げる。家族愛だなぁ~。
息子の言葉に従って、父はその最期に手話で娘に「お前を愛してる」と伝える。
「愛している」という言葉が家族を救い、その絆を回復させる。
それは実際に声を発していてもいなくても、想いを相手に伝える、という行為で成し遂げられる。
だから父と娘の互いの心が通い合った時点で、この映画はほぼ完結している。あとは父が遺したものによって彼ら家族が生き延びられることがわかればいい。
なので、最後の大量のモンスター退治は「──以下省略」とw
観ていてツッコミを入れたくなる設定、場面は結構あります。
ただ、前もって言っておくと、そういうツッコミどころも含めて楽しむべき作品であることはわかります。なので、わかったうえで敢えて、ということで。
モンスターが察知する音の大きさが曖昧、というのもあるけれど、僕が気になったのはアボット家の人々の行動。
そもそもちょっとでも大きめの音が鳴ったらヤバいことがわかっているのに、4歳の男の子を一番後ろで一人で歩かせて誰も守らない、というのはのちにイヴリンも後悔していたけど、いくらなんでも油断し過ぎじゃないか、と。
しかもこの家族はビューを失ってからも結構迂闊で、打ち上げ花火をセットしたり出産のために地下室を防音にしたりとやたら用意周到なところと、各自が外出したまま夜まで帰ってこなかったり家族でバラバラに行動するなど無用心極まりないところが多々あったりと、どうも一貫性がない。
イヴリンの足を釘が貫通する思わず客席の観客が悶絶するシーン(;^_^Aがあるけど、あんな長い釘が階段から突き出てたらもっと早くに気づいてモノを置くなどして対処しておけよ、と思う。
現実にエミリー・ブラントの夫でこの映画の監督でもあるジョン・クラシンスキー演じるリーは、ロビンソン・クルーソーみたいに口髭を生やした顔が誠実そうで、事実、彼は家族のために懸命になって最後まで頑張り抜くのだが、地下室に水が流れ込んでるのをまったく気づかずに外に出ていくのもそうだけど、この夫が家族を置いてどこかに行くたびに必ず不都合が起きる。
リーガンの行動が無責任なのはさっき述べた通り。彼女が母を置いてビューのお墓で夜まで居眠りしていなければ、イヴリンはあそこまでの危機に陥らなかったかもしれない。母親がモンスターに追われながら自力で出産してる時に呑気に寝てる場合か。
そういうイライラさせられる不始末が多い。
まぁ、現実の世の中はそういううまくいかないことだらけだし、良かれと思ってやったことが逆効果な結果を生む場合も少なくないですが。
そしてこの映画でも、そういう至らない家族たちがそれでも各自持てる力で戦うことで迫りくるモンスター=現実の苦難、を一つ一つなんとか打開していくところに価値があるのでしょう。
だから、僕が感じたもどかしさやイライラも計算されたものなんでしょうね、きっと。
さっきも不満を述べましたが、僕はシャマランの『(文字を反転させてます)ヴィレッジ』のように最後に“どんでん返し”があるような話を想像していたので、補聴器が発する高周波がモンスターたちの弱点だと判明してイヴリンが「俺たちの戦いはこれからだ!」ってな感じでショットガンをガチャコンッ!とリロードしてカットアウト、という小気味よいエンディングにもなんだか物足りなさを感じてしまったのでした。あ、これでおしまいなのか、別にオチないんだ、と。
あの禍々しい造形のモンスターも、謎のUMA的に正体がよくわからないうちは不気味で恐ろしかったのが、バイオハザードに出てくるような魔物ちっくなデザインの比較的ありがちな外見が明らかになるにつれて恐怖感も薄れていって、その正体に意外なオチが隠されてたわけでもないので、物語自体はB級モンスターホラー映画以上でも以下でもないなぁ、という印象。
この「家族モノで、モンスター出てきて、最後に退治して、オチなし」というのもシャマランの『サイン』そのものだなぁ、と。いや、すごくうまく換骨奪胎してるなぁ、と感心しますが。シャマランの方は母親の存在が抜けていたから。こちらは演じているのが本物の夫婦だからこその発想なんでしょうし。
いろんなホラー映画の優れたところを巧みにコラージュしたような作品でした。
僕は最初に理由を挙げたように苦手なタイプの映画でしたが、「B級モンスターホラー」好きの人たちにはお薦めです(^o^)
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