『あのこと』 (original) (raw)

オドレイ・ディワン監督、アナマリア・ヴァルトロメイ、ケイシー・モッテ・クライン、ルアナ・バイラミ、ルイーズ・オリー=ディケロ、ルイーズ・シュヴィヨット、ピオ・マルマイ、サンドリーヌ・ボネール、アナ・ムグラリス、レオノール・オベルソン、ファブリツィオ・ロンジョーネほか出演の『あのこと』。2021年作品。R15+。

原作はアニー・エルノーの自伝小説「事件」。

第78回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(最高賞)受賞。

1960年代のフランス。学生寮から大学に通うアンヌ(アナマリア・ヴァルトロメイ)は妊娠していることに気づいて中絶を望むが、当時のフランスでは中絶は違法だったため、病院でも処置してくれない。同じ大学の男子学生ジャン(ケイシー・モッテ・クライン)に相談して闇で手術を行なう女性を紹介してもらうが…。

ネタバレとかオチを気にするようなタイプの作品ではないですが、結末に触れますのでこれからご覧になるかたはご注意ください。

観る前から重い内容であることはわかっていましたが、現在の日本の状況と重なるものがあるようだったので鑑賞。

この映画の原作者で今年ノーベル文学賞を受賞した作家のアニー・エルノーさんの作品を恥ずかしながら読んだことがないし、それどころかお名前すら存じ上げませんでしたが、自伝小説を多く書かれているということで、この『あのこと』の原作も彼女の実体験がもとになっている。

舞台は1940年生まれのアニー・エルノーと同い年の主人公アンヌが大学で学んでいる1960年代。

現在のフランスとは中絶を取り巻く女性たちの環境は異なるし(1975年合法化)、日本でも中絶は今では違法ではない(1948年に合法化。※ただし、中絶方法の制限や配偶者の同意が必要など諸々の条件はある)が、当時のフランスでは人工妊娠中絶した女性本人も、それに手を貸した者も逮捕されたし、日本だってかつては同様だった。

中絶をめぐって分断が進むアメリカでは、女性は妊娠中絶する権利を有するとした1973年の「ロー対ウェイド判決」が2022年にテキサス州の判決で覆されて、中絶の権利の保障が否定されて論議を呼んでいる。

今年日本で公開された『**グロリアス 世界を動かした女たち**』でも中絶について描かれていたようにアメリカでは今現在注目されていることだし、日本もけっして無関係ではない。

若い女性が赤ちゃんを自宅や公衆トイレで産み落として遺体遺棄で逮捕されるニュースが日常的に流れるのは出産や中絶のためのケアが充分ではない証拠だし、それ以前に避妊の手段も限定されていて医学的な教育も行き届いていないので望まぬ妊娠を防ぐことがより困難になっている。

『あのこと』の中で病院での診察で自分が妊娠していることを知ったアンヌの最初の一言が「不公平よ」という言葉だったのが印象的だったんだけど、彼女にとって男女の営みの結果、自分の身体に起こった現象は“不公平”と感じられたということですね。相手の男性はそのような目には遭わないのだから。

この映画、世間の評価がとても高いし主人公アンヌに対する共感を口にする人たちも多いのだけれど、ほぼ実話だからってのもあるけど、けっしてアンヌを気の毒な性の被害者のようには描いていないんですよね。

たとえばこれが、拉致監禁されてレイプの結果出産した女性を描いた『**ルーム**』の主人公のような境遇、立場だったら彼女が中絶を望むことに疑問を抱かないだろうけど、『あのこと』のアンヌはそうではなくて、相手との関係はあまり詳しく描かれないからわからないけど、あくまでも同意のうえでの性行為だったのだろうし、何よりも僕が引っかかったのは、アンヌが中絶を希望する理由が「学校の勉強を続けたいし、もしもここで出産を選んだら我が子を恨んで愛せないかもしれない」という、甚だ身勝手と思えるものだったから(もちろん、それ以前に相手の男性の責任も問われて然るべきなのは言うまでもないが)。

ここではおなかに宿ったひとつの命については一顧だにされないし、むしろアンヌの「何がなんでも中絶する」という固い意志がどう貫徹されるかを見据えていて、最後に再び学校でみんなと一緒に学ぶことができるようになったことへの喜びで映画を締めくくっている。

あれだけ大騒動を巻き起こしといて、学生続けられてよかったよかった、みたいな終わり方に正直釈然としないものを感じた。

のちにアニー・エルノーがこの映画の原作を書いたのは、自身の中絶体験をけっして軽く考えていたわけではないからだろうし、ここではまず何よりも当事者である女性の意志が尊重されることの重要性を訴えているのでしょうが。

セシル・ドゥ・フランスが実在した尼僧で歌手でもあった“スール・スーリール”ことジャニーヌ・デッケルスを演じた『**シスタースマイル ドミニクの歌**』(2009年作品。日本公開2010年)の主人公の描かれ方を思い出した(デッケルスは産児制限の賛同者でもあった)。彼女もけっして観客が同情しやすいタイプの女性ではなくて、鑑賞した人の「主人公が自分勝手過ぎて共感も感情移入もできない」という感想もあった。

中絶についてさまざまな意見が飛び交う中で、その当事者である女性に共感しづらい、というのはむしろマイナスなイメージを植え付けかねないのではないか、とも思うんですが、これは僕の勝手な印象なんだけど、フランス映画ってわりとこういう我を通す主人公を描くこと多くないですかね。観客の共感を呼ばない主人公をあえて描く、みたいな。

それはつまり従来の社会規範だとか「正しさ」で人を裁かない、ということでもありますが。

この映画ではキャメラが常にアンヌのそばにあって、彼女の顔や身体を至近距離から捉える。

大学の教室で向こうの席にいる女子生徒たち(アンヌの本に男女の結合状態の写真を挟み込む嫌がらせをする)が一瞬映ったりもするけれど、基本いつも手前にアンヌがいて画面の遠くの方はぼやけているし、極端な引きの画がないので世界がとても狭く感じる。だから少々息苦しい。主人公の半径3メートルぐらいの範囲だけで映画が進む。

アンヌはカフェを経営している両親の住む実家にしばしば帰るんだけど、顔をしかめて林道を歩くアンヌの姿が映し出されるだけで、大学と実家との距離感がよくわからないし、それは彼女がおなかの子どもの父親である男性に会いにいく時やそこから帰る時も同様で、客観的な視点が意図的に排除されている。

これはアンヌの視点で彼女とともに観客が「中絶」を疑似体験する映画で、そのためにこういう撮り方をしているんですね。

中絶する、というのがどういうことなのか、具体的な画で見せる。だから、「中絶の是非」を映画が結論づけることはなくて、これを観てどう思うか、何を考えるかは観客一人ひとりに委ねられている。

女性だって全員の意見が一致してるわけじゃなくて、女性が中絶を選ぶ権利を持つことに賛成の人々が大勢いる一方で、反対している人もいる。その理由もさまざま。

僕にはアンヌの選択が正しかったのかどうかはわからない。さっき述べたように、釈然としない思いは残りましたが、女性ではない僕は妊娠することはないから女性がその時感じる感情を我が事として実感することはできないし、中絶の恐怖や痛みも本当に経験することはない。

でも、この映画はそういう僕のような者でも「中絶」という行為に目を向けさせてくれるし、「これをどう思う?」と問いかけてもくる。

そして、これはある一人の女性が中絶するまでを描いた映画だけど、それだけではなくて自分自身の身体のことを自分自身で決定する権利についての映画でもあるから、非常に強いメッセージ性もある。

他の誰か、親や配偶者、社会が決めるのではなくて、自分が決めることの重要さを訴えてもいる。たとえそれが他者から見て「正しくない」と判断されても。

「自由」とか「権利」について映画の中で描かれ語られることの多いフランスっぽいな、と思いますが。

この中絶は認めるけど、この中絶は認めない、などと一つ一つ選別することなどできないし、どんな理由であろうが最終的には本人が決めるのだという、この大前提が守られなければ、女性にとって重大な権利が奪われてしまうことになる。

僕個人としては中絶をしなくて済むならしないに越したことはないけれど、本人がその必要性を感じているのなら、少なくともそれを今アメリカの各地で行なわれているように法律で取り締まるべきではないと思います。まわりの人たちが説得や意見・アドヴァイスするのは自由だけど、あくまでも決めるのは本人、ということ。そして、それを社会がバックアップしなければならない。自分で勝手にやれ、ではなく。

中絶を描いているのだから劇中でアンヌは下半身を無防備な状態で晒すことが多いし、直接的な描写はもちろんないものの、露出した下半身に熱した編み棒を突っ込んだり、闇の中絶手術でも謎の器具を挿入されて痛みで声を上げたりと、その様子は凄惨極まりない。

そこでまた疑問が湧いてくるんですよね。どうしてこんな激痛に耐えてまで中絶をしなければならないのか?と。

でも、日本だってもともと昔から中絶は多くて、明治以降、法律で違法とされても減ることはなかったそうで、つまり法で禁じたところで中絶したい人は闇でするんですよね。そして正規の医療ではないため、それで命を落とす人も多かった。そこまでしてもしたい人、する必要に迫られた人はする。

むしろ、医療技術が進んで事実上合法になった現在の方が中絶の件数は減っている。

それでもまだ不充分で、当事者の女性が負う肉体的・経済的なリスクは大きい。だからさらなる法律の改正が求められている。

セックスにまつわるあれこれは正しさや理屈で割り切れないものだからこそいろいろと不都合も起きるわけですが、この映画の中でもアンヌはセックスに憧れる友人ブリジット(ルイーズ・オリー=ディケロ)が気にかけていた消防士のガスパール(Cyril Metzger)を横取りするような形で妊娠中に彼と結ばれる。

ここでもアンヌがやってることが正しいかどうかは問われない。もうこのあたりは確信犯的に描いてますよね。

彼女はガスパールとしたいと思ったからしたのであって、中絶のことで相談したジャンに誘われても拒む。あくまでも主体は「私」。誰とするかも自分で決める。

優秀だったアンヌの成績が下がったことを心配して理由を尋ねる教授(ピオ・マルマイ)に、アンヌは「男と女のことです」と答える。

ブリジットはアンヌとエレーヌ(ルアナ・バイラミ)の仲良し二人の前でクッションを相手にセックスの真似事をしてみせて自分が「最強の耳年増の処女」であることを得意げに吹聴するが、実際にはそれを見ているあとの二人は経験済み、というのも性にまつわるあるある、っぽくて、あとになってみるとなんとも可笑しいというか、どこか虚しい。

エレーヌは元カレと付き合っていたわずかな期間に何度も繰り返し愛し合ったことをアンヌに告白して、自分が妊娠しなかったのはたまたま運がよかっただけ、と言う。

60年代当時は、まだまだ若い女性は恋愛や性行為に関して社会的に抑圧されていたんでしょうか。アンヌも同じ寮生からその行動を咎められる。

エレーヌ役のルアナ・バイラミは『**燃ゆる女の肖像**』で中絶する女性を演じてましたが、狙ったようなキャスティングですね。実はこの映画を観ようと思ったのは、彼女が出てたからなんですが。

思ってたよりも出番は少なかったのが残念だったし、いつか彼女が主人公を演じる映画を観てみたいですが、『燃ゆる女~』でもそうだったように主人公のそばにいてその言葉に耳を傾けている、おとなしそうで、でも本当は芯に熱いものや秘密を抱えてるような女性の役がとても似合う女優さんですね。

アンヌの母親を演じる『冬の旅』や『仕立て屋の恋』のサンドリーヌ・ボネールを久しぶりに見たけど、全身シワシワになっててちょっと驚いた。いや、こちらは人様の外見の変化をとやかく言えるようなみてくれではありませんが。まぁ、あれから何十年も経ってるもんなぁ。

アニエス・ヴァルダ監督の『冬の旅』でも、主人公はけっして同情的に描かれてはいなかった。サンドリーヌ・ボネール演じる少女は、ままならない世界で自分が選んだ生き方を貫いて、最後は無残に死んでいく。

あの映画をリヴァイヴァル上映で観た90年代、僕はあの作品が何を描こうとしていたのか理解できませんでしたが、今思えば、自らの意志で生き方を選び、その結果を涙ながらに引き受ける女性の姿を通して「人生ってこういうものだろう」ということを言っていたのかな、と。

このキャスティングも意識的だったのかな。

勉強に身が入らないアンヌをたしなめる母に、彼女は「自分は大学に行ってないくせに」と言い返してひっぱたかれる。日本でもそうだけど、昔は老若男女誰もがよく人をぶってたよね。

60年代に大学生だった人の親の世代、特に女性は、そりゃフランスだって大学行ってない人が大半だったでしょう。

アンヌは学業が優秀で先生にも期待されていたし、自らをモデルに小説でアンヌを描いたアニー・エルノーさんは教員として勤めたのち映画の中でもアンヌが希望していたように作家になった人だけど、『あのこと』ではアンヌや友人たちはあまり賢そうに見えない(笑) 哲学者の名前を出したり文法の活用を暗記したりはするものの、フェミニズムや政治的なことについては一切口にしないし、そういうものを意識している素振りすら見せない。

でも、エルノーさんご本人はのちに小説の中で女性の生き方について意識的に書いているようだし(Wikipedia情報)、政治的な主張も行なっているので、この映画では理屈とか思想信条を越えてあえて生身の肉体の方を強調したんだろうか。

言葉や頭でっかちな理屈ではなくて、実際に肉体を伴った「自由」や「権利」。

アンヌ役のアナマリア・ヴァルトロメイの出演作品を観るのは僕は今回が初めてですが、ほんとにもう体当たり演技でしたね。

下半身のヴォリュームのあるその裸体に、まさに生身の女性の存在感と同時に、とても脆くて傷つきやすい繊細さも感じたのでした。守らなければならないものがそこにあった。

彼女の身体はすべての女性たちのそれを象徴していた。

男を立てない、媚びない、“わきまえない女”だって、労わられるべきだということ。

女性が守られ労わられる社会になんの不都合があろう。

こういう無責任なこと言うとデリカシーがないと思われるだろうし、不快になられるかたもいらっしゃるかもしれませんが、アンヌが中絶のための荒療法の結果、痛みで七転八倒したのちについに寮のトイレで胎児を排出する場面で、居合わせた寮生に「私にはできない。お願い」と言ってハサミを渡しヘソの緒を切らせるクライマックスは、まるでブラックなコントみたいだった。

だって、いきなり便器に大股開きで股からヘソの緒垂らしてる人に「お願い」とか言われるシチュエーションって相当じゃないですか(;^_^A

ホラー映画かい。

超絶シリアスに演出されてるけど、悪いが僕にはコメディのように見えたのでした。

だけど、あそこでアンヌは下手をすれば命を失う危険だってあったのだし、映し出されはしないが便器の中にあったのは胎児の死体だ。

中絶というのはああいうことなのだし(もちろん、病院ではもっとはるかに安全な方法で処置されるのだが)、そのことをわかったうえで決断すべきだということ。

これは一種の教育映画だよね。

お客さんはいっぱい入ってましたが、ほんとにこれはみんなが観るべきだなぁ。女性も男性も。

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