「戦略論大系」シリーズ再読開始! (original) (raw)

自分は軍事マニアではないが、軍事書・戦史書もポツポツ持っている。

最新書よりは古典が多いが。

戦略理論・思想への関心が強いためだ。

そういいつつ、なかなか手が出なかったのは、ともかく専門性が高すぎ、「どこからどう手を付けていいのか?」が分からなかったことだ。

軍事戦略理論・思想は、相当の「教養度」を要求される、というのが自分の考えだ(軍事マニアを除く)。

政治センスもそうだが、用いられる軍事技術、組織や社会・個人のあり方や心理、その育成、情報・情報発信のあり様、どのような目標へと集約してどう運用するか(それが「戦略」に他ならない)等、ともかくトータルな「文明理解」「人間理解」がカギになる、と捉えているのだ。

大組織の偉いさん辺りになれば、参照できることもあるだろう。

無論、それも軍事知識や関心があればの話だが。

「戦略論大系」シリーズは、独自の理論体系を扱ったものでなく、孫子クラウゼヴィッツ石原莞爾といった軍事戦略思想家の古典(抄出)の集成シリーズだ。

軍事的関心の追い付かなかった自分は、今までに少ししか目を通してない。

「行けるな」と思ったのは、軍事史・軍事戦略理解を深める、自分の中のキータームとなる概念を定位できたからだ。

それがあれば、世界史上のあらゆる時代・地域の戦争史を一気通貫で見ることが出来る。

戦略思想・軍事思想もそうだ。

自分の狙いは、軍事マニアになることでも、戦史研究でもなければ、戦略の単なる学習でもない。

それは手段に過ぎない。

自分の目的は、自分独自の戦略思想・理論体系を構築することにある。

軍人でもない自分がそれをやるのは変か?ということは全く感じていない。

戦争のあり方が、かつてとは根本的に変わったからだ。

一口に言えば、「情報操作と文明社会攪乱・阻害」への移行。

テロリズムも含む)

一方で、軍事戦略そのものは、科学技術自体は大幅に進歩した故の兵器や戦術変化は見られたものの、それらは近代戦の「進歩」の延長線上で殆ど捉えることができる、と見ている。

かつて、「日本人は戦略的思考が苦手だ」という言説が広く成されていたことがあった。

今なお、そう思っている人も少なくないかもしれない。

自分は、「本当にそうなのだろうか?ただトレーニングが成されてないだけではないのか?」という「懐疑」から始まったのだ。

戦略というのは、「フレームワーク」(視点・捉え方)であり、理論的思考・モデリング的思考に慣れていないと、なかなか習得は難しいのは事実だ。

「やろうと思えば誰でも」というものではないし、その必要も実際ない。

「頭脳を伴うリーダーシップ」、または「それを支える頭脳(いわば参謀や軍師)」ポジションを目指す人物には必要だ。

あるいは、大組織ではなくても、ゲリラ的に社会に広いアプローチをしたい人々にも重要な示唆を与えてくれるはずだ。

自分が戦略理論・思想をやろうと思ったのは、哲学との親和性も非常に強いと感じたからだ。

もっとも、始めた時点では、「どう繋がっていくのか?」は全く分からなかったのだけど。

特に、自分の場合は「インテリジェンス(理論)」に対する、深い独自の関心があったから続けられたし、視点を拡張しまた深められたのだと思っている。

もう一つ、「なぜ、今?」というのは、歴史=軍事史を深める知的・時間的余裕が生まれたからだ。

「世界史上のあらゆる時代・地域の戦争史を一気通貫で見る」と一口に言っても、かなりの時間と知的リソースを割かねばならないのは間違いない。

(無論、それをいきなりやるというのでなく、コツコツ少しずつということなのだが)

簡単な作業とは言い難い一方で、ある種の楽観もある。

教養が追い付いたということもあるが、自分なりの「コツ」が見えたというのが大きい。

自分なりのキータームを定位したと述べたのがそれだ。

「戦略」というのは、「戦争をモデルで理解する」カギ概念として機能するが、その場合も、「時代・地域の戦争のあり方の変化」を単純化できる工夫が必要だったわけだ。

既存の軍事戦略思想家というのは、ほぼ例外なく、そのための独自の彼らなりのフレームワークを持っているからこそ、その理論・思想の新規性を打ち出すことが出来ている。

今までは、ひたすらその模索の段階にいたということを意味している。

「歴史」という本領に立ち戻ってみても、「アジア史」「海港史」において、「日本も関与してきたアジアの海戦(白村江、元寇、壬申戦争、アジア・太平洋戦争)を一気通貫で眺める」という課題に、ようやく取り組むことが出来る。

「日本人が戦略的思考が苦手だ」というのは、上述の理論的トレーニングの欠如以外に、政治感覚の希薄さ、または政治構図(または政治史)の理解の困難ということも挙げられる。

「軍事は政治の一部に過ぎない」というのはその通りなのだが、日本では、多様な政治・社会アクターのふるまいとその政治力学の構図の中で「軍事・戦争」というものを捉えなくてはならない。

それは現代でも同じ。

なぜかと言えば、日本は「最大覇権国」(を目指したことはあるが)ではないし、恐らくなり得ないからだ。また目指すべきでもない。

少なくとも軍事的な意味においては。

「戦略」というのは、バランス感やポジショニングの実践的政治性も求められるわけだが、そこで「政治センス」の有無が問われるという訳だ。

「最強」の国というのは、「自分が最も強い」だけに、「空気を読む」ことには鈍感なこともある。(ジャイアンを想起してもらえばよい。笑)

「最強」を目指せない国というのは、クレバーなふるまいや立ち位置により、乗り切るよりない。

随分と抽象的な書き回しに終始してしまった。

が、「戦略」というのは、実際のところぬらぬらと掴みどころがないものなのだ。

これから理解が進んで、自分で理論化・体系化が可能になったとしても、その本質自体は特に変わりはなかろう。