『ファーザー』 リトル・ダディの旅 (original) (raw)

フローリアン・ゼレール監督、アンソニー・ホプキンス、オリヴィア・コールマン、オリヴィア・ウィリアムズ、イモージェン・プーツ、ルーファス・シーウェル、マーク・ゲイティス、アイーシャー・ダルカール、ロマン・ゼレール出演の『ファーザー』。2020年作品。

第93回アカデミー賞主演男優賞、脚色賞受賞。

ロンドン。妻を亡くして独りで“フラット(家)”に住むアンソニー(アンソニー・ホプキンス)は、最近になって時間や場所、人の顔や名前があいまいになってきていた。娘のアン(オリヴィア・コールマン)との会話もしばしば噛み合わない。突然、見知らぬ人間が我が家にいることもある。また、介護人としてやってきた若い女性ローラ(イモージェン・プーツ)はずっと会っていない次女のルーシーになぜかよく似ていた。やがて、アンソニーの混乱は深まっていく。

作品の内容についての言及がありますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

なかなか時間が合わず、公開開始からひと月経ってようやく鑑賞。

アンソニー・ホプキンスのオスカー受賞が番狂わせだったということでいろいろ言われてもいましたが、実際に映画を観てみたら受賞も納得の素晴らしい演技だったし、作品自体もとてもよかった。

すでに映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いていたので、どんな内容なのかも、また作品の“仕掛け”についても知っていましたが、わかってても場面がフッとトンだり人物の顔が変わっていたり、「…誰?」って人がいきなり登場したり消えたりするたびに、主人公アンソニーの困惑と同じように作品を観ているこちらも頭が混乱する。

…要するに、イギリス版『恍惚の人』というわけで、認知症になった老父の目で見た世界がそのまま描かれる。

もともと舞台劇で、その作者であるフローリアン・ゼレールが主演をアンソニー・ホプキンスで想定して自ら脚色、そして監督も務めている。だから主人公の名前もアンソニーなんだな。

劇中でアンソニーが窓から眺める階下の通りで紙製の風船で遊んでいる少年を演じているのは、監督の息子のロマン・ゼレール。

認知症がどんどん進行していく老人を描いた映画、というとなかなか観るのがツラそうな作品かと思いきや(実際、老いた親がいる身としてはまったく他人事ではないので)、確かに終盤の展開にはグッと心を揺さぶられはするものの、1本の映画として非常に面白かった。

ちょっとラッセル・クロウ主演の『ビューティフル・マインド』を連想しました。あちらは統合失調症でしたが(ネタバレのため白字に反転しています)。

いわゆる認知症の親の介護の大変さをストレートに描いた映画ではなくて、木から枝や葉が落ちていくように自分自身が朽ちて崩壊していく恐怖に襲われる本人の身になって世界を見る映画。

だから、ちょっとホラーっぽくもある。

その恐怖は誰にでもいつか訪れる可能性のあるものだから、リアルに怖い。

いろんな人の顔や名前、自分との間柄などが入れ替わっていたり、今いる場所が次々と飛ぶのって、僕はたまに眠ってて夢でそういうのを見ることがあるんですが、起きた時に軽い混乱をきたすんですよね。とても不安になるし、気持ちが沈む。本格的に自分が“ボケたら”ああいう感じで世界が見え続けるのだろうか、と。

町山さんも仰っていたように、これは認知症の人々が日々見ている世界を観客が疑似体験するものでもあって、そのことで患者さんが感じる不安やまわりの人たちにとっては奇妙に思える彼らの言動がどのような理由でなされるのかということを理解する助けになってもくれる。

それと同時に、衰えていく者の哀しさと切なさがない混ぜになった感情に襲われる。

後述するように実はかなり残酷なことを描いてもいるのだけれど、一方では幼い頃に戻っていくアンソニーの姿には、安易な救いはないが完全な絶望とも違う、どこか「帰るべきところ」へ帰っていく安らぎも感じるんですね。

アンソニーは自宅でくつろいでいたところ、見知らぬ男(マーク・ゲイティス)がいて彼に「順調ですか?」と笑顔で話しかけてくる。アンソニーには彼が誰なのかわからないので困惑するが、観客である僕たちも同じように「…誰?」となって早速不安に駆られる。

こういうことが続けざまに起こる。また、長女のアンも会うたびに言ってることが違ってて、ところどころまるで会話が通じない。それどころかアンの顔が別人に変わったり、彼女の夫のポールまでこれまた見知らぬ男(ルーファス・シーウェル)に変化していたりする。

アンソニーは自分の家にいると思っていたら、いつの間にかアンとポールの家だったり、アンはパリへ引っ越すと言ったり、そんなことは言ってないと言ったり、夫がいたりいなかったり、ほんのちょっと離れた瞬間にこういうことが続けざまに起こる。それどころかアンの顔が別人に変わったり、彼女の夫のポールまでこれまた見知らぬ男に変化していたりする。アンはパリへ…あれ?繰り返してる?

チキン料理をアンソニーがアンとポールと3人で食べるシーンがループしていることに気づいた時の恐怖。ポールはアンソニーの病気を理由に彼を施設に入れるようアンを説得している。それを目のあたりにしたアンソニーはその記憶が脳裏に張り付いている。

あなたはどちら様ですか?そして、わたしはだぁれ?

自分が自分でなくなり、家族やまわりからも今までのように扱われなくなる恐怖。

アンソニーの世話をするために新しく介護人としてやってきた若い女性のローラが、優しくわかりやすい言葉で一日のスケジュールを伝えると、バカ扱いされたと感じてアンソニーは怒る。

映画が進んでいくにつれて、アンソニーの症状が実はかなり深刻なことがわかってくると、なぜそのような父親を施設にも入れずにたった一人の介護人に任せているのか不思議でならなくなる。もはやそんな段階ではないのに。

それよりも、父親が要介護なのに恋人を追ってパリへ越そうというのがわからない。

アンは以前にも介護人を雇って父親の面倒を見させようとしたが、アンソニーは彼女が腕時計を盗んだと言い張って追い出してしまった。しかし、腕時計は父がいつも隠し物をする時に入れておく場所にあった。

認知症の患者はしばしば「物を盗まれた」と主張するそうだけど、ここでアンソニーが腕時計にこだわるのが象徴的。「時間」を盗まれているように感じているということだから。

アンソニーが、ポールがはめている腕時計は自分の物ではないか、と疑いだして、なんとかその腕時計を確認しようとしたり、何度もどこで買ったのか尋ねる場面の、ちょっとお茶目で可愛い、でもアンソニーの“崩壊”を決定づける場面の痛々しさ。

そしてポールの口から吐かれた義父アンソニーへの残酷な言葉。

いつまで我々をイラつかせる気なんです?

ポールはアンのいないところでアンソニーに暴言を吐いていたのだろうか。ポールに責められ頬を何度もひっぱたかれたアンソニーは、まるで子どものように号泣して助けを呼ぶ。それとも、これも別の記憶と混ざっているのか。

アンソニーは何度もポールの名前をジェームズと間違えるが、「ジェームズ」が誰のことだったのかは最後までわからない(アンはジェームズの名前を言われてもわからない様子だったし)。

そして、最近顔を見せない次女となぜかそっくりな介護人のローラという名前もどこから出てきたのかわからないし、そもそもそんな女性が本当にいたのかどうかもさだかではなくなる。

これはまるで不条理劇のような映画で、観客はアンソニーと一体になって、存在していると思っていた人物が記憶の混濁による幻だったり、生きているはずの人がすでに亡くなっていたり、過去と現在、現実と願望がごちゃ混ぜになっていてどれが本物なのかわからない状態に置かれる。

アンは、認知症の父親をロンドンの介護施設に預けて、自身はポールとパリで暮らしている。週末には顔を見せにやってきているようだが、アンソニーは覚えていない。

だから、これは長女が父親を無残に捨てたわけじゃないんだけど、娘に見放されたと感じた父は幼児返りして、ママを恋しがって泣く。彼の中で娘と介護士と亡き母親とが一緒くたになっている。

最後に介護士のキャサリンが唄う葉っぱの歌も、おそらくは遠い昔、母が幼いアンソニーに唄ってくれたものなのだろう。

キャサリン役のオリヴィア・ウィリアムズは登場するたびに別人になっていて、その演じ分けが見事でした。最初はアンとして出てきたので、あれ?オリヴィア・コールマンの若い頃かな?と思っていると、やがてイモージェン・プーツが演じていたローラの代わりに。最後には施設の介護士に。

この介護士は業務的な喋り方でアンソニーに接していたと思ったら、優しい母親に変化する。

これが心地よくもあり、恐ろしくもある。さすが原作が舞台劇なだけあって、役者の演技力を存分に発揮させるシナリオですね。

オリヴィア・ウィリアムズは、1999年の『シックス・センス』でのブルース・ウィリスの儚げな妻役で印象に残っていますが、今度はアンソニー・ホプキンスを惑わす役柄とはね(^o^)

あれから20年以上経って皺が刻まれた顔は美しさを保ち続けていて、もっとこの女優さんの出演作品が観たいと思いました。

ローラ役のイモージェン・プーツは、僕は『フィルス』の若い刑事役で記憶していますが、あの映画では厳しい表情でジェームズ・マカヴォイと罵り合うような役柄だったので、今回は笑顔がとてもキュートで、そんな彼女がアンソニーに激しい言葉をぶつけられて顔を曇らせたりちょっと涙目になったりするのが、なんだか愛おしくて堪らなかったです。

プーツ演じる“アンソニーの次女”がいつ亡くなったのか劇中で語られていたかどうか失念してしまいましたが、オリヴィア・コールマンの妹という設定にしてはずいぶんと若いし、アンソニーとは親子というよりもほとんど祖父と孫のようなので、亡くなったのはずいぶんと昔のことなのかもしれない。

アンソニーは彼のことを「リトル・ダディ」と呼んでいたこの長らく会っていない“次女”をやたらと褒める一方で、姉の方のアンについては彼女がいないところでことあるごとに不満を述べて、その「出来の悪さ」や「気のつかなさ」を愚痴る。

けれども、そんな父は最後にそのアンに施設に入れられて、「私を見捨てるのか」と泣き言を言う。

そのあたりも皮肉めいている。アンは最後に自分に冷たかった父に仕返ししたんじゃないか、というふうにも見えなくはない。

もちろんこれは、かいがいしく父親の世話をしていたはずの長女が実は…といった単純なオチの話ではなくて、この映画自体が認知症の老人アンソニーという「信用できない語り手」の主観で描かれた話なので、どこまで事実でどこはアンソニーの思い込みや偏見に基づくものなのかわからないんですよね。

ルーファス・シーウェル演じるアンの夫(夫なのか恋人なのかもよくわかんなかったが)のポールも、劇中でアンソニーからはマーク・ゲイティス演じる介護士と同一人物のように思われていて、だから「順調ですか?」という言葉を発したのが介護士なのか(普通に考えればそうなのだろうけれど)、それともポールなのか、ポールのあの冷たい態度やアンソニーの頬をひっぱたく暴力は彼のものなのか、それとも介護士がやったことなのか、はたまたそれは子ども時代にアンソニーが誰かから受けた仕打ちなのかもよくわからないんですよね。

ルーファス・シーウェル(『ジュディ 虹の彼方に』)もマーク・ゲイティス(『プーと大人になった僕』)もいけ好かない感じの人物を演じるのが巧みな男優さんたちだけど、主人公の頭の中で彼ら二人の区別がつかなくなるというのがよくわかる演技で、それってさっき僕がたまに見ると述べた嫌な夢そのものなんだよなぁ。嫌いな人、怖い人たちが夢の中で合体するっていう。彼らの台詞「順調ですか?」は夢に見そう(;^_^A

アンを演じるオリヴィア・コールマンは僕は彼女の出演作を観るのは『女王陛下のお気に入り』以来ですが、あちらでは女王様役だったのが今回は普通の人の役で、以前から「その辺にいそうな顔の人だなぁ」と思っていたので、笑うと歯茎がむき出しになる彼女の顔はほんとに親近感が湧く。

その彼女が父親の異変に気づいて涙を流したり、最後に険しい顔つきで施設をあとにする姿など、いたたまれない気持ちになった。

彼女はけっして冷たく父を見捨てたわけではないのに、アンソニーはそう感じている。娘が会いにきていることさえ忘れている。長女と父との、その心の通わなさがつらい。

アンソニー・ホプキンスは、最初にも書いたけど素晴らしかったですね。

頑固でプライドが高く人を見下すような態度、無理やりユーモラスに振る舞って自分の元気さや“まともさ”をアピールしたり、感情の変化が急激にやってくる様子、そしてやがて子どもに返っていく姿など、老いた父が次第に壊れていくのを観客はさまざまな想いで見つめることになる。

非常に入り組んだ構成でありながら、観終わったあとには「もう一度観たい」と思わせる、そしてクライマックスではちょっと肩がわなわな震えちゃうような感動を覚える作品でした。

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