車椅子でゆく大溝城・大溝陣屋総門 滋賀県高島市・湖西路の城下町をめぐる (original) (raw)
大溝陣屋総門と大溝城天守台跡
大溝陣屋 総門(2024年4月1日)復元 記念 特別企画
また勝手に企画したな!
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車いす城郭評論家・アシトド松井
滋賀県高島市の大溝陣屋・総門が復元され観光拠点化されたとの情報が入ってきました。「琵琶湖の周囲の4つの城」についての記事を書いたところですので、湖西路を北上・JR近江高島駅に向かいます。今回は同行健常者1人、ただし写真撮影を依頼したのみで、車イスの介助は行ってもらっておりません。
この記事は2024年4月の状況に基づいています
西側から琵琶湖を北上してゆきます
びわ湖
乙女ヶ池(大溝城の堀としての役割を担っていたそうです)が見えてきました
乙女が池
JR近江高島駅に到着です
JR近江高島駅で記念撮影
JR近江高島駅にはエレベーター・車椅子・オストメイト対応フル規格トイレがありました
大名であっても石高が少なく城をもつことがゆるされなかった場合、陣屋という名の居所をもうけ藩の支配のための政庁としていました。軍事的な意味合いは少なかったとおもわれますが、「小さな城」といった印象をもっています。現地でいただいた「大溝の水辺景観」エリアマップは江戸時代末期の地図と現在(2024年入手)の地図をかさねて見ることができる優れもの。江戸時代・大溝藩主となった分部氏は織田信長の甥で明智光秀の娘婿にでもあつた織田信澄(津田信澄ともよばれますが現地案内図に合わせて織田信澄と記載します)の居城「大溝城跡」をそのまま陣屋として使用していたようです。
下図は地元案内図を基に私が書き加えたものです。
近藤重藏(北方探検家)が大溝藩に預けられていたところ
大溝陣屋総門
ところが総門左右の展示場には車いすでは入れずオロオロすることに
織田信澄(津田信澄)のビデオを遠くから覗き見ることに
びわ湖を使った信長の戦略
びわ湖の周囲4つの城で水運を掌握する
🔥そして本能寺の変
長宗我部征伐のため大坂にいた信澄は孤立することに
こちら側の展示場にも入れなかったよ~!
展示物の撮影の了解をとれたので、このブログをつくりながら、こんな資料もあったのだと感心しています。大溝城の瓦なども発掘されているのですね。
大溝陣屋総門展示物
江戸時代の領主・分部氏の甲冑
大溝陣屋総門裏側の車いす対応トイレ
地域の観光案内拠点となる施設として「大溝陣屋総門」が復元されたのだと過剰に期待していたようで、車いす対応トイレ以外に配慮はされておらず、同行者に撮影してもらえなけわば、展示内容も知ることはできなかったでしょうね。
「渡し板」を準備していただれば、充分対応できると思われますし、車いすの歴史マニアも現実に既に訪れているのです(そんな変わったヤッお前だけじゃ!)。
おねげえでございますダァ。車いすの歴史好きにもある程度のご配慮を、渡し板・スロープ板を設置してくだされいまし😢・・・。
涙ながらの願い出でも直訴(目上の人に願い出る・今日の陳情?)すれば(政治状況・内容にもよりますが
)佐倉惣吾郎様の場合、家族もろとも極刑に処せされたそうです。
(宗吾霊堂のパンフレット、1988年成田市観光案内所で入手を参考に記載)
大溝城天守台跡に向かいます。
乙女が池をわたり大溝城天守台へ
乙女が池は琵琶湖の内湖で、大溝城の堀としても利用されていたそうです。
大溝城天守台
大溝城天守台
同行者に天守台に上ってもらいました
天守台跡現地案内板
大溝城天守台跡全景
石垣などを指摘されないと、ここがお城跡だとは気づかれないかもしれませんね。
それゆえに「兵どもの夢の跡」を感じるのですけど。
行政機関に陳情出来る、ありがたい時代を生きた
車いす城郭評論家・アシトド松井