オートファジー1104日目と畑と「信長死すべし」 (original) (raw)

2024/9/20金曜日

4時半に起床。

長女のお弁当のおかず作りを済ませたら6時に畑へ。

ミニトマトは枯れつつあった。

水遣りを済ませたら7時半に帰宅。

シャワーと洗濯と水遣りを済ませたら9時半から読書。

昨日に引き続き岩室忍著

6/9に明智光秀が参内。朝廷は光秀を従三位中将に上階させた。←信長が従二位右大臣だったことを考えると異様な出世。

光秀が信長を討ったことに対する恩賞としか思えない。

ここからは山本兼一著「信長死すべし」から引用。

正親町帝は節刀を取り出した。朝命を受けて叛乱鎮撫などに赴く武将に渡す任命の標の太刀である。それを前久に突き出した。

信長は摠見寺に盆山石を配置。摠見寺は信長自身が神となる為の寺だった。自らの誕生日5/12をお祝いさせるべく祭りを開催する事に。

里村紹巴は奈良の貧しい家に生まれた。父は一乗院という門跡寺院の小者。一乗院は興福寺に属する威勢のある寺だが父は湯屋番に過ぎない。寺に居たおかげで小者の子と言えど読み書きを習う事が出来た。素読も学ばせて貰い漢字も沢山書けるようになった。

そのおかげで奈良の町で呉服商を営む海老屋正雲に連歌を習った。13歳の時、父が亡くなり興福寺に属する明王院に喝食として入った。

歌会や連歌会がしばしば催され勉強になった。19歳で僧侶となった。当時最も人気のあった周桂という連歌師が奈良にやって来た時に入門。そのまま寺を出て周桂の屋敷に住み込んだ。

当代一の連歌師ならば京の公家や地方で勢力のある武家に招かれて連歌を指南する。人気が出れば興行や指南の礼金は安くない。一晩の興行でも数貫文の謝礼が貰える。足軽や小者にしてみれば1年分の扶持である。

周桂は2年後に死去。紹巴は当時周桂と並んで人気のあった谷宗牧の高弟里村昌休の門に入り更に連歌を学んだ。

谷宗牧が亡くなると里村昌休が連歌界の第一人者となった。今度は師の昌休が死亡。紹巴は養子として里村の家に入り子の面倒を見た。この時紹巴29歳。

連歌師は公家達の和歌の世界から一段低く見られている。紹巴は近衛家と三条西家に近づき近衛稙家から古今伝授を授かった。

討伐の標はのちに下賜される。亀山に帰る前に愛宕大権現に参籠せよ。紹巴に供をさせるゆえ、戦勝祈願の連歌を興行するがよい。標はそこにて賜れ。bt 前久

愛宕山の威徳院にて密使の里村紹巴は明智光秀に勅書と共に「節刀」を渡した。

勅書には「ときは今天が下しる五月哉」とあった。

今日はここまで。

「ときは今天が下しる五月哉」は愛宕百韻の連歌会での光秀による発句として知られている。

子の光慶が「国々は猶のどかなるころ」と結句を詠んでいる事もあり、将軍足利義輝公の辞世の句「五月雨は 露か涙か ほととぎす 我が名をあげよ 雲の上まで」と連動していると思っていた。

自分の中では、光秀は足利義輝の奉公衆、且つ義輝側室小侍従の兄の進士藤延。

光慶は小侍従が生んだ義輝の遺児。

それらを念頭に愛宕百韻の光秀と光慶の連歌を見ると興味深い。

http://www.jomon.ne.jp/~kmt/o02-atago.html

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書。

15時過ぎに孫達が来訪。

17時過ぎ

に帰って行った。

そのまま夕食作り。

鯖、シシャモ、サツマイモの茎と蓮根と人参のきんぴら、サツマイモの葉の酢味噌和え、カマンベールチーズ、ツナサラダ。

ウォッカ梅酒ロックを呑みながら美味しく頂いた。

お皿を洗ったら営業終了。

調べ物をしてから寝ることに。

歩数計は9725。

充実した一日だった。