神谷氏の調査長期化の原因は私とは関係がない(はず) (original) (raw)

神谷貴行(紙屋高雪)氏が10日にブログを更新した(昨日まで気づかなかったので対応が遅れた)。タイトルは「私の調査はなぜ1年半もかかったのか」

神谷氏は規約違反の嫌疑をかけられてから1年半(公式の調査が開始されてから1年3か月)もの間、福岡県党の幹部から調査を受けることになるのだが、なぜそんな常識外れの時間がかかったのかを論じている。まあ、時間の長さとともに、除籍・解雇という結論が異常なのであるが、それはすでに神谷氏が書かれているので、今回は長さである。

神谷氏によると、福岡県党が党内でふりまいているのが、「神谷の病気に配慮して調査が長引いた」というものである。これがまったく通用しないことは、神谷氏がブログ記事で論理的に証明しており、福岡県党は何の言い訳もできないだろう。

もう1つが、「松竹問題との関わりがあるから」というものだそうだ。これも、結論として福岡県党が公表した除籍の理由に挙げられていないのだから、神谷氏の「無実」は証明されたということだ。

しかし、こうして福岡県党が挙げた理由が説得力がないことは分かるが、ではなぜこれほど長期化したのか。それはなかなか見えてこない。なぜなんだろう。外から眺めていて私が抱いた感想を記す。

私と鈴木元氏が本の出版時期を調整しただけで「分派」になるのだから、共産党にとって「分派」の嫌疑をかけて処分するのは簡単なことだ。得意技と言ったらいいのか、お茶の子さいさいという感じだろう。

ましてや私と神谷氏の間のことである。このブログでも書いてきたように、2003年に安全保障にかかわる問題で共感し合い、私が出版社に勤めてからは著者と編集者として深く付き合い(党に批判された雑誌「ロスジェネ」まで刊行し)、福岡市長選挙に出馬した時には「自衛隊を活かす会」の事務局長の肩書きで応援に出かけたのだ。

だから、共産党がその気になったら、「2003年以来、20年以上にわたって党綱領の安全保障観に異論を抱き、党破壊をねらって分派の関係を構築した」と描き出せたはずである。本物の分派なら、「誰々とはこんなに親しい」なんてことを隠すものだが、私は堂々と書いているので、証拠はありまくりなのだ。

実際のところ、福岡県党が「調査」を開始したということは、党規約の上では間違いなく処分を想定したものであったはずだ。志位和夫氏は私の『シン・日本共産党宣言』に激怒して除名へと突きすすんでいったのだが、神谷氏はその私の本をブログで好意的に評価し、県党会議で除名に異論を述べ、規約に従ってとはいえ、その経緯を公表したのである。志位氏の逆鱗の対象になったのだ。

しかも、福岡県党の内田裕委員長は、東京大学の時代から党委員長だった志位氏の配下にあった。今回の問題が起きて以降も、2人の間にはホットラインが存在しているので、綿密に打合せをして神谷氏の処分に動いていた。

けれども、県役員である神谷氏を処分するには、県委員会3分2の賛成が必要であり、あまりに道理のない処分だから自信がない。そこで、役員から降ろしたあとなら処分は簡単だと判断し、今年1月の党大会後まで引きのばすことにした。

ところがその党大会で、私の除名に神奈川の大山氏が異論を述べたことに対し、党中央総出のハラスメントが加えられ、全党的な動揺が生まれた。SNSで異議を唱える党員は、党中央が綿密に調査して摘発し、「党員としての資格が問われる」と恫喝が加えられる。これほど異論が表面化し、全国化するのは党史上で初めてのことだ。

党中央に動揺が生まれる。それまでは「処分は地方党機関が行うこと」という建前はありつつ、実際には党中央主導でやってきたが、このままでは今後起こる事態のすべてが党中央の責任だということになる。

そこで党中央は逃げを打つことにした。処分で突っ走ってきた地方党機関に対して、「処分は地方党機関が行うのが規約の定めだ」として、党中央は判断しないことにしたのだ。はしごを外すというやり方だ。

神奈川の場合、大山氏に対するハラスメントは誰が見ても党中央が主導したもので、県党はそれに従っただけだ。だから、大山氏を処分しないという判断は、なんとか下すことが可能だった。

しかし、福岡の場合は事情が異なる。いまさら「県党の判断でやって良い」と言われても、内田委員長は神谷氏を血祭りに上げるため、1年以上にわたって福岡県党の幹部を総動員してきたのだ。神谷氏を見逃してしまえば、それは自分の責任問題に直結し、自分の地位にも影響してくる。

すべてホットラインでの志位氏の指示だと明らかにすれば、生き残る道はあったかもしれない。けれども、処分が県党の責任に属することは規約で明記されていることでもあるし、半世紀にわたって上司であり続けている志位氏に責任を転嫁することもできない。

こうして迷走した上の苦渋の末の決断が、除籍・解雇であった。だからこそ1年半という異常な時間が経過したのである。

というのが、各種の情報からの私の推論である。そんなに違ってないと思うけどね。