『日本通史』あとがきより (original) (raw)

〈これで本の趣旨が分かると思います。昨日の画像は書店用のチラシのオモテでしたが、そのウラに「あとがき」の概要を入れています。〉

しかし考えてみれば、荻生徂徠や本居宣長以来積み重ねられてきたこの国の政治的思索の数々は、「主権の存する日本国民」の存在を前提に、如何にすれば主権者と呼ぶに相応しい、絶対性を帯びた存在を生み出すことができるか、そのための模索の積み重ねであった。そしてその積み重ねの結果が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝国憲法第一条)であった。その全ての模索を無化することなしに、その喪失はなかった。

そこで戦後日本は、劇的にその歴史観を変える必要に迫られた。

まずは、天皇という主権者を生み出すために積み重ねられてきた思索の数々(天皇制論)を、悉く封建的・非科学的歴史観として葬り去った。そして全てが天皇制批判に流れ込んでいった。それに大きな貢献をしたのが、丸山眞男であり講座派マルクス主義であった。丸山眞男による、天皇主権の構造が無責任の体系に過ぎなかったことの暴露(「超国家主義の論理と心理」)は、衝撃を以て受け止められ、この国の歴史観を一新した。近代日本を、この国の長い歴史の帰結として肯定的に捉えようとする試みも消滅した。

さらには「小国」としての生き方を肯じる歴史観が求められた。故に、日本の帝国主義的膨張を支えてきた大日本主義の片隅にあって、常にそれに異を唱え続けてきた小日本主義が、にわかに脚光を浴びることとなった。そして津田史学がたちまち日本歴史学界の中心に躍り出たのである。

…………

そして一九八〇年代になると、再びこの国に、天皇制の存在を歴史の必然と捉える考え方が蘇った。主権者なき「小国」の超克に向けての知的営みは実は始まっていたのである。

「網野史学」の誕生であった。網野が言ったことは二つ。一つは、人の本質をその無縁性にあるということ、すなわち人は砂のような存在であるということ。そしてもう一つは、にもかかわらず人には本来的な共同性が備わっており、それこそが天皇支配の根底をなしているということ、であった。主権者天皇の存在をこの社会の必然と捉えたのである(『無縁・公界・楽』)。当然歴史学界は激しく反発した。そして社会史家としての一面を残して、網野の影響を抹殺した。

しかしこの一旦網野が灯した火が消えることはないと、私は思う。それは自己決定能力なき国として今後とも生きていくことに、多くの国民が不安を抱き始めているからである。トランプ現象や、ロシアのウクライナ侵攻といった、非常に歪な形でではあるが、世界中が再び国家主権を強化する方向に動いていることは、誰しもが感じている。その感じていることへの明瞭な解を人々は求めているからである。

ただ我々が忘れてはならないのは、かつて自己決定能力を持った「大国」であった日本は、その決定=国策を誤り、世界と日本を不幸のどん底に突き落とした経験があるということである。その一九四五年八月の失敗は繰り返してはならない。ではこの国は、これからどのようにして主権者を持つ自己決定能力のある国になっていくのか。共和制の選択も含めた幅の広い検討が必要である。少なくとも大日本帝国憲法体制にそのまま戻ることはできない。主権問題をおざなりにした、憲法を変えることだけを目的にした流行の改憲論ではない、憲法論争が求められる。