アメジローの岩波新書の書評(集成) (original) (raw)

原理的にいって、希望はまず絶望ないしは失望や虚無の状況がないと生まれない。人は、ある日ある時、突然おもむろに漠然と希望を抱くのではなくて、平穏な日常から不条理に突如、絶望に叩き込まれたり失望や虚無を激しく感じた後に改めて希望を自身や状況の中に見出すのである。この原理からして近年の東日本大震災(2011年)にて近しい者の死や失われた平穏な日常や避難生活を余儀なくされる苦痛などの絶望状況に対応して、「希望」に関する啓蒙や考察の書籍は特に震災後に数多く量産されたように思う。

岩波新書の赤、玄田有史「希望のつくり方」(2010年)も、その種の東日本大震災の発生を受けて以後の、人々に希望を説く考察の書籍かと思いきや、これが震災前の2010年の発行であるので私は本書に関し、まずは意外な思いがした。もともと著者において「なぜ希望について考えるのか!?」「なぜ『希望のつくり方』の新書執筆なのか」。それは以下に引用するような、社会科学の学問の一つとして「希望学」というものに前より取り組んできた著者の活動の背景があるかららしい。

「そもそも希望とは何なのでしょうか。希望という言葉を見聞きすることはあっても、希望とは何かをおしえてくれる人はいません。経済の停滞や累積する財政赤字などの重苦しい現実を前に、日本にはもう『希望がない』といわれたりします。社会に生きる多くの人が、希望はないと感じるようになった理由は、何なのでしょうか。希望が前提でなくなった時代、私たちは何を糧(かて)に未来へ進んでいけばよいのでしょうか。そんな希望にまつわる疑問を明らかにしようと、東京大学社会科学研究所(略称・東大社研)を拠点に二00五年度から、仲間たちと『希望学』という研究を続けてきました。希望学の正式名称は『希望の社会科学』です。希望学は、希望を単なる個人の心の持ちようとして考えるのではなく、個人を取り巻く社会のありようと希望の関係に注目してきました。希望学のこれまでの研究成果は、二00九年に『希望学』(全四巻、東大社研・玄田有史・宇野重規・中村尚史編、東京大学出版会)として刊行されています」(「はじめに」)

東日本大震災とか特にこれといった希望が打ち砕かれる絶望があるわけではないが、本書は現代日本の「経済の停滞や累積する財政赤字などの重苦しい現実」を受けて「そもそも希望とは何なのか」の問題提起をなし、社会科学としての「希望学」の研究を進めてきた著者のこれまでの希望学の概要を新書の一冊にまとめたものだ。さらに著者は本論で「希望」について様々に述べた後、最後の「おわりに・希望をつくる八つのヒント」にて「希望学で学んだ、どうすれば希望を自分でつくれるのか」を本論での該当記述のページを明示しながら箇条書きにして8つ挙げている。その「希望をつくる八つのヒント」の八項目も、ここに書き出してみると、

「1・希望は『気持ち』『何か』『実現』『行動』の四本の柱から成り立っている。希望がみつからないとき、四本の柱のうち、どれが欠けているのかを探す(三九頁)、2・いつも会うわけではないけれど、ゆるやかな信頼でつながった仲間(ウィークタイズ)が、自分の知らなかったヒントをもたらす(八六頁)、3・失望した後に、つらかった経験を踏まえて、次の新しい希望へと、柔軟に修正させていく(一0七頁)、4・過去の挫折の意味を自分の言葉で語れる人ほど、未来の希望を語ることができる(一一二頁)、5・無駄に対して否定的になりすぎると、希望との思いがけない出会いもなくなっていく(一二八頁)、6・わからないもの、どっちつかずのものを、理解不能として安易に切り捨てたりしない(一五三頁)、7・大きな壁にぶつかったら、壁の前でちゃんとウロウロする(二00頁)、8・( )この八番目の空欄には、ご自身の経験をふりかえりながら、希望をつくるヒントを、自分でみつけて、書き入れてみてください」(「おわりに・希望をつくる八つのヒント」)

この「希望のつくり方」ヒント一覧にて、例えば2は「孤立して独りで取り組まず、ゆるやかに人とつながって仲間と連帯する大切さ」の旨であり、また例えば6は「自分が理解できないものを安易に切り捨てて全否定したり早急に判断を下すことをしない精神的余裕の重要性」の旨である。こうした2や6のヒントは、確かに「希望のつくり方」に当てはまるヒントになるのかもしれないが、あまりにも無難で常識的すぎるアドバイス内容で、これら八つの項目は全てほとんど参考にならない。この2も6も一見「希望のつくり方」のヒントに読めるが、同時に他の何にでも簡単に適用できてしまう。ここでは別に何でもよいけれど、例えば「ストレスなく普段から自己の精神を健康に保つ方法」とか「会社で業績を上げて出世する方法」のヒントにも、2の仲間とのゆるやかな連帯の大切さや6の安易に早急に判断結論を下さない精神的余裕の重要性のアドバイスのヒントは、同様に幅広く当てはまってしまうものであるのだ。

こうした結語での「希望学から学んだ希望をつくる八つのヒント」のまとめ記述における常識的な無難さの、ほとんどダマしに近い詐欺的記述に象徴されるように、「希望のつくり方」について本書を読んだところで毒にはならないが薬にもならない。本書を読んで大した害はないが、また大した益もないのである。岩波新書「希望のつくり方」は読んでいて正直一貫して辛く、本書を通して少なくとも私には「希望」の光は全く見えてこなかった(苦笑)。

加えて「希望」などの一聴一見して聞こえも見ばえもよい誰もが正価値を置いて容易に反論することができない「正当な」言説が現実問題への追及を停止させ、現状の問題欠陥から来る困苦からの救いをその現実的原因の除去に求める代わりに、運命的諦観(ていかん・「あきらめ」の意味)を結果的に導いたり、苦痛感の麻痺(まひ)のために機能したりすることを私達は知っている。「希望を抱くこと」を批判し否定して攻撃する人など、ほとんどいない。「希望をつくる」と述べただけで、それが中身を突き詰められていない漠然としたものであるがゆえに「希望をつくる」という言辞のみで何となく賛同し満足し完結してしまい結果、「希望をつくる」の言説が自身のことや現状への深い分析理解に何らつながらず、むしろ逆になし崩しの現状肯定として機能してしまう。何しろ「希望のつくり方」と聞いて「希望をつくること」それ自体を否定する人は滅多にいない。そのため多くの人がはまりやすい策術である。

この種のイデオロギー的策術の問題は、昨今の雇用問題において特に顕著で深刻だ。例えば「なぜ働くのか」の働くことの意義に関し、金銭(賃金)を得ることや自分の生活安定のため以外の、やりがいの達成感や仕事を通しての自己の成長や社会への貢献といった優等生的模範回答の正論に対し、公然と反論否定できる人はほとんどいない。だが「やりがいの達成感」や「自己成長」や「利他の実践」や「社会貢献」など、「希望」と同様、一聴一見して聞こえも見ばえもよい、誰もが正価値を置いて容易に否定し反論することができない労働に関する「正当な」言葉だけが、主に資本や雇用主から頻繁に発せられることにより、人々の現実問題への追及を停止させて、不合理で非人道的な雇用関係や違法で過酷で劣悪な職場労働環境の問題を隠蔽(いんぺい)し合理化して、ついには不問にしてしまうことはよくある。

岩波新書の赤、玄田有史「希望のつくり方」は、そういった聞こえも見ばえもよい誰もが正価値を置いて容易に否定したり反論することができない「正当な」言説が現実問題への追及を停止させ結果的に、なし崩しの現状肯定や現実問題解決への回避として機能する、「希望」という語のイデオロギー的策術の危うい使われ方に言及していない。しかも本新書の奥付(おくづけ)を見ると著者・玄田有史の専攻は労働経済学とある。「希望」や「自己成長」や「利他の実践」や「社会貢献」らの「正当」言説のイデオロギー的策術の問題すらも指摘しないような自称「労働経済学を専攻」の社会科学者が説く「希望学」など信用できない。

先に指摘した、本新書結語での「希望学から学んだ希望をつくる八つのヒント」のまとめ記述における、特に「希望のつくり方」のヒントではなくても、同時に他の何にでも簡単に適用できてしまう極めていい加減な常識的無難さの、ほとんどダマしに近い詐欺的記述に加えて、こういった「希望」という「正当」言説のイデオロギー的策術の問題に全く触れていない点も、本書を読んで私は大いに不満である。

「希望は与えられるものではない、自分たちの手で見つけるものだ。でも、どうやって?著者が出会った、さまざまな声のなかに、国の、地域の、会社の、そして個人の閉塞した現状をのり越えて、希望をつくり出すヒントをさがしていく。『希望学』の成果を活かし、未来へと生きるすべての人たちに放つ、しなやかなメッセージ」(表紙カバー裏解説)

今回から新しく始める「アメジローの岩波新書の書評」。本ブログ「岩波新書の書評」は全7カテゴリーよりなります。「政治・法律」「経済・社会」「哲学・思想・心理」「世界史・日本史」「文学・芸術」「記録・随筆」「理・医・科学」です。

お探しの記事やお目当ての新書・著者は、本ブログ内の検索にて入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

最後に。大江健三郎による1960年代の最初の全エッセイ集「厳粛な綱渡り」(1965年)初版の単行本は二段組で全500ページほど。大江の1960年代の思想と文学と行動と生活がこの一冊にびっしり細かに丁寧に書き込まれている。評論・書評・ルポルタージュ、講演・インタビュー、広告文・コラム、日記・雑記…内容は多彩である。「何でもあり」なバラエティブックの様相である。書籍自体も辞書のようで非常に厚くて重い。私は本書を日々携帯し繰り返しよく読んでいたのだが、本書の書き出しは「この本全体のための最初のノート」であった。全六部を経ての巻末は、もちろん「この本全体のための最後のノート」である。大江健三郎「厳粛な綱渡り」全エッセイ集は私にとって昔から非常に感じのよい、もはや手離すことの出来ない極上書籍で愛読の内の一冊だ。

大江「厳粛な綱渡り」の「この本全体のための最初のノート」の中で「どのようなエッセイが良質なそれか」という問いに、大江健三郎は次のように答えている。「権威の声でかたっていない赤裸のエッセイであるにもかかわらず、あきらかに人間的な威厳の感じられる文章である」と。「そしてそのような文章にいたることがもっとも困難な技術だ」ともしている。当ブログの書評文において私は、「権威の声でかたっていない赤裸のエッセイであるにもかかわらず、あきらかに人間的な威厳の感じられる文章」が書けるよう日々、自分を律し修練を重ねていきたいと切に思う。大江健三郎には全くもって及ばないが、私も「このブログ全体のための最後のノート」記事をいつの日か書くだろうか。

岩波新書に愛を込めて。(2021・4・1記)

私は若い頃から「図書新聞」をよく購読し、昔から書評やブックレビューの読みものを楽しんで読んでいた。私は自分で書評ブログを始める際、これまで他人の書評を日常的に読み、かつ研究した結果、自身に課したことがいくつかあった。

(1)自分の身辺雑記や個人情報は書き込まず、最初から書籍の話題にすぐに入り、できるだけ書籍のことについてだけ書く。(2)後々まで読まれることを想定して、時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにする。(3)書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく、「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような、横着な読者に便宜を供する都合のよい「書評もどき」の記事は書かない。(4)書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよい。点数をつけて採点したり、毎回、必ず評価を確定させなくてもよい。ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」掘り下げて説明するようにする。

(1)に関しては、最近はインターネット環境の普及で皆が「書評ブログ」をよく書くようになった。書き出しから書評本と自身の出会いのエピソード紹介(「本当はその分野の本には全く興味がなかったのに学生時代、恩師に薦められてつい」)とか、その書物をどういう状況で読んだか(「帰宅途中の電車で読んでいたら面白すぎて没頭してしまい、降りる駅をやり過ごして終点駅まで行ってしまった」)だとかの身辺雑記や個人情報を「枕の文章」として最初に熱心に長々と語る人がいるけれど、そうして「自分語り」だけ熱くやって書物のことにあまり触れないで、そのまま終わる「自分大好き」な困った人が時にいるけれども(笑)、そういうのは必要のない余計な情報だ。

普遍的な人生の真理として、「私が自分の生活や人生に関心があり大切に思っているほどには、実は他人は私の生活や人生に関心や興味はない。皆が自分のことだけ大事で案外、他人のことには無関心でどうでもよいと思っている」。だから、世間の皆がその人の私的なことまで知りたいと思っている芸能人や著名人ら余程の人気者とか有名人でない限り、一般の人は自身の身辺雑記や個人情報は語らずに最初から「即(すぐ)」でスムーズに書籍の内容記述に入って、書評の内容だけで終わらせるのがよい。

(2)については、例えば1990年代当時に「オウム真理教」の話題が世間を騒がせ人々の耳目を集めたが、時事論やニュース解説の文章でない場合に、あえて例えの説明に「オウム事件」云々を書き入れてしまうと、当時は時宜を得て(タイムリーで)新鮮でよいけれど、後に時間が経って2020年代に読むと、その書籍にはいかにも古く色褪(あ)せた「今さらな感じ」が、そこはかとなく漂う。だから、自分の文章が後々まで長く読まれることを望むなら、書き手は執筆の際には時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにした方がよい。

(3)の、書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく「書評」は今日、ネット上で確かに人気がある。おそらく、そうした方が確実にアクセス数も増えるに違いない。しかし、それは「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような(昨今は、こうしたことを期待する怠け者の横柄な人が本当に多い)横着な読者に便宜を供する都合のよい記事で、読み手を甘やかす堕落の「書評もどき」なので私は感心しない。

(4)のように、書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよいけれど、ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」を掘り下げて説明するようにしたほうがよい。ただ単に「これは絶対に読むべき名著だ」と激賞したり、逆に「この本は読むだけ時間の無駄」と酷評して採点するだけの、そのまま言いたい放題の放り投げで終わる短文書評を特に「アマゾン(Amazon)」のブックレビューでよく見かけるが、毎度読んで「あれは良くない」の悪印象が私には残る。

原子力発電所を日々稼働させ、かつ国内での新規原発の増設を今後も進めるべきとする原発推進派と、廃炉を進め原発を廃止し続けて将来的には発電の原発依存から完全脱却すべきとする脱原発派との間で昔からある議論に、経済的合理性の観点からの、いわゆる「原発のコスト」というものがある。

「原発のコスト」議論とは、基本単位の発電量に要する金額と、その他、原子力発電所の建設・解体などにかかる総費用とを計算し、それらを合算して1kWH(キロワット時)あたりに換算した発電コストをまず算出する。その上でさらに原子力発電以外の、従来の主要発電方式である火力・水力発電と、さらには次世代の新しい発電方式とされる太陽光・風力発電に関しても、それら単位ごとの発電量の金額と、その他、発電所の建設・解体らに要する費用を計算して同様に1kWHあたり換算の発電コストを割り出し、原子力発電に要する「原発のコスト」と原発以外の諸発電でのコストを比較検討するのである。それらコスト試算の算出数字にて、数値が少ないほど経済的に優れて経済合理性にかなった発電方式ということになり、1kWHあたりに換算の発電コストが安価な発電方式が他の割高なそれよりも優遇され、社会を支える基本の発電方式(ベースロード電源)として電力供給の主軸と見なされるわけである。

ただ今日、発電方式の妥当性は(1)供給安定性、(2)経済合理性、(3)環境負荷度、(4)安全性の4つの観点から総合的に判断されるべきものであり、これら4つの指標の内の1つでしかない経済合理性が優れている(つまりは低コストで発電できる)からといって、そのままその発電方法が一気に拡大され振興されるわけではないのだが。

いわゆる「原発のコスト」は発電原価と社会的費用によりなる。「発電原価」とは発電施設の建設と運用に直接に関わるコストのことで、具体的には施設の建設費、燃料費、運転維持費、また使用済み核燃料を加工して再度燃料として利用する核燃料サイクル費や、規制基準適合のための安全対策費、廃炉措置をとった場合にかかるコストなどを含む。「社会的費用」とは社会全体あるいは第三者が被(こうむ)る損失に伴い負担させられる費用(外部不経済)のことで、賠償費用の事故リスク対応費と原発建設地への地域対策交付金など、原発の運用に間接的に関わるコストのことである。

こうした「原発のコスト」概要を踏まえて、各方式の1kWHあたりに換算した実際の発電コスト試算の一例を以下に挙げてみる。

1・経済産業省による試算(2010年)、原子力5─6円、火力7─8円、水力8─13円、太陽光49円
2・内閣府による試算(2011年)、原子力8.9円、火力(石炭)9.5円、太陽光33.4─38.3円、風力(陸上)9.9─17.3円
3・立命館大学・国際関係学部教授(環境経済学専攻)大島堅一による試算(2010年)、原子力10.68円、火力9.90円、水力(一般水力)3.98円
4・米国エネルギー省による試算(2010年、1ドル=90円で換算)、原子力10.3円、火力(石炭)8.5円、水力7.8円、太陽光19.0円

それぞれが各発電方式の1kWHあたり換算の実際の発電コスト試算を同じようにやっても数字にばらつきがあるのは、発電方式のモデル想定や諸費用数値の見積もりの相違によるものと考えられるが、それら発電コスト試算にて着目すべきは原子力発電が従来主力の火力・水力発電と比較して割高か割安かという点であろう。

「原発のコスト」議論を連続し追跡して見ていると、昔から一貫して国(歴代の自民党保守政府、経済産業省)と電力会社による試算、ないしはそれら国・電力会社の傘下にある組織が割り出した試算では、原子力の発電コストは火力・水力のそれよりも必ず安価で、原子力発電は経済合理性に非常に優れているのである。他方、国と電力会社から独立してある、大学教授や民間のシンクタンク、海外の政府筋の試算では原子力の発電コストは、ほとんどの場合が火力・水力のそれよりもコスト高か、せいぜいよくても火力・水力発電と同等の数字となっている。海外では原子力の発電コストが火力・水力のそれよりも安価である試算は、ほぼ皆無である。上記の試算例で1の「経済産業省による試算」と2の「内閣府による試算」にて、いずれも国による試算でのみ他の発電方式に比べ原子力の発電コストの優位性が示されていることを確認されたい。これには「原子力エネルギー政策」を国策として堅持している歴代自民党の日本政府と原子力発電の事業主である電力会社に原発推進の意向の姿勢がもともと強固にあって、原子力発電振興のために「原子力は発電量当たりの単価が安く、優れた経済性を持つ」の試算結果に故意に誘導されているからだと考えられる。

このように国と電力会社が試算する場合にだけ、「他の発電方式と比較の発電単価にて採算性が高く低コストである」原子力発電であるわけである。国と電力会社による1kWHあたりに換算した「原発のコスト」算出に対し、例えば次のような問題点が従前指摘されてきた。

☆「原発のコスト」の内の「社会的費用」、つまりは賠償費用の事故リスク対応費と、電源三法ら原発建設地への地域対策交付金の原発の運用に間接的に関わるコストが加算されていない。もしくは加算されるとしても極めて低い数字で見積もられている。

(歴代自民党保守政府と経済産業省、各地域の電力会社ともに福島原発の事故発生以前には、「原発施設にて重大な過酷事故は万が一でも起こり得ない」の公式見解の立場が強くあって、そのため原子力発電に伴う事故リスク対応の賠償費用の想定は皆無か、あっても過小の最低限見積もりで済まされてきた。また電源三法ら原発建設地への地域対策交付金についても、原発立地の特定地域に集中的に偏って(時にはバラマキのような露骨なかたちで)多額の補助金投下していることに後ろめたさがあるためか、政府も経済産業省も電源三法ら原発建設地への地域対策交付金の実態には極力触れたがらない、の事情がある)

☆試算モデルの原子力発電所を年間稼働率60─80パーセント、40年─60年という長期間の稼働想定で算出している。原発一基あたりの年間稼働率と稼働年の数値を高設定にすれば分母が増えるのでコスト効率は高くなり、1kWHあたりに換算した原発の発電コストは机上の数値では、なるほど安価になる。

(現実に日本国内で年間稼働60パーセント以上の原子力発電所はそうはない。稼働停止しての設備の定期検査や、原子力規制委員会による新規制基準をクリアするための安全追加対策、立地自治体からの稼働不認可などで実際の原発の年間稼働率はかなり下がる。また老朽化による安全性の点から原発の40年以上の長期稼働は懸念されている。60パーセント以上の年間稼働率、40年以上の長期間の稼働想定で一律に「原発のコスト」試算をすること自体に問題がある)

これら問題指摘を踏まえ、またこれまでの「原発のコスト」議論を概観すると、総じて「原子力は、火力や水力の従来主力の発電方式との比較において採算性が悪くコスト高である」といえそうだ。

岩波新書の赤、大島堅一「原発のコスト」(2011年)は、東日本大震災での福島第一原発の放射能漏れ事故(2011年3月)の約九ヶ月後、「従来と変わらずこのまま全国の原発稼働を続けるのか、それとも各地域の原発を停止して脱原発の方針に将来的に転換するのか」の原子力発電の是非についての国民的議論が高まる中で出版された。本書は、いわゆる「原発のコスト」議論の全体を広く簡略に述べた入門書のような書籍である。ただ著者は「原子力発電は高コストで経済的合理性がなく、ゆえに反原発で脱原発」のかなり強硬な立場にある方なので、これとは逆の「原子力の発電コストは火力や水力ら他の発電方式と比べて安いのだから、今後とも原発推進するべき」主張の国・電力会社による検証報告や、それに準じた内容書籍も同様に読んでおくべきだろう。その上で「原発のコスト」を各人で慎重に判断されたい。

最後に岩波新書、大島堅一「原発のコスト」の概要を載せておく。

「原発の発電コストは他と比べて安いと言われてきたが、本当なのか。立地対策費や使用済み燃料の処分費用、それに事故時の莫大な賠償などを考えると、原子力が経済的に成り立たないのはもはや明らかだ。原発の社会的コストを考察し、節電と再生可能エネルギーの普及によって脱原発を進めることの合理性を説得的に訴える」(表紙カバー裏解説)

思えば経済学者の宇沢弘文(1928─2014年)は、元は理学部に在籍し数学を専攻していたが、河上肇「貧乏物語」(1917年)を読み感銘を受けて経済学に転じた、河上肇の社会主義思想に傾倒した人だった。後に宇沢はアメリカに留学し、効率重視の安定成長を第一義に目指すケインズ理論ら新古典派経済理論の限界を指摘するに至る。帰国の後は、元は数学者の資質から統計理論や数字算出の地道な手法に裏打ちさせて、「水道や教育や報道などは文化を維持するために欠かせないものであり、それらを市場原理に委ねてはいけない」「効率重視の過度な市場競争は格差を拡大させ社会を不安定にする」旨を主張し、都市政策や環境問題に経済理論を絡(から)めて積極的に取り組んだ。宇沢弘文は、今日でいう市場原理万能視の新自由主義(ネオリベラリズム)に真っ向から対決するような「福祉経済社会」政策ベースの経済学者であった。

没後、宇沢弘文の過去の仕事が注目され今日、広く深く読み返され再評価されているのも、価格統制の廃止、資本市場の規制緩和、貿易障壁の排除、移民労働力の拡大、福祉・公共サーヴィスの縮小、公営事業の民営化ら市場化と緊縮財政とで政府による経済への影響の削減を急速に推し進める経済改革政策にて、市場競争のみの重視による国際格差と国内での階級格差の激化、民族共同体の解体、自己責任論の横行と相乗させて「小さな政府」下での公的社会福祉政策の放棄による人々の総貧困化などをもたらし、国民の大多数を占める中間層からのダンピングと安価な移民労働力に依存する搾取型経済の典型たる現在の世界経済の一大潮流である所の、昨今の新自由主義的なあり方に抗する「ネオリベ批判の経済学」の古典として、そうした文脈で主に宇沢の著作が読み返されているからに違いない。

宇沢は岩波新書から多くの新書を出している。何と!これまでに岩波新書で7冊も出ている。

宇沢弘文「自動車の社会的費用」(1974年)、「近代経済学の再検討」(1977年)、「経済学の考え方」(1989年)、「『成田』とは何か」(1992年)、「地球温暖化を考える」(1995年)、「日本の教育を考える」(1998年)、「社会的共通資本」(2000年)

これら宇沢の岩波新書は内容が重複しており、そこまで複数冊も連続して数多く出す必要はないと正直、私は思うのだが。とりあえずは青版の「自動車の社会的費用」(1974年)と赤版の「社会的共通資本」(2000年)は、宇沢弘文が志向する宇沢経済学の中心思想を著した代表作であり、さらには岩波新書歴代の既刊総カタログの中でも絶対に外せない、一度は必ず読んでおくべき岩波新書の必読の名著といえよう。「自動車の社会的費用」と「社会的共通資本」の両著ともにタイトル及びその中核概念に「社会」という言葉があることに留意されたい。宇沢弘文は、公的国家や私的企業の利潤追求とは時に相反する、「(市民)社会」の観点から人間の権利保障を第一にした「社会のための」経済学を一貫して展開した人であった。

今回は岩波新書の赤、宇沢弘文「経済学の考え方」(1989年)を取り上げる。本書の概要は以下だ。

「経済学とはなにか、経済学の考え方とはどういうものか─日本を代表する経済学者が自らの研究体験を顧みながら、柔軟な精神と熱い心情をもって、平易明快に語る。アダム・スミス以来の経済学のさまざまな立場を現代に至るまで骨太いタッチで把え、今後の展望をも与える本書は、経済学のあるべき姿を考えるために格好の書物と言えよう」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の宇沢弘文「経済学の考え方」は、「アダム・スミスからケインズ以後まで」の経済理論史の概説である。ただし新書一冊完結で総数265ページなため、足早に非常にスピーディーに要点のみを極めて簡略に述べている。先の表紙カバー裏解説文での「アダム・スミス以来の経済学のさまざまな立場を現代に至るまで骨太いタッチで把え、今後の展望をも与える」での「骨太いタッチで把(とら)え」るとあるのは、「何しろ新書一冊分で紙数が相当に限られているから本書ではスミス以来の経済学史を、あまり細部に拘泥せず深くは掘り下げずに、あえて大まかに太い線のタッチでラフに素描した」旨の著者ならびに編集部よりの裏メッセージがあることを、あらかじめ読者は踏まえて本新書に当たるべきだろう。岩波新書「経済学の考える」に関し、「概説が不充分で説明が不親切だ」とか「解説の省略や議論の飛躍か多くて分かりにくい」などの苦言を呈してはいけない。常識的に考えて、「アダム・スミスからケインズ以後まで」の近代経済学の歴史をたかだか260ページ前後の新書の一冊で全て書き抜くこと自体が相当に困難だと思われるので.

宇沢弘文「経済学の考え方」のおおよその内容はこうだ。まず序論に当たる第1章の「経済学はどのような性格をもった学問か」で、宇沢弘文が社会科学としての経済学の定義をしている。「暖かい心と冷めた頭脳」(8ページ)といったフレーズにて、経済学という学問に関する本質的な規定をやっている。この序論はわずか10ページほどだが、まさに「経済学の考え方」について簡潔で引き締まった硬質な文体で書かれており、これから経済学を学ぶ人、経済学とはどのような学問か知りたい人ら経済学の初学者は必読である。

続く第2章から第4章まででスミス、リカード、マルクス、ワルラスを取り上げて新古典派経済学の理論的前提を「生産手段の私有制、経済人の合理性、主観的価値基準の独立性、生産要素の可塑性、生産期間の瞬時制、市場均衡の安定性という仮定が置かれていて、いわば純粋な意味における資本主義的市場経済制度のもとにおける経済循環のプロセスを分析しようとするもの」(84ページ)とまとめている。それから新古典派のワルラス批判を展開したヴェブレンを「新古典派理論に対する最初の体系的な批判者」(91ページ)とする小論を中途の第5章に短くはさみ、続く第6章で「理性的な財政政策と合理的な金融制度にもとづいて、完全雇用と所得分配の平等化を可能にするという、すぐれて理性主義的」(138ページ)なケインズ経済学を概説する。そうして第7章と第8章とで、いわゆる「ケインズ革命」以降の第二次大戦後の経済学史の新しい動向でジョーン・ロビンソンらを取り上げる。

そして、第9章にて「反ケインズ経済学」として「合理主義の経済学、マネタリズム、合理的期待形成仮設、サプライサイド経済学」の四つの形態を挙げ、それぞれについて論じる。「反ケインズ経済学は、…その共通の特徴として、理論的前提条件の非現実性、政策的偏向性、結論の反社会性をもち、いずれも市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつものである」(189ページ)と一刀両断に断じているように、ケインズ経済学以降の今日流行の「反ケインズ経済学」の主要な経済学潮流について宇沢弘文は終始批判的である。「いずれも市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつもの」と市場原理主義の性格を難としており、それへの評価は非常に厳しい。その上で最後にリカッチマン「追いつめられた経済学者たち」(1976年)での「(1970年代よりの反ケインズ経済学は)貧困、失業、インフレーション、資源、多国籍企業、労働組合など、…これらの諸問題に対して適切な分析をおこなうことができないだけでなく、経済学者の多くがそのことをはっきりとした形で意識することなく、問題をさらに深刻化させるような方向で分析を展開し、逆に反社会的な役割を果たしつつある」(213ページ)とする考察に依拠した形で論述を進め、その上で「リカッチマンの主張に対して、私も全面的な同感を覚える」(216ページ)と宇沢弘文はリカッチマンによる反ケインズ経済学への厳しい批判に「全面同意」である自身の立場を明確にしている。

終章の第10章は、「現代経済学の展開」として本書執筆時の1980年代の同時代の経済学の流れ、「反ケインズ経済学の終焉」として、ケインズ経済学以降のものを展望的に概観している。そのなかでも後の宇沢弘文の岩波新書のタイトルにもなっている、宇沢経済学での主要概念の内の一つである「社会的共通資本」の理論の概要が本章でコンパクトにまとめられており(247─256ページ)、読んで有用である。

岩波新書の宇沢弘文「経済学の考え方」は1989年に出された書籍であった。このことから今日の2020年代以降に読み返してみると、本新書は「アダム・スミスからケインズ以後まで」を述べた単なる経済理論史の概説であるばかりでなく、当時の時代を知る「時代の書」としても誠に興味深く読める。つまりは本書初版時の1989年とは、国際的にはソビエト連邦崩壊(1991年)直前の時期で当時ゴルバチョフ政権によるペレストロイカ改革にてのソ連の経済的混乱、さらには中国でも天安門事件(1989年)の民主化弾圧の同時代の動きがあって、ソ連の共産主義と中国の社会主義の政治経済体制に相当な不信の国際世論の強い非難が寄せられている時節であった。そうしたなか宇沢弘文は本書でのマルクス主義経済学の解説箇所で、現在のソ連の共産主義並びに中国の社会主義経済に対する批判を多くの字数の紙面を割(さ)いて非常にしつこく繰り返しやっている(43─52ページ)。

必ずしも直接的に文章にして書いてはいないが、「私は河上肇『貧乏物語』を読み感銘を受けて経済学を本格的に志した旨を事あるごとに喧伝しているけれど、だからといって宇沢弘文は社会主義思想に完全にイカれてマルクス主義経済学を信奉している、生粋(きっすい)のマルクス主義の経済学者というわけでは決してない。私は今日のソ連と中国の共産主義ないしは社会主義の経済体制や経済政策を完全支持などしていない。むしろ相当に批判的である。そのことを読者諸君は絶対に勘違いするなよ」の言外のメッセージが確かに本書記述の行間・背後・全体に強力にあるのだ。そうした執拗な念押しのクドい確認、著者の宇沢弘文の直接的には書かれざる言外の必死さが本書を読む際に感受できて、私はかなり笑えた。

また本新書が出された1989年は日本国内ではバブル経済のバブル景気の真っ只中の最高潮で、日本中の多くの人が経済の好景気に歓喜し浮かれていた。多くの人が地に足のつかない浮(うわ)ついた時代であった。そうした不動産・株式らの時価資産価格が投機によって経済成長以上のペースで高騰し、実体経済から乖離(かいり)して(実体経済にそぐわない膨張経済だから「バブル(泡)」経済という)、さらなる過熱投機の信用経済で膨張を続けた日本国内のバブル景気隆盛の時代の中で、「反ケインズ経済学の流行」にて1970年代から「さまざまな規制・管理制度の撤廃、社会的共通資本の私的管理ないしは所有への移管、予算均衡主義、貨幣供給量を重視する金融政策、さらに自由貿易、資本移動の自由化、変動為替相場制度の採用等々」(212ページ)の考え方が広く顕著に見られたことを問題視し、その自由放任主義・市場原理(万能)主義の反ケインズの経済学は、「インフレーション、失業、資源問題などという、すぐれて経済学的な現象を解明するための分析的枠組みをもちえないとともに、他方では、貧困、不公正の問題を解決するための政策的指向を欠如している」(214ページ)として、市民社会的な人道正義の倫理的観点から暗に、しかし痛烈に宇沢弘文は否定的に書いていた。

本書初版時の1989年には、私はまだ10代の高校生で本書を未読であったし、経済学者の宇沢弘文その人のことも全く知らなかった。後に宇沢弘文のことを知り、宇沢の著作を読んだ。同時代の何ら実体経済にそぐわない、かなり危うい投機型経済たるバブル景気の流行に安易に迎合することなく、岩波新書の赤、宇沢弘文「経済学の考え方」のような堅実硬派な経済理論史の書籍が当時の1980年代に執筆され出版されていた事実に、後の90年代に読み返して私は何だか胸が熱くなる感動の思いがした。

日本の政治学者で、敗戦後の1945年よりの日本の民主化、学問の自由と大学の自治を担った戦後初の東京大学総長(第15代)の南原繁である。そもそも南原繁は今日、多くの人々に知られているのか!?近年の政治学者・丸山眞男ブーム下にあって、東大法学部教授の南原は丸山が東大在学時よりの指導教授であり、南原繁は丸山眞男の政治学の師である、といえばいくらか伝わるかもしれない。

「南原繁(1889─1974年)は政治学者。1945年に東大総長。46年、教育家委員会委員長としてアメリカ教育使節団に教育改革を建議。講和問題では全面講和を唱えて吉田茂首相と対立した」

南原繁は東大法学部の政治学者であると同時にキリスト教信仰を持つキリスト者でもあった。南原以前の東大教授にてキリスト教信仰を有して、宗教学や政治学の社会科学研究をやる近代日本の知識人の系譜は確かにあった。その系譜といえば以下のようになろうか。

「内村鑑三─ 矢内原忠雄・南原繁─ 丸山眞男・福田歓一」

明治の時代のキリスト者で聖書研究の帝大教授の内村鑑三から始まって、内村の弟子が同様に帝大教授でキリスト者の矢内原忠雄と南原繁であり、さらにキリスト者で政治学専攻の南原の弟子が戦後昭和の政治学者で東大教授の丸山眞男と福田歓一なのであった。この中で内村鑑三から矢内原忠雄と南原繁、そして福田歓一まで皆がキリスト教信仰を有するキリスト者であったが、丸山眞男だけキリスト教の洗礼を受けていない非キリスト者である。キリスト者の南原繁に師事しながら、丸山はキリスト教の宗教的なものであるよりは、新聞記者で政治評論家であった実父の丸山幹治のジャーナリスト気質をバックホーンに政治学研究をやっていた。南原の他の弟子とは異なり丸山眞男だけ、内村鑑三から南原繁に引き継がれたキリスト者で東大教授の線から例外的に外れていた。そういった内村鑑三から南原繁を経ての、やや例外的な非キリスト者で東大政治学者の丸山眞男が人気でブームであるのに私は少し奇妙な思いも持つ。確かに丸山眞男がなした丸山政治学は読むべきものがあって優れているけれども、丸山の師の南原繁と、共に南原の弟子でキリスト者で東京大学の正統な政治学者、丸山の兄弟弟子である福田歓一も、もっと注目され広く読まれてよいと思うのだが。丸山人気のみが異常に突出した昨今の丸山眞男ブームに、私は苦言を呈する。

内村鑑三から福田歓一まで、近代日本のキリスト者の彼らの自身の宗教的真理への敬虔な信仰が、宗教学や政治学の社会科学研究をやる際の真理価値への尊重・追究という学術的態度にそのまま重なっていた。また彼らのキリスト教の神および聖書への敬虔信仰の禁欲的態度は、学者、知識人として世評の人気評価に浮かれずに研究を積み重ねる学徒の堅実態度を見事に裏打ち形成していたし、彼らは世界宗教たるキリスト教を信仰していたがゆえに、世俗の政治権力に安易に取り込まれることなく、現存の国家を相対化して批判できた。かつ信教の自由の原則から国家に侵食されることのない人間の思想・良心の内面の自由を確保しようと奮闘したし事実、ある程度までは個人の思想・良心の自由を彼らは保ち得た。

特に戦前の内村鑑三から矢内原忠雄と南原繁にて、内村は日露戦争にて非戦論を展開できたし、矢内原は十五年戦争時に反戦平和の論陣を張って結果、政府当局の圧力により東大教授辞職を余儀なくされている。南原も戦時には東大法学部長という帝国大学の公的教官の地位にありながら、戦前昭和の挙国一致内閣の国策たる戦争遂行には批判的で極秘に早期戦争終結のための終戦工作に奔走していた。内村鑑三から南原繁まで、彼らは戦前の近代天皇制国家に安易に取り込まれることなく、つまりは自身と日本の国家とを安直に同一視して、日清戦争から太平洋戦争に至るまでその都度、自国の日本が戦争勝利すれば「あたかも自分が勝利したかのように」興奮して喜び、逆に日本が負けれは「まるで自身のことのように」悲しんで心底から悔(くや)しがるような、同時代の多くの日本人に見られた国家主義者的醜態をさらすことは決してなかった。この点は近代日本の知識人として内村鑑三から南原繁まで実に見事だという他ない。

しかし、他方で彼ら近代日本のキリスト者の知識人には対国家の抵抗側面が弱く、時局を傍観し結果的に日本の天皇制国家に時に取り込まれてしまった面も顕著にあった。これには内村鑑三から矢内原忠雄、南原繁に至るまで近代日本のキリスト者にて、

(1)幼少時よりの家庭での生育環境から来る生粋(きっすい)のキリスト者ではなくて、比較的遅い10代の青年期に、すでにキリスト教を信仰していた学校の師や先輩らへの人的傾倒の影響からのキリスト教入信のパターンが多い。(2)神への信仰であるキリスト教思想そのものに対するというよりは、聖書研究を通しての精神的な自己修養目的の動機からの副次的なキリスト教入信のケースが多い。

の傾向があるからだと考えられる。もっとも明治以前の日本には、誕生の生まれながらに洗礼を受けて信仰と共に終生生きるような正統なキリスト者などそもそもいない。近代日本にて西洋思想であるキリスト教は外発の輸入思想でしかないのだから、これには「ないものねだり」の超越批判の感もあるのだが。

南原繁に関して、前述のように南原は戦前昭和の挙国一致内閣の国策たる戦争遂行に内心批判的で、極秘に早期戦争終結のための終戦工作に奔走していたことの詳細が後の南原繁研究にて明らかにされている。だが、その終戦工作の際に南原が強く主張したのは、終戦のための現下の昭和天皇の自発的退位なのであって、近代天皇制そのものの廃止や縮小の線には決して行かなかった。南原の政治主張には、いつも日本の天皇制護持の主張が一貫してあった。

日本近代史研究において、問題は天皇個人の人格ではなくて、近代天皇制の制度であったとは前よりよく指摘される所である。軍国主義の昭和ファシズムの問題は、世論や帝国議会に何ら制約されることなく、「大元帥」の天皇みずからが帝国陸海軍を統帥し戦時の宣戦および終戦講和を天皇が特権的にでき、かつ平時より天皇を「現人神」と神聖視して仰ぎ、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼ス」ることを日々の学校教育にて国民に注入教化する、大日本帝国憲法と教育勅語とを二本柱とした明治国家由来の反民主的で神権的な近代天皇制の制度にあったのだ。問題の核心は明らかに昭和天皇個人ではなくて、近代天皇制の制度自体にあった。しかしながら、キリスト者で政治学者であった南原繁は戦時から戦後に至るまで、「日本精神の宗教改革」「新日本文化の創造」の必要性を時に強く説きながらも、天皇制護持の立場を貫き、天皇個人への戦争責任追及から昭和天皇退位論に終始した。世界宗教であるキリスト教信仰のキリスト者でありながら、民族宗教である神道を素地とする極めて政治宗教的な国家神道体制に象徴される「現人神」たる天皇への陶酔を内実とした神権的な近代天皇制に対するトータルな批判を遂になし得なかったのである。南原繁の近代日本の知識人としての、この問題は改めて考えられるべきだろう。

岩波新書の赤、加藤節「南原繁」(1997年)は、キリスト者であり政治学者であった南原繁の評伝である。本新書のサブタイトルは「近代日本と知識人」であった。著者の加藤節は東京大学法学部出身で、加藤は東大の政治学者の福田歓一の弟子である。前述のように福田歓一は元東大総長の政治学者・南原繁の弟子であるから、加藤節は南原繁の孫弟子ということになる。若い頃の加藤は晩年の南原に師事し南原の近くにいて、よく南原を見ていたという。だから南原からの聞き書きである丸山眞男・福田歓一編「南原繁回顧録」(1989年)の長い内容をコンパクトにまとめた今般の岩波新書「南原繁」は、南原の正統な弟子筋に当たる加藤節の筆によるものとなっている。

「幼くして家長教育を受けた郷里香川での日。キリスト教に出会った一高時代。内務官僚の実務経験。ナチス批判と終戦工作。戦後初の東大総長として高くかかげた戦後改革の理想。『理想主義的現実主義者』南原が生涯追究したのは、共同体と個人との調和であった。近代日本の激動の歴史と切り結んだ政治哲学者の思想を綿密にたどる評伝」(表紙カバー裏解説)

私が中高生の頃の1980年代から90年代は、まだ今のようにインターネット環境が不在でダウンロードやサブスクはなく、音楽を聴くのに街のレコード店に頻繁に行っては新譜や旧譜のレコード・CDをその都度購入していたし、新作情報やアーティストのインタビューらの音楽記事もネット上の記事配信がなかったので、紙媒体の音楽雑誌をよく読んでいた。

洋楽雑誌に関する限り、渋谷陽一の「ロッキング・オン」と、中村とうようの「レコード・コレクターズ」と、森脇美貴夫の「DOLL・MAGAZINE(ドール・マガジン)」の3誌を私は必ず読んでいた。各雑誌に各人の名が付するのは、実は音楽雑誌、特に洋楽ロック系の雑誌は1980年代当時はまだ歴史が浅くて、それぞれの雑誌にだいたい創業者で編集長の名物で有名な人がまずいて、彼らがもともと趣味の小規模誌でやっていたものが人気が出て多くの読者を獲得し、やがて商業誌としてビジネスベースに乗って全国書店に流通し、そうすると彼らの個人商店のような形態で会社化して、創刊時の編集方針はそのままに、大手出版社の傘下の一音楽雑誌部門に課されるような制約なく、各雑誌がかなり自由にやっていたのである。だから当時は各誌とも、それぞれに特徴があって読んでいて面白かった。

渋谷陽一の「ロッキング・オン」は、来日ミュージシャンへのインタビューやライブ・レポートが早かったし充実しており、カラー写真も多く掲載されていてビジュアル的に綺麗な雑誌で気に入っていた。また海外雑誌から記事購入し翻訳して載せていて、文字的にも毎号読みごたえがあった。中村とうようの「ミュージック・マガジン」は毎月新譜のレビューと採点評価があってチェックしていた。また音楽評論家の萩原健太の連載コラムなども毎号、私は楽しみにしていた。

森脇美貴夫の「DOLL・MAGAZINE(ドール・マガジン)」はパンク・ガレージロック系の専門誌で、他雑誌にはないパンク・ガレージのバンド紹介や新作情報が目当てでよく読んでいた。編集長の森脇美貴夫による多少の鬱(うつ)が入った暗い無気力な連載エッセイも、私は何だか好きだった(笑)。当時、私が住んでいる街には輸入レコード店がなかったので、その時はインターネットもないし、「DOLL・MAGAZINE(ドール・マガジン)」には東京や大阪の輸入レコード店がパンク・ガレージ系の外盤の入荷情報を載せた広告を毎号掲載していて、私は雑誌を見て店に電話してよく通販利用していた。

昔は音楽雑誌の編集者やライターは現在のような社会的地位になく、だいたいバカにされていたのである。「あれこれ音楽について述べて評論記事を書く以前に、そんなにエラそうに言うなら自分で作曲して演奏して歌って実際にパフォーマンスしてみろ!お前ら音楽雑誌の編集者・ライターは、文筆でミュージシャンと音楽作品そのものに単に寄生しているだけだろう(怒)」のような口吻が昔はよくあった。「ミュージック・マガジン」の中村とうようは歌手の高田渡を酷評したが、逆に中村は高田から「そんなにいうなら、あんたが歌えばいいじゃないか」と突き放して冷たく言われるあり様だった。

だが他方で、各音楽雑誌を編集・販売する彼らの方にも編集者・ライターの立場からのそれなりの主張があって、「既存の音楽雑誌はレコード会社やプロモーターのヒット拡大の意向を汲(く)んだ御用雑誌で、ミュージシャンのアイドル的な写真とピンナップ掲載や絶賛太鼓持ちの提灯記事ばかりで、ロック雑誌に批評性が皆無じゃないか。新作でもライブでも良い時は好意的な記事を書くけど、悪い時は正直に批判の酷評の記事も載せる」というようなこと。また世間一般にまだあまり知られていないミュージシャンでも、これはよいから編集部が積極的に取材し記事を出して猛プッシュして行くような動きも彼ら音楽雑誌にはあった。

前者に関していえば、「ミュージック・マガジン」での、マイケル・ジャクソンのアルバム評で中村とうようが0点を付けた、あの件である(笑)。「ミュージック・マガジン」は毎月、新譜レビューで講評して10点満点で採点するのだが、マイケル・ジャクソン「スリラー」のクロスレビューで中村だけ、なぜかやたらと厳しくて10点満点で0点を付ける。マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」(1982年)は80年代の当時からリアルタイムで聴いて、現在の2020年代に聴いてもよくできた良作の名盤だと私は思うけどなぁ。中村とうようという人はワールドミュージックに造詣深くて、世界の民族音楽を収集の大家で一家言あって、マイケル・ジャクソンのような「民族性や地域性に根差した大衆音楽の歴史の重みに対する尊敬の念を欠いて、単に黒人音楽を商業ロックの流行に乗せチャート急上昇で世界中で売れまくって大ヒット」のようなことが(おそらくは)とにかく気に入らないのである。それで中村とうようによる採点では、マイケル・ジャクソン「スリラー」は最低点の0点←(爆笑)。大手出版社の傘下の既存の音楽雑誌でレコード会社やプロモーターのヒット拡大の意向を汲み利権が絡んだ御用雑誌では、絶対にあり得ない事態である。

後者に関し特に印象に残っているのは、日本のバンド「エレファントカシマシ」のことだ。今でこそ宮本浩次のエレファントカシマシは人気のバンドで代表曲もヒット曲も多くあって売れて有名だけれど、昔はエレファントカシマシは知名度が低く、そこまで売れず、売上不振のため中途でメジャーのレコード会社から契約打ち切りとなり、一時期はインディーズのバンドになって相当に苦労していたのである。渋谷陽一の「ロッキング・オン・ジャパン」はデビュー時から宮本浩次らのエレファントカシマシをやたら高評価し激賞してかなり猛プッシュしていたし、エレファントカシマシがメジャーのレコード会社から契約解除され地下漂流している時でも、誌面で全力応援していた。私はエレファントカシマシというバンドのファンではないが、昔に渋谷陽一の「ロッキング・オン・ジャパン」がエレファントカシマシに異常に肩入れして熱烈応援していたことが、今となっては非常に懐かしく思い起こされる。

さて、「ミュージック・マガジン」の創業者で元編集長でミュージック・マガジン社の代表取締役であった中村とうように関しては後に、中村の投身自殺というショッキングな出来事があった。

2011年7月、東京都内のマンション敷地内で倒れているのが発見され病院に搬送されるも、後に死亡が確認された。警察は、このマンションの8階の自宅から飛び降り自殺を図ったものとみている。中村とうよう(1932─2011年)、79歳没。

晩年の中村とうようは、「ミュージック・マガジン」のレビュー執筆者を降板して、同誌ではコラム「とうようズ・トーク」のみ担当していた。私は「とうようズ・トーク」を毎号だいたい読んでいたけれど、最後の方のコラムはもはや音楽には関係がなく、政治や社会問題への急角度からの突っ込みで、自民・公明与党の政権批判とか、地方の過疎化や高齢者の介護医療問題らの内容が多くて、中村とうようは非常にいらだっていつも激怒しているような、どこか暗い袋小路の鬱状態に入ったような少し心配になるコラム内容で正直、私は敬遠気味であった。そうしたら、後に中村とうよう自殺の報を聞くことになるとは。

それで中村とうようが亡くなってすぐ、自死の直前に中村が書いて編集部に渡した最新で最終の「とうようズ・トーク」が中村の絶筆の遺稿として「ミュージック・マガジン」に全文掲載される。もうこれから死ぬことを決めて覚悟した「遺書」のような壮絶内容の中村の「とうようズ・トーク」最終回で。その時の号が今は手元にないので正確な文面は忘れたが、「こんな雨に日に飛び降りたら後で片付ける人は大変だろうな」「年を取っても他人の世話にはなりたくない。…ぼくという少し変わったやつがいたことを覚えていてもらえるとうれしいです」「でも自分ではっきりと言えますよ。ぼくの人生は楽しかったってね。この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません」というような事が書かれてあった。

音楽雑誌「ミュージック・マガジン」での「とうようズ・トーク」最終回の掲載は近年のメディア史でも、それなりの衝撃の「事件」であったと思う。編集部は中村の自殺を受けて、社内協議の上で最後に渡された故人のコラム原稿に一切手を入れることなく、そのまま全文掲載したという。あのような編集者個人の私的な遺書に近い原稿をそのまま全文、自死の直後に不特定多数の誰もが購読参照できる全国流通の商業誌に載せることは、通常はない。このような故人の私的な遺書めいた最期の文章が遺族の意向で後日の「お別れの会」や後年の法要の積み重ねの節目に、印刷され関係者にのみ配布されることは時にある。だが、それが死の直後に即のリアルタイムで全国流通の商業誌に載せられることは、やはり珍しい。

大手出版社の一編集部門の音楽雑誌であれば、こうした編集者の私的な最期の文章を何の検閲もなしにそのまま全文を雑誌に載せることはありえない。しかし、中村とうようの「とうようズ・トーク」最終回の場合にそれができたのは、音楽雑誌「ミュージック・マガジン」の創業者が他ならぬ中村とうようであり、もともと中村主宰の小規模誌でやっていたものが人気が出て多くの読者を獲得し、後に商業誌としてビジネスベースに乗って全国書店に流通して結果、ミュージック・マガジン社という中村とうようが創業者で元編集長で代表取締役である個人商店のような形態を取っていたことによる。同時代の渋谷陽一の「ロッキング・オン」や森脇美貴夫の「DOLL・MAGAZINE(ドール・マガジン)」らと同様、既存の大手出版社下の一編集部門ではなく、小規模誌出発の個人創業から始めて創刊時の編集方針を保持し自由にやる編集経営の形態にて発展してきた、日本の音楽雑誌の特殊なあり方ゆえと思うのである。

岩波新書の赤、西山太吉「沖縄密約」(2007年)の表紙カバー裏解説には次のようにある。

「日米の思惑が交錯した沖縄返還には様々な密約が存在した事が、近年相次いで公開された米公文書や交渉当事者の証言で明らかになりつつある。核持ち込み、基地自由使用、日本側巨額負担…。かつてその一部を暴き、『機密漏洩』に問われた著者が、豊富な資料をもとにその全体像を描くとともに、今日の日米関係を鋭く考察する」

岩波新書の西山太吉「沖縄密約」は、さすがに読みごたえがある。何しろ、いわゆる「西山事件」ないしは「外務省機密漏洩事件」の当事者であった元毎日新聞政治部記者の西山太吉(1931─2023年)が書いた書籍であるからだ。本書は事件の渦中にあって、その全貌の広がりと深さを誰よりも知る西山当人により執筆されている。事件関係者以外の第三者が後日に追跡取材し、当事者証言を集めて再構成したものとは違うのである。当事件に関する書物は数多く出ているが、終始一貫して事件の渦中にあった西山本人が著した岩波新書「沖縄密約」は真っ先に読まれるべきだろう。

当事件により、西山太吉は第一審の地裁判決で無罪となるも、後の第二審の高裁と最後の第三審の最高裁判決にて逆転の有罪判決を受け、毎日新聞退社を余儀なくされる。この時点で西山の新聞記者生命は終わり、新聞報道に携わるジャーナリストの仕事の道は断たれた。以後、西山は帰郷して家業の青果業を継いだ。当事件を機に西山太吉は、密約電文入手の過程で明らかとなった自身の男女スキャンダルの好奇に世間からさらされて週刊誌マスコミの格好の標的となり、西山の家族は離散。離婚はしなかったものの西山本人にもまして西山の妻はさらに苦しみ、西山太吉は妻と子供たちから離れて暮らす長年の別居生活を強いられた。

このように辛酸をなめて困難を極めた事件の当事者である西山太吉であればこそ、本書にて日本国とアメリカ合衆国の間で以前に秘密裏に交わされた「沖縄密約」の検証から、沖縄返還時の米軍基地原状回復負担問題に象徴される戦後より現在にまで至る日米軍事同盟のゆがみと、国がなす自身の逮捕と男女スキャンダルの誹謗中傷の張り巡らしといった、「情報操作」の域を越えた国家による「情報犯罪」によって今後も国民への不当な強権的取締・逮捕が蔓延(まんえん)する危険性の問題まで西山は幅広く分析している。

しかしなから、やはり本書の読み所は西山の筆による当時の事件と報道関係者に対する全方位的な批判の怨(うら)みであろう。もちろん、西山太吉は大人で良識ある社会人であって、元新聞記者で言うなれば「文筆のプロ」であるから、直接的な怨みの言葉の中傷や目に見えたあからさまな感情的筆致で本書を著してはいない。だが行間から紙面から、そして書籍全体から西山太吉の深い怨念の恨みは感受できるのである。すなわち、沖縄返還にて沖縄米軍基地の土地返還に際し日本側が原状回復費を内密に肩代わりする密約を交わした、西山が言うところの「隠蔽体質の総本山」(208ページ)である日本の外務省、同様に沖縄返還時の密約の存在を隠蔽し当初より国会の場で否定し続けた保守自民党政権の佐藤栄作内閣、密約の存在有無を何ら確かめずに「機密漏洩」の罪状で西山を起訴した検察と最終的に西山に有罪判決を下した司法の裁判所、密約の電文入手の過程での西山の男女スキャンダルを扇情的に書きたてた週刊誌マスコミ、そして男女間のセンセーショナルな話題に押されて外務省と佐藤内閣に対する密約追及キャンペーンの強い論調から中途で急速にトーンダウンし、西山を最後まで守りきれなかった西山が在籍の毎日新聞社、それら全てに対する全方位的な西山太吉の直接的には書かれざる言外の内心の深い怨みが、本書にて確かに明確に読み取れるのである。

本事件で徹底的に叩かれ窮地に追い込まれたのは、隠蔽した密約の問題追及をされる側の日本政府の佐藤内閣と外務省ではなくて、なぜか密約の存在を突き止め追及した側の新聞記者、西山個人であった。西山太吉は消耗し、やがて彼は社会から疎外され孤立していく。

ここで改めて、いわゆる「西山事件」または「外務省機密漏洩事件」の概要を確認しておこう。本事件に関し、西山太吉の個人名を冠にした「西山事件」、ないしは「機密漏洩」の事項にのみ不自然なまでに故意に焦点を当てた「外務省機密漏洩事件」の呼称は正しくない。本件は、西山の支援者や主に在沖縄の新聞・テレビのメディアにて今日通例で使用されている「沖縄密約事件」と呼ぶのが適切である。沖縄密約事件の概要は以下だ。

「1971年6月に調印、翌72年5月に発効した沖縄返還協定にて、第3次佐藤栄作内閣はリチャード・ニクソンアメリカ合衆国大統領との間で、公式発表では地権者に対する米軍用地復元補償費400万ドル(当時のレートで12億円強)をアメリカ合衆国連邦政府が日本国へ『自発的支払いを行なう』と記されていたが、実際には日本国政府が400万ドルを肩代わりして支払うという密約を交わしていた。沖縄返還に際しての日米交渉を取材していた毎日新聞社政治部記者の西山太吉は、外務省の女性事務官から複数の秘密電文を入手し、『アメリカ政府が払ったように見せかけて、実は日本政府が肩代わりする』とする秘密電文があることを把握。西山は同電信文を基に日本社会党議員に情報提供し、野党議員が国会で密約問題を追及。1972年、当時の政権与党・自民党の佐藤内閣の責任が問われる事態となった。

新聞報道スクープと野党の追及に対し、日本政府は密約の存在を否定。東京地検特捜部は同年、情報源の事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕した。記者が取材活動によって逮捕された事態に対し、報道の自由と知る権利の観点から『国家機密とは何か』『国家公務員法を記者に適用することの正当性』『取材活動の自由と限界』が国会と言論界を通じて大論争となった。一方で東京地検が出した起訴状で『(女性事務官と)ひそかに情を通じ、これを利用して』と書かれたことから、世間の関心は密約資料の入手方法に関する西山個人の男女間のスキャンダルの面に大きく転換していく。西山と女性事務官はともに既婚者でありながら不倫関係にあって、その男女間の不適切な関係を通じて西山は女性事務官から密約電文のスクープを手にしたとする、週刊誌を中心としたスキャンダル報道が過熱して密約自体への追及は次第に色褪(あ)せていった。逆に毎日新聞は倫理的非難を浴びた。起訴理由が『国家機密の漏洩行為』であったため、審理は機密資料入手方法の是非に終始し、密約有無の真相究明は東京地検側から行われなかった。女性事務官は一審の東京地裁での有罪判決が確定。西山は一審では無罪となったが、二審の東京高裁で逆転有罪判決となり最高裁で有罪が確定した。

沖縄返還交渉の過程で、地権者に対しアメリカが支払うはずの米軍用地復元補償費を内密に日本が肩代わりする、しかし表向きはアメリカが自発的に支払い負担したことにする裏取引の密約の成立は、沖縄返還時の1971年にアメリカは当時ベトナム戦争(1961─1973年、アメリカは1965年より参戦)をやっており軍費がかさんでいたため、日本への沖縄返還には合意したものの、返還に伴う米国からの諸費用負担をアメリカ側が拒否したこと。他方、当時の日本の自民党保守政権は『沖縄本土復帰』を念願としており、だが沖縄での米軍用地復元補償費を占領国のアメリカではなく被占領国の日本が肩代わり負担することは、沖縄返還に際しての日米間の不均衡で片務的、アメリカに対し明らかに日本が格下で義務負担が多い現実をさらすことであって、沖縄返還のこの事態に対し日本国民が不満を募(つの)らせ暴発する最悪事態を絶対に避けねばならなかったからだといわれている。沖縄本土復帰時に『本来は占領使用側の米軍が支払うべき沖縄軍用地復元補償費を日本国が肩代わりして、日本はアメリカから沖縄を金銭で買い戻した』の汚名が着せられることを、当時の佐藤内閣は相当な危機感を持ってかなり危惧していたとされる。だからこそ沖縄返還交渉の過程で、地権者に対しアメリカが支払うべきはずの米軍用地復元補償費を日本が肩代わりすることは、極秘の裏取引の『密約』にして是非とも隠蔽しておかなければならなかったのである。

当初より政府が否定し続けた密約の存在は、2000年代にアメリカでその存在を裏付ける公文書が相次いで見つかり、当時の日米交渉での日本側の責任者だった外務省元アメリカ局長の吉野文六も密約があったことを後に証言している。さらに後のアメリカの公文書公開により、沖縄返還時に日本政府が肩代わりして支払った400万ドルのうち300万ドルは沖縄の地権者には渡らず、米軍経費に流用されたこと、日本政府が西山のスクープに対する口止めを当時アメリカ側に要請していた事実の記録文章も明らかになっている」

沖縄返還に際しての密約スクープに関し、新聞記者の西山太吉と外務省の女性事務官への逮捕・起訴ならびに有罪判決は不当であると私は思う。沖縄返還時に日米間で極秘に交わされた、公式発表では地権者に対する米軍用地復元補償費400万ドル(当時のレートで12億円強)をアメリカ合衆国連邦政府が日本国へ「自発的支払いを行なう」と記されていたが、実際には日本国政府が400万ドルを肩代わりして支払うという密約事項は何ら国家機密に該当しない。「機密」というのは、自国の軍装備の詳細や軍事作戦・用兵に関する統帥事項などの極秘情報であり、それらを故意に外部に漏らすことで自国の国益に著しい損失を与えることが「機密漏洩」の罪と本来はされるのである。「沖縄返還に際しての日米間の不均衡で片務的、アメリカに対し明らかに日本が格下で義務負担が多い事態に日本国民が不満を募らせ暴発する最悪事態を想定し、事前に回避しようとする当時の沖縄返還時の佐藤内閣の政略により、実は裏側では日本政府が基地用地復元補償費を肩代わりして内密に支払っていたのに、沖縄の地権者に対する米軍用地復元補償費はアメリカが日本に対し自発的支払い負担すると表向きに虚偽の公式発表した」云々の日米両国政府間での密約の存在をマスコミ報道を通し明らかにし問題追及することは、何ら「機密漏洩」の罪には当たらない。当時より日本政府は日本国民に対し、密約の隠蔽で虚偽の政策発表をしてそのままやり過ごしていたのだから、そうした密約の隠蔽という政府による国民に対する虚偽を暴いて事実報道することは民主国家における「国民の知る権利」の正当な行使であり、時に腐敗する政治権力(国家)の監視を主とするマスコミ報道の社会的役割のまっとうな遂行である。女性事務官が西山に密約に関する複数の秘密電文を提供した行為は、違法な「機密漏洩」ではくて、民主政治における合法な「外部告発」「公益通報」である。西山記者の逮捕は、言論の自由に対する国家権力の不当な介入の言論弾圧といえる。

ところが、当時の日本政府の佐藤内閣と外務省は国会答弁や裁判証言にて密約の存在について明確な否定と「記憶にない」の紋切り口上の連発、ときには「守秘義務」を理由に一切答えない態度を貫くとともに、密約資料の入手方法をめぐっての西山個人の男女間のスキャンダルの面をクローズアップして喧伝する戦術に出た。女性事務官と西山記者を国家公務員法の機密漏洩の罪と教唆の罪にて起訴するに当たり、東京地検が出した訴状での「(女性事務官と)ひそかに情を通じ、これを利用して」という文言を前面に押し出して、政府は西山個人と毎日新聞社に対する倫理的非難の弾幕を張った。あたかも「西山が密約スクープの電文証拠を入手したいがために、共に既婚者でありながら外務省の女性事務官に近づき不倫の不義の関係を結んで彼女をそそのかした」旨の週刊誌のスキャンダル報道が先行し過熱して、密約自体への問題追及は色褪せていった。密約問題を追及された首相の佐藤栄作は、西山と女性事務官の不倫関係をして「ガーンと一発やってやるか」の下世話な下ネタ発言で揶揄(やゆ)するほどの強気のあり様であった。逆に西山個人と毎日新聞社は、不倫の不義の関係とそれに基づく取材手法で世間からの非常に厳しい倫理的非難を浴びた。密約スクープの当初より「国民の知る権利」「取材報道の自由」キャンペーンを大々的に行っていた毎日新聞は中途で急速にトーンダウンし、所属政治部記者である西山を最後まで守りきれなかった。

沖縄密約事件についての書籍は、事件の当事者である西山太吉が執筆の岩波新書「沖縄密約」を始めとして関連書は多い。なかでも澤地久枝「密約」(1978年、2006年に岩波現代文庫に収録)は本事件の概要・背景と問題の本質を的確に押さえた基本の良書であろう。近年復刊された岩波現代新書の澤地「密約」の表紙カバー裏解説文は次のようになっている。

「沖縄返還交渉で、アメリカが支払うはずの四百万ドルを日本が肩代わりするとした裏取引─。時の内閣の命取りともなる『密約』の存在は国会でも大問題となるが、やがて、その証拠をつかんだ新聞記者と、それをもたらした外務省女性事務官との男女問題へと、巧妙に焦点がずらされていく。政府は何を隠蔽し、国民は何を追及しきれなかったのか。現在に続く沖縄問題の原点の記録」

沖縄返還交渉の過程で、地権者に対しアメリカが支払うはずの米軍用地復元補償費を内密に日本が肩代わりする、しかし表向きはアメリカが自発的に支払い負担したことにする裏取引の密約があった沖縄密約事件にて、「時の内閣の命取りともなる『密約』の存在は国会でも大問題となるが、やがて、その証拠をつかんだ新聞記者と、それをもたらした外務省女性事務官との男女問題へと、巧妙に焦点がずらされていく」。政治部新聞記者の西山太吉の行為は違法な「機密漏洩」ではくて、民主政治下での合法な「外部告発」「公益通報」に当たり、民主国家における「国民の知る権利」の正当な行使であるはずだ。しかし、これが西山のとった取材方法が下世話な男女スキャンダルの話に政府の側から故意に強引に印象操作されて、まさに「密約」の著者の澤地久枝が指摘するように「やがて、その証拠をつかんだ新聞記者と、それをもたらした外務省女性事務官との男女問題へと、巧妙に焦点がずらされてい」ったのである。

かつての沖縄密約事件に対する正当な問題追及を阻(はば)む、この後味の悪さの割り切れなさ。元毎日新聞政治部記者の西山太吉のことを思い出すたびに私はどこか気の毒な、非常にやるせない思いに襲われる。

(今回は、集英社新書の三上智恵「証言・沖縄スパイ戦史」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、三上「証言・沖縄スパイ戦史」は、岩波新書ではありません。)

先日、三上智恵「証言・沖縄スパイ戦史」(2020年)を読んだ。本書は先のアジア・太平洋戦争末期における対アメリカの沖縄戦での当時の沖縄島民による日本の軍隊についての貴重な証言を集めたものである。書籍だけでなく、当事者への映像インタビューを収めたドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(2018年)も制作されている。

私は以前、1990年代に関西に一時期在住していて、「沖縄スパイ戦史」の著者である三上智恵その人をメディアを介し知っていた。三上智恵は在阪局の毎日放送(MBS)の元アナウンサーで、90年代には阪神淡路大震災(1995年)を当時現場から報道したり、MBS制作の深夜の映画紹介番組「シネマチップス」の司会で活躍していた。その番組内で作家の椎名誠が監督の「白い馬」(1995年)を辛口評価したことから椎名の関係者が後日に毎日放送に激怒のクレームを入れて、毎日放送が椎名側に内々に謝罪。打ちきりのような不自然な形で突如「シネマチップス」は最終回を迎える。それからほどなくして三上アナウンサーは毎日放送(MBS)を退社し、琉球朝日放送(QAB)に移籍。そうして三上智恵は近年では映像作家となり、ドキュメンタリー映画を撮ったり書籍を出したりしている。その中の一作が今般の「沖縄スパイ戦史」なのであった。

それにしても、彼女の大阪の毎日放送から沖縄の琉球朝日放送への移籍の少なからずの契機となった「シネマチップス」での、当時は日本文壇のベテラン大物で力を持っていた椎名誠との一連のトラブルが、どこまで影響を与えているか分からないが、沖縄に移った三上智恵が現在の沖縄基地問題や過去の沖縄戦での旧日本軍の戦争犯罪と戦争責任追及にここまで果敢に攻め込む、反体制のラディカルなリベラル左派のジャーナリストになるとは思ってもみなかったな。在阪局の毎日放送時代の三上は、どちらかといえば政治的にあまり踏み込んで発言報道しないノンポリな人だと私は思っていたので。

三上智恵「証言・沖縄スパイ戦史」の概要は以下だ。

「軍隊が来れば必ず情報機関が入り込み、住民を巻き込んだ『秘密戦』が始まる─。第二次大戦末期、民間人を含む20万人余が犠牲になった沖縄戦。第32軍牛島満司令官が自決し、1945年6月23日に終わった表の戦争の裏で、北部では住民を巻き込んだ秘密戦が続いていた。山中でゲリラ戦を展開したのは『護郷隊』という少年兵達。彼らに秘密戦の技術を教えたのは陸軍中野学校出身の青年将校達だった。住民虐殺、スパイリスト、陰惨な裏の戦争は、なぜ起きたのか?2018年公開後、文化庁映画賞他数々の賞に輝いた映画 『沖縄スパイ戦史』には収まらなかった、30名余の証言と追跡取材で、沖縄にとどまらない国土防衛戦の本質に迫る」(表紙カバー裏解説)

「証言・沖縄スパイ戦史」は全749ページで非常に分厚い。本書は、(1)沖縄戦にて現地で徴兵動員された沖縄島民、いわゆる「護郷隊」に所属した31人の元少年ゲリラ兵の戦闘実態の証言、あやふやで不確かな「スパイ嫌疑」で、合理的証拠や法的手続きの根拠なく現場将校・下士官のその場の恣意的判断にて、ほぼ私刑(リンチ)の私的制裁の形で繰り返された住民虐殺の現場を目撃した当時の少年兵らにおこなったインタビューにて、そこから得られた証言。(2)本土から沖縄に派遣され少年ゲリラ兵たちを指揮した陸軍中野学校の隊長ならびに現場の下士官ら、実際に沖縄住民の虐殺に手を下したとされる旧日本軍人らの戦時の言動と、彼らのその後(戦後)の追跡。(3)戦中の日本軍にて共用されていた極秘の「秘密戦に関する書類」「戦闘教令」(つまりは公的書類の戦争マニュアル)の掲載・分析の主に3つの内容によりなる。特に(1)(2)の証言は匿名でなく実名であり、元少年ゲリラ兵の人たちに関しては、さらにインタビュー時の顔写真と戦前・戦後の昔の本人写真も掲載されている。

本書がなぜ「証言・沖縄スパイ戦史」のタイトルになっているのかといえば、その「スパイ」の語に込められた意味には次のものがあった。まず、軍の情報機密漏洩が島民によりなされるおそれがあることから、島民同士の密告奨励、それに基づくスパイリストの作成により、さらには日本軍に対する沖縄住民の忠誠を確保するため恐怖に訴えて、時に見せしめの意味で「スパイ嫌疑」の名目で現場の下士官が自ら沖縄住民を日本刀で斬首する、裏山に連れて行き木にくくりつけて銃剣で刺殺する、少年兵同士に同時に銃撃させて処刑する。これらは戦時の軍内部の常用的隠語表現にての「始末のつく」状態にすることである。その他、戦えない足手まといになる自軍の傷病兵をまとめて殺す、食糧供出を拒んだ民間人をその場で日本兵が殺害した事例の目撃証言などもある。

また島の少年兵に「ゲリラ戦」「遊撃戦」と称して、住民の子供のふりをさせ、一度は米軍に民間人の「捕虜」として保護させて、連行の末にアメリカの前線施設の破壊工作をやらせる、子供に「捕虜」の過程で敵側陣地の情報収集をさせ、その情報を後に日本軍に持ち帰るという意味での少年兵による「スパイ」行為の任務遂行命令もあった。これら沖縄戦での住民を巻き込んだ秘密戦の実態が、本書タイトルである「証言・沖縄スパイ戦史」の「スパイ」の語に込められている。本書に当たるものは、このことを理解した上で各人の証言・インタビューを読み進めるべきだろう。

本書に出てくる「護郷隊」とは、1944年9月に発令された大本営勅令によって現地沖縄の14歳から17歳の少年で編成された少年兵部隊のことである。本隊は陸軍中野学校出身の村上治夫大尉と岩波壽(ひさし)大尉を隊長に組織されたものであり、正式名称は遊撃隊。だが任務秘匿のため、あえて「護郷隊」と呼ばれた。本土から来た陸軍中野学校出身の青年将校が、沖縄の少年たちに秘密戦の技術を教えた。護郷隊の主な目的は、第三二軍の本隊が沖縄島南部を主戦場に持久戦に専念する一方、北部で遊撃戦を展開しながら、南進するアメリカ軍の後方から攻撃し、本隊玉砕後も米軍の拠点を撹乱(かくらん)しつつ、スパイ戦にて情報を収集し大本営に送り続けることであった。本書にある31人の「少年ゲリラ兵たちの証言」は、この護郷隊に所属した元少年兵たちの証言である。彼らは戦時に護郷隊に招集され属していた時は10代であるから、本書インタビュー時の2010年代には皆が80歳から90歳代であった。戦後これまで長く自らの戦争体験に沈黙していて、今回のインタビューで初めて人前で語ったとする話も多くある。またあまりに生々しくてこれ以上は詳しく話せないと個人の実名をボカシたり、途中で話をやめてしまう場面も多くある。ゆえに本書での元護郷隊少年兵たちの証言は貴重である。

太平戦争末期の沖縄戦で沖縄の少年たちを集めて護郷隊を組織し訓練・指揮したのは、陸軍中野学校出身の第一護郷隊長・村上和夫と第二郷隊長・岩波壽である。この各人の生い立ちから、戦時の前線で彼らに実際に接した少年兵たちから見た日常の素顔、「なんで隊長であるお前が生きているのか?息子を返せ!」と遺族の母親につかみかかられる非難の中で、それでも村上と岩波により戦後に何度も重ねられた護郷隊少年兵慰霊のための沖縄再訪と、両元上官に対する沖縄住民の複雑な感情、ならびに島民と村上・岩波との戦後の交流の様子を記した「第二章・陸軍中野学校卒の護郷隊隊長たち」の章は本書の一つの読み所であろう。村上和夫と岩波壽、かつての戦争指導者たる上官に対する元少年兵たちの、事後の戦争責任追及の文脈での憎しみ批判の一辺倒でもなければ、戦時に彼らの命令の下で戦ったという旧知の人に対する単なる懐かしさの好感にも回収されない、愛憎の両端が複雑に入り混じる何とも言えない感情の波が元少年兵らの後のインタビューから確かに読み取れるのである。

また「挙動不審につき知名巡査(註─大宜味村・喜如嘉に住んでいた知名(ちな)定一巡査のこと)を只今処刑してきた」「今スパイ二人を斬ってきた」などと集落の村民に住民処刑の断行を公言して一部の島民に恐れられていたという第五六飛行場大隊・紫雲隊・井澤清志曹長に関し、井澤は後に復員して戦後も長く存命していたことから、井澤曹長の遺族に三上智恵が話を聞かせてほしいと連絡を取るも、身内の父のかつての戦時の沖縄住民虐殺の過去を知っているからなのか、井澤の遺族が三上に対し急に不機嫌になり激怒して取材を拒絶する(しかし三上も遺族の警戒・反発を解くべく、戦地での井澤曹長の同僚救出の活躍の武勇伝を話し、暗に井澤をほめる戦略にて話を聞こうと食い下がる)一連のやりとりを収めた「第五章・虐殺者たちの肖像」での「第五六飛行場大隊・紫雲隊・井澤曹長について」の節は、本書を読んでいて私には非常に印象深い。

沖縄戦にてスパイ嫌疑の住民虐殺の事実はあったが、「虐殺した旧日本軍の軍人が絶対的な悪で、虐殺された沖縄住民はどこまでも善」といった勧善懲悪な単純な善悪二元論てあったわけではない。虐殺する側の旧日本軍の中にもスパイ嫌疑での沖縄住民の処刑に消極的だった軍人もいたし、また逆に沖縄島民の中にはスパイ容疑での住民殺害に積極的に加勢し「軍属」(軍人ではないが、あたかも軍人のように行動して軍に協力する民間人のこと)のように、同じ沖縄島民であるにもかかわらず民間の立場から近隣住民に対し高圧的に振る舞う者もいた。このことはインタビュー中の各人の証言を連続して読んでいるとよく分かる。「軍人であるか沖縄住民であるか」の別ではなくて、結局はその人当人の人間としての問題なのである。「証言・沖縄スパイ戦史」の取材・執筆にあたり、著者の三上智恵もそのことを前提とした書き様でまとめている。

他方、個人の人間ではない、大日本帝国の軍隊の権力組織が守るのは一貫して明白に国家の国益であった。戦前の日本の軍隊が最優先するのは天皇制の国体護持であったり軍部の面目だったり、より具体的には直近の日本の領土の確保であり、前線の拡大と戦闘支配地域の維持なのであって、決して国民の生命と財産の安全ではなかった。そのことは本書「証言・沖縄スパイ戦史」での「アメリカと通じたら大変なことになる。事前にスパイは殺せ。スパイを殺しておかないと今度は自分たちが殺される」の論理で軍の監視・指導のもと島民同士が互いに疑心暗鬼となり密告が奨励され、軍の機密保持と威厳確保のために、やがては味方で友軍であるはずの日本軍により民間人の沖縄住民が日常的に虐殺される沖縄戦の惨事にて明確に証明されている。沖縄住民の生命・財産の安全よりは、民間人の島民から日本軍の情報機密が漏れることを危惧して、事前にスパイ嫌疑で味方の日本軍による住民虐殺が日々横行する沖縄戦の過酷な現実であったのだ。

ここでは今日の保守・右翼や歴史修正主義者や戦前日本の天皇制の支持者らが力説するような、「沖縄の人たちも同じ日本人として、太平洋戦争末期の沖縄戦では軍人らと共に日本を守るため戦争協力して現地で勇敢に戦った。少年たちは家族・親族と集落の人々を守りたい一心で若いながらも護郷隊に加わり、皆で協力して最後まで戦い抜いた」旨の「戦争美談」はごく一部のわずかな例外を除いて、その多くが荒唐無稽な虚偽の歴史であるとわかるはずだ。

そして三上智恵「証言・沖縄スパイ戦史」が優れているのは、太平洋戦争末期の沖縄戦を経験した護郷隊の元少年兵たちへのインタビューで得られた証言を通して、「近代日本において日本の軍隊が非常に気を使い常に最優先して守り防衛してきたのは、天皇の国体であり軍の日本の領土であり日本の国益であって、国民の生命と財産の安全ではない。天皇の国体・国益と、国民の生命・財産の安全とを天秤にかけたら、日本の軍隊は前者の国体の安寧・国益の確保を優先順位で取ってきた」趣旨の史実を知った上で、そのことを過去から無心に学ぶ歴史の教訓として活かし、今日の沖縄基地の再軍備増強問題や「スパイ天国の汚名返上」という号令のもとに推進されている特定秘密保護法や、いわゆる共謀罪(テロ等準備罪)の制定に懸念を示して、本書の中で一貫して批判的態度を貫いているところである。

「軍隊が来れば必ず情報機関が入り込み、住民を巻き込んだ『秘密戦』が始まる」というのが過去の沖縄戦を長年取材してきて三上智恵が確信した法則であるという。また「住民を守るための作戦と、軍隊が勝つための作戦は全く一致しない。軍隊は住民を守らなかったという残酷な事実が沖縄戦最大の教訓である」とも三上はいう。加えて今日の沖縄基地問題に関し、「旧日本軍は沖縄住民を守らなかったけれど、自衛隊または未来の国防軍は、旧日本軍の古い体質を完全に脱ぎ捨てて過去の反省のもと有事の際に私たち国民を本当に守る集団であるのだろうか!?」の新旧の日本の軍隊に対する連続した不信の思いが三上に強くあることが、本論記述から読み取れる。

三上智恵「証言・沖縄スパイ戦史」は、過去の沖縄戦史と現代の沖縄基地問題および日本の再軍備問題とを架橋する、近年まれに見る力作である。未読な方は是非。私は本書を強く推(お)す。