オートファジー1149日目と畑とアーリア人② (original) (raw)
2024/11/4月曜日
4時半に覚醒。
最新情報をチェック後、5時半に起床。
6時にカートに水と苗を載せて歩いて畑へ。
持参したキャベツの苗を定植。
これを撮影した頃から、久々に指向性浣腸エネルギー攻撃を喰らった。
5分程堪えていたが我慢出来なくなり
6:50に畑からカートを押しながら全力疾走。
何とか間に合った。
シャワーを浴び洗濯。
ついでにベランダガーデニング。
8時半から読書。
昨日に引き続き青木健著「アーリア人」
第二章では「ウクライナ平原と中央アジアの草原の覇者としてのイラン系アーリア人騎馬遊牧民」が紹介されている。
興味を引いたのは「スキタイの黄金美術」
紀元前7世紀とかに黄金で様々な物を製作しているて凄くないか!?
「イシュクザーヤ」の名称で知られバルタトゥア王、マドイェス王などの指揮下に略奪行に現れる迷惑な隣人だった。
そのスキタイ人は紀元前7世紀頃、マッサゲタイ族に圧迫され中央アジアから西へ向かい当初はコーカサス山脈に拠点を構えた。
が、偶然にもキンメリア人が出払っていたウクライナ平原が空いていたからそこに潜り込む形で黒海北岸のステップの覇権を握った。
紀元前4世紀からサルマタイ人に圧迫されクリミア半島へ渡り紀元前2世紀に滅亡。
〈スキタイ人とメディア人〉
当時、ここへ定住していたのはイラン系アーリア人の一派であるメディア人。
スキタイ人はメディア人と混住。
前672年、イラン系アーリア人が最初に建てた国家であるメディア王国が成立。
メディア王国はスキタイ人を自らの部族の一部として吸収し強大化。
前612年、メディア王国はアッシリア帝国を滅ぼす。
前550年、ペルシア人がメディア王国を滅ぼす。
ペルシア帝国は中央アジアやウクライナ平原の遊牧民に対して撃って出た。
第一弾はペルシア帝国創始者クル(キュロス王)大王による中央アジアのマッサゲタイ族への遠征。
この時はクル大王が返り討ちに遭い敗退。
それから18年後の前512年、第3代皇帝ダーラヤワウ(ダレイオス)1世がウクライナ平原のスキタイ人に対し遠征。
頻繁にコーカサス山脈を越えてくるスキタイ人を叩いておきたかったか。
ダレイオス1世は七十万の大軍を動員しイラン高原から出撃。
コーカサス越えではなく小アジアから東欧経由でウクライナ平原へ侵攻。
オリエントの古代帝国による対外遠征としては大迂回。
空前絶後の軍事作戦‼️
しかし、黒海を制圧する海軍まで動員し勢い込んでドナウ河を北渡したにも拘らず戦果は芳しくなかった。
スキタイ人は幌車に乗って家財道具諸共撤退していく焦土戦術を取った。
大規模な会戦は一度も起こらないまま60日間の日数と莫大な戦費を蕩尽しただけで撤退を余儀なくされた。
ペルシア帝国による2度の大遠征の対象が何れも中央アジアのサカ人とウクライナ平原のスキタイ人であった事実は古代オリエントを統一したイラン系アーリア人定住民にとっての最大の脅威はウクライナ平原から中央アジアで活動するイラン系アーリア人遊牧民だった事を物語る。
同じイラン系アーリア人による、定住民族vs遊牧民族の様相を呈していた、と。
軽装騎兵での騎射戦術と焦土作戦を得意としてペルシア帝国に苦杯を嘗めさせたスキタイ人にも滅亡の時が。
前3〜前2世紀になるとスキタイ人の首都がクリミア半島に移動。
クリミア半島で遊牧は不可能。コーナーに追い詰められていた。
原因は東方のヴォルガ・ドン河下流域から移動してきた新興のイラン系アーリア人遊牧民、サルマタイ人。
重装騎兵での刀槍戦術を得意とする彼らが軽装騎兵のスキタイ人を圧倒。
スキタイ人の最高神は竈の女神タビティ。この女神がスキタイ王が宣誓する神であり王権を付与する神。
礼拝は馬などの犠牲獣を捧げて行われた。宗教を司ったのは柳の枝を並べて占った占い師と菩提樹の皮を用い占う生殖能力を失い女性化した男性ー通称ー「おとこおんな」
〈中央アジアのサカ人〉
紀元前9世紀の段階で中央アジアに居た遊牧民は民族的に均質な集団では無かった。集団のリーダーとなったのはイラン系アーリア人の言語を話す人々だったにしてもその下に多様な民族を内包。
前6〜前5世紀頃のサカ人にはコーカソイドだけでなくモンゴロイドの形質を持つ人々も混ざっていた。
サカ人はトーテムとして鹿(サカー)を多用したのでサカ人と呼ばれた。→サカー≒シカ?奈良の神の使いの鹿もサカ人に関係ある?
14世紀のモンゴル人が「蒼き狼と惨白き雌鹿の子孫」と名乗っていた。中央アジアに鹿を崇める祖先神話があったか。
サカ人の事跡がある程度判明するのは前6世紀にイラン系アーリア人定住民の一派であるペルシア人がオリエント全域を支配する古代帝国を樹立し彼らと対峙し始めてからである。
ヘロドトスの「歴史」第一巻によればペルシア帝国の創始者クル大王はエジプトを除く全オリエントを征服した後の前530年、中央アジアのマッサゲタイ族を新たな政治秩序の中に吸収しようと北伐の途に。
まずはソグディアナにキュロポリスという城塞都市を築き、マッサゲタイ族の女王トミュリスに求婚。
平和的な併合を画策したものの拒否され戦端が開かれた。
最初は弓射での遠距離戦、次に刀槍での接近戦。
遊牧民に有利でもなかったがクル大王が戦死し、決着した。
マッサゲタイ族は太陽崇拝、聖火崇拝、馬崇拝。
トルクメニスタン西北部にあるイチアンリ遺跡は太陽崇拝と馬の犠牲祭を裏付ける。
〈3種類のサカ人とダーラヤワウ1世〉
ペルシア帝国第3代皇帝ダーラヤワウ1世は碑文で①ソグディアナの向こうの「ハウマ崇拝のサカ人(サカー・ハウマワルガー)」②黒海北岸の「海の向こうのサカ人(サカー・タヤイ・パラドヤラ)」③アム河以北の「尖帽のサカ人(サカー・ティグラハウダー)」と言及。
③はマッサゲタイ族と思われるからこの頃ペルシア帝国に服属か。
このあと、マッサゲタイ族の動静は杳として知れなくなる。
次に歴史の表舞台に登場するのは200年後、マッサゲタイ族の末裔、パルニ族がイラン高原に侵入。
遊牧民が定住民を支配するタイプの初めての帝国を築く前3世紀の事である。
サルマタイ人はスキタイ人とは違いコーカサス山脈を越えて西アジアへ侵入するより東欧へ侵攻してローマ帝国北辺を脅かす方を選んだ。
主としてハンガリー平原でローマ帝国と交戦。状況によってはローマ帝国の傭兵にもなった。←意味不明。You達何しにローマ帝国へ?
傭兵の中にはマルクス・アウレリウス帝によってブリテン島の北方守備に送り込まれた重装騎兵軍もありイギリス北部ではサルマタイ人の遺跡が出土している。
〈サルマタイ人の宗教〉
拝火儀礼を行い犠牲祭の生贄は雌馬でなくてはならなかった。
1世紀初頭に更に東方から中央アジアを起源とするアラン人と称する遊牧民が現れウクライナ平原の覇権を握った。
アランはアーリア人の転訛したものと推定されるから彼らは紛う事なき中央アジア出自のイラン系アーリア人遊牧民。
今日はここまで。
12時半に昨夜以来の食事。
ついでに夕食の下拵え。
15時半に終了後、最新情報をチェック。
アメリカ大統領選挙も目前。
あること無いこと様々な情報が飛び交い、自分は裏取りをする為に検索に継ぐ検索。
11:53には戦闘機が数回に渡って飛来。
丁度、アーリア人について読書していた時な。
17時に到来した嫁も戦闘機の低空飛行には驚いてたで。
17時半に長男一家と夕食。
いなり寿司、茄子とキノコのバルサミコ酢サラダ、白菜と人参の浅漬け、牛蒡と人参と蒟蒻の味噌炒め煮、葱ととろろ昆布のお吸い物、登利平風鶏胸肉。
いなり寿司は嫁が作ってきてくれた。
とりあえずお腹が空いていない自分は離乳食を食べ終わった下の孫を引き取り、抱っことお相手。
そのうち上の孫も食事が終了したので2人とおままごと遊び。
次男も子守を手伝ってくれた。
上の孫は一人遊びが上手に出来るので助かる。
長男夫婦と夫がお腹一杯になったところで18時から次男と食事。
ウォッカ梅酒ロックを呑みながら美味しく頂いた。
20個あったお稲荷さんはほぼ完食。
飲み会で不在の長女に辛うじて1個残された。
19時にお開きとなった。
嫁がお皿を洗ってくれたので、ありがたく読書と調べ物の続きをすることに。
歩数計は6245。
充実した一日だった。