飯田木工所の赤木さん--8 (original) (raw)

男はすぐに両手をポケットに突っ込んでトイレから出てきた。やや内股で靴を引きずるように歩いて工場の鉄扉のなかに消えたが、手を洗った様子がなかった。そのトイレも、とっくにアンモニアで劣化したようなブロック造りで、汲み取りのようだった。

屋根を見上げると--(有)飯田木工所--と書かれてあった。木工など中学生時代の技術家庭科で習っただけだ。電子部品関係なら多少の経験はあるが、木工などはまったく未経験だった。それに工場の雰囲気から察する限り、どうもあまり気が進まなかった。あっさり断られるかも知れないが、いきなり採用と言われても、あまり働ける雰囲気になかったら逆に困るかも知れない。こういう場面ではいささか気の小さい幸平は、決めかねないまままた周囲を走ったりしつつ逡巡するのだった。グルグル何度も周囲を回ってまた正面に戻ってを繰り返した。

とそこへ、いきなり男の声が飛んできた。

「おいあんた、うちになんか用かい」

ドスの効いた声と共に別棟からでっぷりと太った親父が出てきた。いきなりでビックリした幸平は条件反射のように答えた。そこの貼り紙を…。

ああそうかい、と言った親父はここの何者なのか。指をさしてあそこで待てと言われた先は二階の廊下の端っこで、手製のような粗末な小屋があった。休憩所になっているようだった。

こうなったらしょうがない。言われるままに錆びた鉄階段を上がって小屋に入ると、板も反った汚れた小さなテーブルの上に給食屋が運んだと思われる弁当と湯飲みやヤカンなどが置かれてあった。一応コンロもあるようだった。逡巡している間に時間が経ってもう昼になっていた。

適当な椅子に座って言われるままに待っていると正午のベルが鳴った。ゴツンゴツンと階段を上ってくる音が聞こえて、男がふたり無言で入ってきた。さっきのトイレ男は居なかった。

幸平が立ってチョコンと挨拶をしたが男たちはチロッと見ただけで反応しなかった。ヤカンをコンロにかけて弁当を開けたりし始めたがその時も無言だった。ひとりはどこにでもいるような老眼鏡をかけた平凡な禿げ頭だったが、もうひとりは眼鏡をかけない大島渚のような怖い顔つきをしていた。

幸平はただ隅っこですることもなく黙って見るでもなく様子を見ていた。ふたりはいきなり見かけない男が居るのに何の関心を示さない。そんなことがあるだろうか。もし雇ってもらえてもこんな無愛想な人たちと一緒に働くのか--逡巡は増すのだった。

もぐもぐと食べるふたりのよこで身の置き所もなくじっとしていると、大島渚似がやっと声をかけてきた。黙ったままじゃ彼だって気まずい。

「あんた、ここで雇ってもらうのかね」

「いやそれはまだ…」

と答えると、お茶はと勧めるので結構ですと断って、先ほどのトイレの男を思い浮かべながら

「他の人は弁当を食べないのですか」

と問うと

「ああ、あいつは近所だからな」

食べに帰っているらしい。もう長いのですかと続けて訊くと

「ここは五年くらいかな、仕事はずっとこれだがね」

という。どうやら木工所を渡り歩いているようだった。大島渚似は、話してみると顔つきとは違ってそんなに怖い男でもなさそうだった。

老眼鏡の方が、仕事はいつからと訊くので、面接もこれからでしてと言うと、貼り紙でも見たのかと問うから黙って頷くと、あんなの見てんだなと感心するように言った。

ふたりは煙草は吸わないようだった。弁当を食べ終わって他にすることもなく、お茶をすすりながら世間話をしていた。どこそこで夫婦喧嘩があってパトカーが来たとか、近所の別の木工所が潰れたとか、そんな類の話を幸平は黙って聞いていた。近所ごとなど噂もあまり耳に入ってこない幸平にはちょっとばかり異質で滑稽に感じた。

適当な時間が経って、じゃあと言ってふたりが出て行って、後は何をするでもなくひとりでぼんやりしていた。多分昼休みが済んでから、多分社長と思しき先程のでっぷり男が来るのだろうと思って。

続きます。