多文化共生フォーラムin富谷に行ってきた (original) (raw)
ブログ書くまでがイベントです。
最近埼玉県川口市なんかが騒がしいですね、アレです、、クルド人がどうのこのと。アレを見てると多文化共生なんて無理なんでは?と思いつつというときに富谷市LINEでポローン♪とお知らせが・・・
来たよ来たよ・・・あぁ、我が街富谷もついに奴らを受け入れるのか?第二第三の川口市になっていくのか?恐怖だ・・・なんて思いながらまずは話を聞かないと分からんよねと行ってきました。
担当者いわく、宮城県も今後外国人を入れていき共生していくのが路線として決定している、そのため今回富谷でこういったフォーラムを開いて市民に聞いてもらいたいとのことでした。
ええ?宮城県が推進して川口市みたくなるの?相当自分はバイアスがかかっている状態で聞いてきたわけです。
基調講演は岩手大学の松岡洋子教授です。多文化共生について語っていただきました。
日本人口については現在、子ども<高齢者の状態になっておりこの状態が続く。毎年87万人ほどが減っておりこれは島根県の人口が一気にいなくなると思えばよい。
また高齢者は待ってれば死ぬじゃん?そう思っても今の高齢者は元気なので100歳人口が増えるのではないか?
日本は世界的に見ても先駆けて人口の少子高齢化に直面している。人口が少なくなって栄えた国は一つもない。
そこで
1.人口が少なくてもやっていける社会
2.外国人を入れてやっていく社会
を考える必要が出てる。というよりそんな考える時期なんてのはとっくに過ぎて外国人を入れる前提でやっていかないと行けない世界にきている。
現状、全国的には外国人比率は2.78%で今年中には3%まで上がるのではないか?と言われている。宮城県内でも1.18%、富谷になると0.45%ほど。
外国人を受け入れたときに起こる事としては、いい面では人手解消、新たな発想の導入、職場が活性化される!などですがそれに引き換え単純労働者を受け入れると最低賃金で働くわけですからそれに引きづられて賃金が低下する、人種間での差別や衝突、と新たな不安が起きるわけです。
さて、多文化共生とは総務省が2006年に既に次のように定義しています
「国籍や民族などの異なる人が、お互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」
下記リンク参照
多文化共生の推進に関する研究会 多文化共生の推進に関する研究会
最終的には地域の構成員として共に生きる事が目標ですが例えばゴミの捨て方一つとっても難しい。日本人の当たり前は彼らの当たり前ではない。常識が違うので言葉が出来たとしても通じないのです。彼らにはゴミを捨てるときの「なぜ?」が分からない。
外国人?英語ができればいいでしょ?英語ができるとは限らないし台湾、中国、東南アジアから来てる方々で英語が出来る人はどちらかと言うと教育の行き届いて高度人材として働いている人たち。そんな人達ではなく英語も日本語も分からない人が沢山最低賃金などでこの世界を支えているのです。そう言う人達を受け入れていかなければならない。
例えば地震が来た!あそこに外国人住んでるから津波が来るから逃げないと!
「津波!ビッグウエーブ!クリティカル!ラン!」
ただ地震にもあったことがない津波の恐ろしさも分からない人にとってはビッグウェーブ!サーフィンか?とかそんな風に常識が違えば言葉が通じても通じ合えないのです。
じゃぁゼスチャーで伝えるか?これも無理。日本人がやるゼスチャーが彼らの常識に合うものとは限らない。お金のゼスチャー一つとっても日本人のやるものと外国人のやるものは異なる。あと自分が知るのでは外国人によってはやっちゃまずいゼスチャーなんかもありますよね・・・
東京オリンピックで絶賛されたピクトグラム。あれを使えばみんな分かるのでは。これも無理。ピクトグラムはその絵で示された行動の内容が分かっている、共通の知識があるからそこ力を発揮するのです。
じゃぁ日本語教育が重要か?日本人が12年かかってやる教育を彼らは日本に来て1年で終える必要がある。到底日本人と同じレベルで常識を備えてというのは無理があるのです。また日本の教育はどちらかと言うと「国民を育てる」という側面があり、その教育カリキュラムを外国人に当てはめるのは到底無理があります。
カオスじゃん!こんなの!
そんなの一般市民に求めるのか!
こんな無理難題のなかどうすればいいのか?というのが本題で、多文化共生にはいくつかのパターンがある
- 同化(郷に入っては郷に従え)
- 統合(多言語多文化主義的)
- 包摂(複言語複文化主義的)
この中で松岡先生は3の包摂(複言語複文化主義的)にキーがあるのではと言う。
包摂という言葉はEUが成立する際に政策指針として使われた言葉らしく言語はフランス語が共通言語か?とか議論があったそうですが、そうはならず多言語のまま統合しました。そのさい「出来る事を出来るところでする、完璧じゃなくてもOK」という概念のようでこれが包摂という事です。「社会の色々な場面でできることを駆使してなんとかいっしょにやっていくこと」
なんとかいっしょにやっていくとしても日本人特有の「察する」という文化は無理なのです。英語なんかの特定の言語がわかればいい、じゃなくて何語を使うかは関係なく何を伝え合うか?が鍵になります。そのためにはコミュニケーションを取る事が重要と。
外国人に対してはコミュニケーション支援として日本語教育を行っていますが、これも先で包摂で書いたように「完璧にできなくてもよい」という感じみたいです。
またこの日本語教育教師については国家資格を作り日本語学校にはこの国家資格を持った人でないと教えられないという事になっているそうです。そうするとその日本語学校に通う子どもたちなどは留学ビザで入国してという理由ができます。(不法入国者ではない)
さきほどコミュニケーションと書いたけど外国人に対し
- ともに学び、働く
- ともに楽しむ
- ともに役割を担う
- ともに助け合う
- ともに課題に向き合う
という事でお互いの違いに配慮しコミュニケーションをとり完璧じゃなくても出来ることをやっていきましょうと。
具体的には
- とりあえず声をかける
- 挨拶をすること
- 楽しめることを見つける
- スポーツ、音楽などでお互いを知り合う
- 知り合う
- お互いの料理、芸能を知り合う
- ともに助け合う
- 防災訓練、ボランティア
- ともに課題に向き合う
- 町内ルール、マナーなど
こうして出来た多様性は脅威ではなく資産となっていくといいます。
以上、松岡先生の言っていたことをざっと書いてみました。間違いがあるかもしれませんが・・・
郷に入っては郷に従えという言葉があるけどこれは受け入れる方にとてはとても楽です。ただそれをやってしまうと彼らの反発などで断絶が起きる。なのでお互いにコミュニケーションを取って知り合い、郷に入っては郷に従えではなく「郷に入っては郷で受容しよう」という事なんだろうなと。
なんと日本的な・・・日本って外国の文化なんかを受容してまた違う形で日本文化にしてしまうところがあるけど、なんか話を聞いていて日本的な・・・と思ってしまった。
アニミズム文化の国、日本。いろんなものを受容してきた先には八百万の神々は外国人も一つの何か?として受容していくのか・・・
先に書いた総務省の多文化共生についての定義もそう思うと郷に入っては郷に従えではなく郷に入っては郷で受容しようを難しい正確な言葉で言い換えたに過ぎないんではと。
しかし聞いていて思ったのは理念的な話はそうなんだろう、うんうん頷ける。お互い断絶してても分からない、コミュニケーションを取って郷に入ってきたら郷で受容しましょうなんだろうけど、例の川口市を見てるとまぁ、、それはそうなんだけど、、、としか思わないんだよねと。
自分がそう言うのをネットやらで見てしまっているのでじゃぁうまくいってるところと逆にうまく行っていないところ、うまくいかない理由と対策とか、郷に受容してみてもどうしても受容しきれないもの(宗教、人種、etc...)はどうすればいいのか?断絶前提で来てる人たちもいます。その場合排除すればいいのか?とかが聞きたかったというのはあります。
それが起こらないようにするには松岡先生の言われる話にエッセンスがあるのでしょうけど(卵が先か鶏が先か・・・)
ただ、聞いててはっと思ったのはこれはもともと日本でもそんなに過激な事をするような人の事ではなく、正規に日本に入ってきて仕事もあり税金も納めて生活しているような人たちのことなのです。
松岡先生曰く、韓国でも同じように技能実習制度があるけど日本より韓国の方が賃金が高いです。なぜ日本なんかに?「日本は安全でみな優しい。じゃなければ来ない」そう考える人達が来るのです。
川口市については不法に難民申請者およびその家族がいついてしまっている、そして行政機構もなぜか放置しているという事で今回聞いた事とはまた別の問題なのですね。
冒頭で書いた埼玉県のこととは一旦置いておいて外国人を受け入れる事について考えなくてはならないのか・・・と思いながら聞いてました。
おわり
下は包摂の説明。うさぎを主人公にして包摂を説明。ネズミにうさぎの言葉を使って道案内しても良い。カエルの言葉が分かるなら話を聞いてもよい。海で自分が困ってることを騒いでいたらイルカが察して助けてくれた。そんな感じの説明