世論世論というけれどー死刑廃止を考えるー (original) (raw)

死刑制度に八割が賛成していることを示す世論、ということがしばしば言われる。先日もインターネット上で、死刑賛成の世論は揺るぎないという主張を目にした。世論から変えようとしてもそれは無駄なことであって、廃止派であってもまずは存置派の考えを一蹴することなく聞くべきだということだった。そこでその訴えていることはひとまず理解したところで、結論から言うとわたしは全くこの意見に賛同しない。その理由と批判できる点をこの先いくつか挙げた後で、少し死刑制度について考えていることを書きたいと思う。

問題となる“世論”

さて、あらゆる場面で言及されている死刑制度に関する“世論”について。これは明示されていない場合でも、約5年に一度行われる内閣府世論調査*1のことを念頭にしていると思われる。というよりそれ以外に死刑に関するこうした規模の世論調査は存在しない。この世論調査については過去の記事の中でも言及したが、国のとる極端なまでの秘密主義による情報の非開示とアクセス阻害、その前提でなされる調査中の設問の恣意性など、その中には多くの問題が含まれている。しかし国は死刑制度を維持している理由として、犯罪抑止効果とされるもの(これについては根拠がない)と併せてこの世論調査の結果を常に引き合いに出している。その実態を隠匿する政策をし続けておいて、その同じ政府が取ってきたものを根拠にしているのである。しかも情報アクセスの問題からだけでも相当に影響があるだろうことは疑いようのない、死刑制度に関する様々なバイアスを考慮する様子は少しもみられない。それは政府にとって都合の良いものだけを選びとって利用するための“世論”にすぎない。内閣府の別の世論調査をみても、例えば選択的夫婦別性について、その導入の賛否に加えて通称使用の選択肢が設けられているという、明らかに意見を分かれさせる意図が読み取れる設計になっているなど、問題が指摘されているのは死刑に関するものに限ったことでもない。他の方法でなされた調査で政府の意見とは異なる結果が出ていても、利用できる結果を導き出せた“世論”は積極的に宣伝するわけだ。それは例えば“民意”という言葉の使われ方にもみられるように、権力が抑圧的政策を実行するための道具として弄ばれている。しかし例え利用価値のあるものが作り出せなかったとしても、知らぬ存ぜぬを決め込むか、挙句は強権を発動して抑え込めば済むと間違いなく政府は考えているーー沖縄県の米軍・自衛隊の基地建設や、関連する事故や暴力や環境破壊に対する日本政府の態度ひとつとってもそれは自明のことであろう。この国の政府にとって“世論”などとは所詮その程度のものであり、情報をコントロールする権力まで行使した状態で、さらに結果いかんによっての取り扱いすら意のままに、まさに政府の独擅なのだ。

複雑だった“世論”

では、そうした政府の権力から離れた仕方で行われた死刑制度についての調査というものはないのだろうか、というとそれはある。佐藤舞とポール・ベーコンらが行った2015年の調査*2がそれで、内閣府調査と概ね同じ条件でなされるミラー調査、質問文を変更した上での調査、存置・廃止に関わらず様々な立場からの意見を述べるゲストが参加する形をとるセッションを事前に行う「審議型意識調査」など、内閣府のものと比較してより詳細な内容である。簡単に説明すると、死刑存置の立場であっても選択肢を増やしたり質問を変えたり、前提となるものの内容によっては決して全員が積極的に存置を主張するわけではないし、意見も多様で変わり得るものだということが示されている。

その中でも興味深いのは、質問文を変更した調査のなかの「死刑制度の将来を誰が決定すべきでしょうか」という質問に対して「専門家や国家機関」と「内閣府世論調査の結果によって」と回答したひとが共に40%であったことだ。これだけ“世論”なのだと政府は持ち出しているけれど、意外にも内閣府世論調査が積極的に重視されいるとまでは言えない可能性が示されている。そして、死刑は「絶対にあった方が良い」「どちらかというとあった方が良い」と回答したひとのうち71%が「(もし日本政府が死刑を廃止したら)政府政策として受け入れる」と回答している。この質問の回答からは権威主義的な傾向を感じる部分もあるが、ここでもやはり政府による秘密主義が関係しているとわたしは思う。誰かが決めるだろうとか、政府が決めたのなら従うはずだとか、そういった態度を批判することもあるいは必要だろうしそうすることも可能ではあるが、しかしその前提となる情報を政府が隠している現状を鑑みれば、まずその状態こそ批判されるべきでものと考える。

さらに事前のセッションを伴う「審議型意識調査」の結果から、全体として死刑存置・廃止・どちらともいえない、が大きく動くということはなかったが、それでも調査前にどの立場にあったとしても明らかに意見を異にする立場からの影響を受けたことがわかる。例えば存置の立場なら、死刑はあった方が良いがしかし冤罪のことを考えるとーーというように死刑制度の問題点を意識するようになるであるとか、また廃止の立場なら、意見は変わらないが自分が被害者遺族の立場になったと考えれば気持ちが揺らいだーーといったふうにである。つまり情報が隠されていたことによって、“悩む”機会すら奪われていたともここから考えられるのではないか。特に存置の立場のひとたちにおいて、多数派であることも理由のひとつだが、意見の多様性がより顕著にみられる。政府の秘密主義を批判してきたが、この点は特にマスメディアの責任も非常に大きい。死刑制度の問題点が取り上げられることがあまりにも少ないうえに、仮にテレビ番組などで出演者が「死刑賛成八割」とだけ発言したとすればどうだろう。注意を引きやすい文句や数字を優先的に取り上げ、その背景にある問題点などへの言及は省略されがちだ (特にテレビでは実際にそういう場面を幾度となくみてきた)。加えてそんなメディア環境のなかで繰り返し“犯罪の増加”や“凶悪化”などという、事実に基づかない煽りのような報道がなされたり、厳罰化を推し進める方向に率先して協力的な態度をみせたりする。“世論”を作り出している片棒をかついでいる自覚はあるのかと問いたい。

まとめ

死刑廃止論を否定するために持ち出される“世論”とは、つまりその中身が検討されることがほとんどないままに、その実態ではなく強調されすぎた“死刑賛成八割”という言葉だけが次から次へと流される、わりかしぼんりとしたイメージなのである。しかしそれは制度の可否を考えることにおいて強調できるほどには考慮されない。むしろ尊重されやすいのは権威やその決定した政策の方である。引用した佐藤舞とポール・ベーコンの調査の中でも、裁判所や裁判官、病院や医師、そして大学や教育機関に対する信頼度は比較的高いという結果が出ている。そうした権威やそれをまとった人物が、問題点を隠したまま“世論”というこれもまた政府という権威を後ろ盾にした“情報”を繰り返し宣伝すれば、その効果のほどは絶大だろう。さらに死刑制度があることが意識されにくいほどに当たり前になっているということの弊害や、そこから生じるバイアスもあるだろう。例えば死刑を廃止・事実上廃止している国や地域は150近い*3という話をすると、かなり驚きのリアクションが返ってきたということは一度や二度の体験ではないし、これに近い場面に合ったことがあるひとも少なくないだろうと思う。これもまた情報に関する問題でもあるわけだが、わたしを含めて多くのひとが死刑制度がある社会で暮らしているうちに、それがない状態を想像することがなかなか困難な域に達している可能性もあるのではないだろうか。

“世論から変えようとしても無駄だ”という反論は、秘密主義にもとづいて情報管理をする政府によって、多くの問題が含まれたままに行われた“世論”を前提としているか、それを元にした“死刑賛成八割”という部分だけが強調されたイメージに基づいている。その“世論”を変えるには、その前段階から情報環境のあり方を修復するか、設計をより充実したものにするか、その調査自体をやめるしかないだろう。佐藤舞とポール・ベーコンの調査のなかでは、限定的ではあるが多様な意見やそれが変化する様子が示されてもいた。当然のことではあるが、実際には一人ひとり異なる多様な考えや想いがある。それぞれに立場も違えば背景も違う。そうした細やかなものは決して“世論”に反映されるものではないのだ。しなければならないことは、そうした多様な想いが恣意的に薄められた“世論”を引き合いにして、ある意見を封じ込めようとする権威主義的振る舞いではなくて、死刑制度に係る問題点を全て明らかにするために、秘密主義を堅持するために全力を注いでいる政府にまず全ての開示を要求することだろう。話を聞くにも、議論をするにも、わたしたちは常にその邪魔をされているのだから。

政治的な思想や主張をなるべく控える論調が賞賛される傾向がある。“声高に主張することなく”という類のものが褒め言葉になっている。現状、死刑廃止を訴えることには様々な困難があろうと思う。正直に述べると勇気が必要になってくる場面も多々ある。それによって罵倒されたり怒りを向けられることもあるからだ。わたしもこちらの考えは全く受け付けてもらえないまま、人格否定的な言説を投げつけられ続けたという経験は幾度となくある。これだけ話を聞いてもらえなかったのに、話を聞くべきだという批判だけは延々されるのかと思えば、いい加減いやにもなってくる(どうでもいいけどわたしは結構相手の話を聞く方…のはず)。それでもわたしは繰り返し声高に死刑廃止を訴えたい。例え今はそれは控えろと妥協を迫られたとしても、声高嫌悪を示されたとしても。わたしたちの生命の問題だ。声高でなくてどうする。

お終いに、死刑廃止の立場であっても、その理由についての回答を見ると、誤判・冤罪可能性と並んで「生かしておいて罪の償いをさせた方が良い」が半数近い。これは内閣府世論調査でも引用したミラー調査でも近い結果だった。この選択肢の文からしてどうかと思うのだが、権威主義的傾向と厳罰主義的傾向というのは、別に存置であろうが廃止であろうが立場によっての大きな違いは実はないとも言える。“命をもって償う”のか“生かしておいて償う”のか、その結果としての差は言うまでもないことではあるが、しかし両者の間には権威主義と厳罰主義が共通して存在している。そうした点から考えたことを次回の記事に書きたいと思う。