声、語り、歌、ヴォイストレーニング1日1話 (original) (raw)

ブレスヴォイストレーニング研究所 https://www.bvt.co.jp/

額にしたたる汗、スポットライトに輝く顔、ステージというと、そういうイメージが浮かびます。

その汗は、決してライトの熱さ、会場の熱気からくるものではないはずです。

自らの魂の燃焼する熱が汗となり、輝くのです。

場面は変わって、とあるレッスン室。

直立不動、生真面目でこわばった表情、

ぎこちなく「アーアーアーアーアー」

どこかによくある発声練習です。

発声練習とステージとの間のギャップ、この二つの間に結びつきがありますか。

単調な練習が、明日の自分の力となっているとかたくなに信じている人、

本人はワラをもつかむ思いでやっているのかもしれません。

でも、そのとき、

「あなたの心は燃えていますか」

「その一所懸命さが、声の中に現われ出てきていますか」

自問してみてください。

熱気あるライブと発声

一見してつまらなそうなこと、やっている本人がつまらないこと、

そこから大勢の人が感じ入るようなものが生まれてくるはずがない、

それがあたりまえというものでしょう。

レッスンは、そこでステージと違った意味での感動、

密度の濃い張りつめた空間と時間、

本物の表現が表れていなくてはいけません。

トレーナーがいくらよくても、生徒の根気や努力、

それによって培われた実力がなくてはなりません。

本当のレッスンができるようになるまでが大変なことなのです。

※「アーアーアー」などのメニュ自体がよいとかよくないとかではありません。

要は使いようなのです。

どの世界でも、自分を伸ばそうと欲するのでしたら、

その世界のものの判断力、価値観を学ぶことです。

それには一流のものを見るに限ります。

どんなに多くの三流のものを見るよりも、

一流のものを、いくつかしっかりとくり返し見ることが大切です。

その方が深いし、そうでなくては、本当の意味で伸びません。

その後に、一流に至らないものに学ぶとわかりやすいともいえます。

「あなたの頭の中に、体の中に、心の中に、

どのくらいすばらしい人、すばらしい声、そしてすばらしい世界が入っていますか」

私がいつも聞いていることです。

「何も入っていないところからは、何も出てきません。

すばらしいものを出したければ、すばらしいものをたくさん入れましょう」

※感動したことのない人に、人を感動させることはできません。

ことばを大切に扱ったことのない人に、ことばで伝えることはできません。

魅力的に生きていない人に、人を魅了することはできません。

正確なのは,必要ですが、そのために口先の器用さが先に出て、

体から魅力的な声を出すことや

声に命をしっかり吹き込むことを怠っていませんか。

こういうことをしっかりとおさえておかないと、

声というあいまいなものを対象に、

トレーニングなどというのもできません。

そこには必ず、先を見据えた評価、チェックと、

その修正ということが入ります。

そのプロセスで基準を明らかにしていく必要があるのです。

そこで理想とするヴォーカルのトレーニングのプロセスを明らかにしてみました。

「誰々のように」と、具体的にヴォーカリスト名と声を出せないところが、ポピュラーの難しいところです。

自分にとってそれが何を意味するのかを考えてみてください。

自分にとって、そういう意味で当てはまるヴォーカリストとは、誰なのかを考えるとよいでしょう。

手本のないことが、私のトレーニングの誇りです。

それは各自が自分の内に求めなくてはいけないのです。

それを基に自分のイメージを構築していく作業が大切なのです。

自分なりに目指すヴォーカリストの定義があればこそ、何が必要かがはっきりとしてきます。

必要なことなら身につけるために何をすべきかがわかってきます。

古今東西、いろんなジャンルのヴォーカリスト、

いや、もっと範囲を広げて、声をプロとして使っている人から、大いに学ぶことです。

世界一のヴォーカリストになれといっているわけではありません。

私のトレーニングの理論やヴォーカル観を押しつけたいのでもありません。

トレーニングとして効果をあげ、それを歌に活かしていくために、

こう考えた方がわかりやすいし、こうイメージした方が効果を出やすいということです。

私たち日本人は、声がかすれたり、

ことばが少しうまく言えなかったりすると気になるのです。

一つの点の完成度を気にかけます。

そのため、ことば、メロディのチェックに躍起になるのです。

歌が点の連続という捉え方なのです。

邦楽では、点よりは声の伸ばし方になるようですが、一音でなく一声です。

一つの息の流れでもっていく音声言語では、

「コ、コ、ロ」でなく「ソウル」「ハート」です。

三つの点でなく、一つの線です。

ことばの連続が歌なのですから、この捉え方は大きな違いとなってきます。

声の深い人の話すのは外国語らしく聞こえます。

息と共鳴のなかにことばが出てきます。

このへんも、単にきれいで美しい声を好む日本人と異なります。

日本人の歌は、どうしてもことばや発音が聞こえてしまうわけです。

聞いていて英語がうまいと思わせるようでは、それは音程、リズムが正しいと思わせるのと同じく、他に取り柄がなく、あまり誉められたことではないのです。

そんなことが誉めことばとなっていることも、

困ったことだと思っています。

※すぐれたヴォーカリストというのは、

こういう個別の要素を問題として気づかせもちあげてこない魅力があります。

表現は、強い線が通って、人の心を動かしていたら、個々の点などかすんでしまうはずです。その線の描き出す自由自在な世界が歌というものなのではないでしょうか。

本当は、日本語の文字と音も、

このような簡単な対応だけではありません。

アクセントをはじめ、様々な法則があるのですが、

外国語の複雑な発音 音声体系に比べると簡単だということです。

となると、ことばを発することがそのまま

彼らのような歌のレベルになることなど、

日本語に期待する方が無理なのかもしれません。

一音に一つの文字を当てていくような感じが、

歌の中で音符に対置してしまうのです。

音高も発音も、まさにそうでしょう。

歌うときに、フレージングを息の流れで大きく捉えることができず、

歌の表現やパワー、のり、しぜんな感情表現を欠く

大きな要因になっているようにも思うのです。

深いブレスとフレージング

外国人のヴォーカリストの歌をよく聞いてください。

彼らの歌には息つぎのときに深いブレス、

つまり息つぎの音がストレートに聞こえます。

日本人の歌は、きれいに流れて、ブレスなどほとんど入っていません。

すべてがそうではありませんが、

こんなことも外国人か日本人かの判断の基準になってしまうでしょう。

外国語らしく、あるいは歌らしく聞こえる要素の一つに、

息の流れ、息の線が見えるということを私は感じています。

外国人の吐き出す息の強さは相当なものです。

その前提として、しっかりした太い声、

ハスキーな声を魅力的に感じる外国人との感覚の違いがあるのかもしれません。

極端に言うと、歌はブレスであり、フレージングです。

歌のことばや発音よりも、歌その描き出す線、

そのフレージングに気持ちのよさを感じ、その歌を心地よく思います。

息の線

声がかすれようと、ことばがあいまいになろうと、

そこに歌を引っ張っていく息の線がつながっていたら、

その歌は生きている、命をもって働きかけてくると感じます。

たとえば、外国人のハスキーなヴォーカリストの声の魅力、

それは、喉声だからではありません。

日本では、世界で受け入れられたからと慣らされ、

理解されてきた本物のヴォーカリスト、その魅力がそこにあると思っています。

日本人というのは、そういう面では島国根性で、

日本からそういうヴォーカリストが出ても評価もしないのに、

世界でヒットを飛ばしたヴォーカリストに関しては、

頭から理解しようと受け入れ体制を整えるのです。

まだまだ音声文化に関しては発展途上国、

声に関しては後進国であることは否めません。