まあ、古文漢文は要らないよね。ブコメをスプラトゥーンと差し替えると良く分かる。 (original) (raw)
■まあ、古文漢文は要らないよね。ブコメをスプラトゥーンと差し替えると良く分かる。
昔オレがやらされたんだから、オマエもやれよ。
努力が足りないっていう精神論の土台になってる意味で現代では「積極的に廃止すべき」だとも思う。
ただ、オレの「要らない」ってのは、元増田の主張とは立ち位置が違う。
元増田の「人生を左右する受験に必須とするな」という主張には反論できるんだよね。聞いて欲しい。
そもそもの立脚点(スプラトゥーンとの違い)
高等学校学習指導要領をスタートにするのは同意してもらえると思う。
そうすると、古文漢文って「国語」の以下の6つの科目のうち2つにあたる。
だから、ブコメの「漢文には○○という効能がある」と言うのは全部ダメで、
それを言うなら「漢文」を「スプラトゥーン」に置き換えても同じ論立て出来るよな?ってなる。
その論立てだと反論になってないってのは良く分かる。
だって、スプラトゥーンも短期間でPDCAサイクルを学べ、さらに非言語コミュニケーションを通じて素早くチームでの立ち位置を明確にして、彼我の戦力差からどのように地形を利用するまでを、なんとゲームとして楽しく学ぶことが出来て現代社会を生き抜く必須技法が学べる、とも言えるわけであって。
オレが思うに、元増田は、「スプラトゥーンが受験科目に入っている世界で、それの意義に反発している」と同じなんだよね。
スプラトゥーンに意義があるのは判る。効能も確かにあるだろう、だがそれは受験科目に必須とすべきなのか?と言う。
なぜ漢文の効能を謳うだけではダメなのか
とは言え、ゼロベースで積み上げ式で受験科目を考え直そう!という提言でも無かったわけだし、判り難いとも思う。
だから、何故に「漢文には○○という効能がある」というのがダメなのかを説明する必要がある。
高等学校学習指導要領における、国語の中の古典で謳われている効能で説得する必要がある。
そこを無視すると「歴史はイケメンを口説くのに必須」とかと同じになっちゃうんだもの。
そんなん教師は知ったこっちゃないし、オマエだけだろソレ、みたいなね。
その観点で学習指導要領を読むと、もうブコメの効能とか的外れも良いトコだよね。
- 「古典A」の目標は、「我が国の伝統と文化に対する理解を深め、生涯にわたって古典に親しむ態度を育てる」
- 「古典B」の目標は、「古文と漢文を読む能力を養うとともに、ものの見方、感じ方、考え方を広くし、古典についての理解や関心を深めることによって人生を豊かにする態度を育てる」
古典Aは古典に親しむ態度さえ育てば、一部法律の古文っぽいのを読めるようになれなくても問題ないし、
古典Bは人生を豊かにする態度さえ育てば、読解能力が全くつかなかろうが関係ないんだよね。
本来問題にすべき古文漢文の話は、この学習指導要領における目標の部分であって
「態度育てるだけじゃダメじゃね」とか「態度こそが重要だ」みたいにならんとイカンわけよ。
そして、「古典に親しむ態度を育てるとか人生を豊かにする態度を、現代日本で人生を左右しかねない受験科目に加える意義とは?」みたいな話になって無きゃ全く話しにならんワケですよ。
その上で、元増田の意見には反論できてしまう
オレは要らないと思ってるからそれは後述する。
ただなあ、元増田の「古文漢文が人生を左右しかねない学力試験に必須か?」には、オレは反論できる。
元増田も言っちゃってるじゃん。「"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない」って。
大学受験における入学試験、学力試験な。アレは何を計測しているの?
基本的には「高校卒業程度の学力があり、さらに追加で一定の学力があり、出来の良い方から入れたい」ってことだろ。
要は「高校で学んだはずのことを、より多く吸収できてれば良い」ってことだな。
大学本来の学力試験の意義から考えれば、高校でキチンと学んで基礎を身につけてきたかね?
知識人として育てる/育つに値する人物かね?って問われているわけだ。
「機会を与えられたら、余さず吸収できる人間か?」と問う学力試験において、高校で学んだはずの漢文が身について無きゃ、ほかも推して知るべし、と言われても仕方がない。
だから、高校の学習指導要領に定めがあり、高等学校卒業程度認定試験でも問われる学力を、大学の学力試験で確認するのは、合理性がある。
元増田の意見とは異なるが、オレは古文漢文はもう要らないと思う。
さて、高等学校学習指導要領に定まっている科目の全てが大学入試に要るわけじゃない。
保健体育、芸術、家庭とかね。チョロっと書いたけど、高等学校卒業程度認定試験をベースに軽重付けてるのが現状ってところだろう。
正直に言えば、ワリと古文漢文って入試では軽視されてるから、まあ比率としては現代では既にして小さくなってるとも言える。
古典に親しむとか人生を豊かにとか、いわゆる武家公家の伝統から来た明治の文化人みたいな教養を求めるのは、ちっと早いんじゃないかな、と。
「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」の頃からの残滓に見える、とも言える。
高い学識と深い教養を持った官僚と学者を生み出すために、高等教育を施す場所という意義は、既に失われてはいまいか、と。
だから、高等学校卒業程度認定試験から外すべきだと、オレは思う。
高等学校卒業認定試験が学習指導要領に定めのある全科目を試験していない以上、試験している科目は学力として重視していると考えるのが自然だ。
(大学入学資格検定の時にはあった家庭科が廃止されたのも、趣旨としては同じだろうし)
高校では親しみ、それは高校で学ぶ学力とは別だ、と明確にすべきだろう。
まとめ
元増田の主張は、「古典(古文・漢文)を受験科目に加えるな」だった。
増田への反論は、『大学として「高校で学んだ学力を試験する」のであれば、国語から古典を除くのは不合理だ』になる。
オレの主張は、「古典を学力の一部と看做すのは現代ではそぐわないので、まずは高等学校卒業程度認定試験から外すべき」だ。
学習指導要領の古典の目標をみても(保健体育や芸術の目標に意味合いとして近いのに)学力に含めるのは、現代の高等教育の意義からするとズレがあると思う。
最終的には、芸術や地理歴史の科目として古典を分類し直すのが、筋論としては適切なように思う。
(論語を読むのは芸術だろう。漢文(訓読)を使ってきた長い歴史を理解するなら地理歴史だろう)
「法律文を読み下すため」とか「読解能力を上げるため」とか言うなら、まずは学習指導要領を改定するところからだろうと。
そうじゃない実務的な面でだ!現実を見ろ!というのであれば、
入試程度の古典の知識でその判定してるってマジで主張するつもりなの?とは思うなあ。
漢文の問題で法律文を読む適性を試験してますって真顔で言われたらその大学はお取り潰しで良いのではないでしょうか。
もちろん、古典に親しみ、人生を豊かにする態度すら持てないものが高等教育を受ける資格はない、という反論はありうる。
現代日本におけるトップクラスの実務家たる弁護士が、現代語の基礎たる古典程度追加で勉強して試験を突破できないのであれば、その学力には疑問符がつくので日本でしか通用しない教養であっても歴史的な意義から残すべきである、という主張もありうる。(科挙末期みたいになりそうだけど)
ただなあ、「漢文には○○っていう効能があるよ無知乙」みたいな主張は「スプラトゥーンには○○という効能があるので受験科目にすべき」ってのと同じだと思うよ?