9月15日 (original) (raw)

しかし、こうも自分の日常が退屈なものだと文字によって可視化するとさすがに萎える。
自分の人生なんてこんなものだとは思いながらも、改めて本当に何にもないのだなと思い直した。
まぁこれも普段そんなことすら考えないから、解消するにはお酒を飲んで寝て忘れるか、ここに文字を書かなくなればどうにでもなってしまうのだが。

The Washington Post
Under the missiles : U.N. force caught between Israel and Hezbollah
ミサイルの下:イスラエルヒズボラに板挟みになる国連軍

玄関の扉を開いてドアロックバーを挟むとその隙間からむさ苦しい部屋に風が吹き込んできた。
それ同時に壁の反射光も差し込んできて薄暗い玄関が少し明るくなった。
そのままどかっと玄関に座り込む。
昔飼っていた猫がよくこうやって玄関に寝そべっていた。
猫は家の涼しい場所をよく知っていて、姿が見えず探すといつもどこかしら涼しい場所で眠っていた。

仄かな光の中で近くにあった本の適当なページを開いて目を通す。
大きくないアパートの部屋だったが本棚以外にもいくつかの場所に本が置いてあり、その一つが玄関だった。
開いたのはタイポグラフィの本でエミール・ルーダーという人が書いていた。
読んで気が付いたのだがその日本語版を監修しているのがヘルムート・シュミットだった。
詳しくは知らないけれどポカリスエットのデザインをした人という認識はあって、この本もどこかそういう雰囲気が確かにあった。
今までタイポグラフィという分野に触れたことはなかったが読んでみるとかなり引き付けられる内容だった。

途中台所でグラスに梅酒と炭酸水を注ぎ、そのついでに定規を取り出してグラスと一緒にまた玄関に戻った。
本に載っているタイポグラフィのデザインのいろいろな部分に定規をあてがってみるとキッチリと寸法が取られていてデザインは完璧にコントロールされていた。
デザインもやはり数学なのだ。
しかし本にはこうも書かれていた。

感覚と直感により想像された作品が後付的に数値で、純粋な数理に基づいた作品群に組み込まれてしまったが、その比率システムはそれがいかに洗練されたものであろうと、タイポグラファに代わって特製の相互関係を決定してくれるものではない。
それぞれの要素の特性をよく把握し比率の妥当性を判断できるようプロポーションに対する感覚を磨く努力を怠ってはならない。

これが今のAI全盛時代にどれほど通用するかはわからないけれど、決定権が人間の裁量の元にあるという考えは悪くなかった。

夕方になり暗くなってきて本も読みにくくなったので本を閉じた。
トイレの掃除をしていないことに気が付き慌ててトイレを掃除した。
週に一度のトイレ掃除、これは怠け者の自分に唯一といっていい課しているモノだった。
それを終えると、一日中家にいて外に出ていなかったので申し訳なさげに買い物に出かけた。
18時を越えた外はかなり暗くなってきていた。

晩御飯によだれ鶏を作るため鳥の胸肉を買い千円札を支払った。
ポケットから取り出した千円札が新しい千円札でまだまだ見慣れていなかったから、自分で出しておきながら、おっ、と反応してしまった。