2014年2月14日、雪予報 (original) (raw)
ファン有志による「ナショナル・シアター・ライブ(NTLive)アドベント」企画参加エッセイ、8日目です🎄
「あしたはわりと激しめの雪」
この予報はヤバい。埼玉県の中央部、というより北部の南端って感じの居住地から、TOHOシネマズ六本木まで往復しようという日に。「バッチさん観られないかもしれない」わたしと母は、一度はそう覚悟した。2014年2月13日のことである。
ナショナル・シアター・ライブとは《英国ナショナル・シアターが厳選した、世界で観られるべき傑作舞台をこだわりのカメラワークで収録し各国の映画館で上映する画期的なプロジェクト》*1である。その日本版の第1弾は『フランケンシュタイン』、怪物と博士をベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーというふたりの「シャーロック俳優」*2が役替わりで演じるという。カンバーバッチに関していえば、映画『ブーリン家の姉妹』や『つぐない』で見知った脇役を経てドラマ『SHERLOCK』での華やかな主演(のひとり)を存分に楽しんだころだった。わたしの思いをわかりやすく括れば、「バッチさんの舞台でのお芝居も観たい」である。
そのころ、我が家では病気だったり要介護認定を受けてたりする親族が全員存命だった。自宅に父、自転車で30分の距離の介護施設にふたりの祖母、都内にひとり暮らしの基礎疾患持ちの叔父。叔父が主に必要としていたのは家事家政労働だったから「介護」とはいわないかもしれないが、わたしとしては4人まとめて被介護者である。主たる介護者は母、従たる介護者はわたし。
同じ施設の別フロアに入居している祖母ふたりは、すでに家族による日常的ケアからは離れている。ただこのとき、母方の祖母が体調を悪くして入院していたため、その手続きや見舞いでいろいろと動く必要があった。母もわたしも週5ではないにしても働いている。家を空けることも可能なように、父のショートステイの日程を調整した。祖母の入院生活の展開にあわせてさらなる延長もあり得るし、それが希望通りになるかもわからない。あと今回この文を書くにあたって確認したらついでとばかりにソチ五輪期間中で、フィギュアスケートにわあわあ歓声と悲鳴をあげていました。いっそがし〜。
そんななかで父のショートステイ日程調整がうまくハマり、常なら断念する夜19時台の、ふだん行かない映画館でかかる「ぜったい観たいバッチさん」なのに、雪である。ここにきて夜の上映回のみというのが痛い。雪はその夜にかけて強くなるとかいうので、交通機関がとまる可能性もある。そして事実確認できるソースを示せないまま勢いで書いてしまうが*3、なんか当初、ナショナル・シアター・ライブのチケットは映画館サイトでは購入できなかった。チケットぴあでのみ取り扱いがあり、座席指定もできなかった。そんなことある? と思うのだが、自分のうろんな覚え書きによるとそうである。すでに購入済みだった14日夜のチケットがどういう形態だったかも覚えていない。しかし雪予報はあきらかにヤバいのだった。
ところがそんな不安に揺れてた13日の夜にTOHOシネマズ六本木のサイトを見てみたら、13時台の上映回が出現していて、しかもふつうにその場で購入できるようになっているではありませんか。「出現」と書いたが、たしかに以前はなかったのにいまみたらあった、という気持ちを覚えている。どうする? 買っちゃう? 行っちゃう? 行っちゃえ!
そんなわけでわたしと母は夜の回を捨てて、昼の回の鑑賞を決行することにした。14日当日は朝、まず祖母の病院に行って、そこから直で駅に向かっている。雪はそのときから降っていた。
ところで六本木ヒルズといえば、森タワーの53階に森美術館がある。わたしは常々、チケット売り場に行くまでにまず塔みたいなものをぐるりとのぼってそこから空中渡り廊下的通路を進むあの動線に騙されている気がしてならない。わたしが場慣れしていない物知らずだからああいう動きを取らされているだけで、もっとスマートな最適ルートがあるんではとあやしんでいる。それと似た思いを、同じヒルズ内のTOHOシネマズ六本木にも感じたのがこのときだ。
雪が降るなか、まずTOHOシネマズが入ってる建物にいたる外の階段をのぼっていった。この映画館にくるのは初めてだった。この階段は楽しむ用で、歩くのに不自由がある人や荒天時用に、どこか建物内から垂直移動できるルートがあるんではないかと訝しんだけど、どうも正しい道らしい。そこから建物にはいってエスカレーターをあがったり時間を遡る際にみるまぼろしみたいな廊下をとおったりどこかのタイミングでチケットを発券したりした。何番スクリーンだったかはおぼえていないが、入った空間は広大といいたくなるほど大きく、最後列に近い位置に席をとったわたしたちの視界は、ほぼ空席だった。かなり前方の席にひとり客がいたきりだったと思う。
すでにあった分を反故にしてまで前日に急遽とったチケット、荒れ気味の天気、人のいない映画館。ちょっと浮き足だった心持ちで臨んだ『フランケンシュタイン』(怪物ミラー、博士カンバーバッチ)鑑賞は、すばらしい没入感を齎してくれた。
舞台って、おもしろい。
セットの妙を、曲の印象を、俳優の芝居を、なんておもしろいんだろう! と語り合いながら建物をでた。雪はずっと降りつづいていたようで、段差がわかりにくくなった階段を横向きに一段ずつ、足を揃えながらおりた。行きは動いていた階段横のエスカレーターは止まっていた。電車は地下鉄以外も運行していて、問題なく帰れそうだ、昼の回に来てよかったと頷きあった。祖母の病院から着信があったことに気づいた母が途中駅で折り返し連絡し、差額ベッド代や買っておく備品の話をしていた。いつ、だれに、なにがあるかわからない。祖母ふたりに、父に、叔父。それぞれに状況や病状が異なり、必要なケアが異なり、不測の事態はいつでも、場合によっては複数同時に、起こりうる。それがわたしたちの日常で、そしてその日常にナショナル・シアター・ライブを加えることに躊躇いはなかった。これから公開されるものも、がんばって観にいこう! これ、すっごくおもしろいから!
実際に、その年に日本で公開されたナショナル・シアター・ライブの作品を、わたしと母はすべて、作品によっては2回、鑑賞している*4。
(以下、写真はすべてNational Theatre Live IN JAPAN 2014 劇場プログラム*5のものです。本記事に対して従属的な引用の範囲内と判断し、また画像から読みとれる文章は公式の作品紹介と考え、特にマスキングせず掲載しています)
フランケンシュタイン
ジョニー・リー・ミラー/ベネディクト・カンバーバッチ役替わり主演
ザ・オーディエンス
ヘレン・ミレン主演
ハムレット
ローリー・キニア主演(プログラムはロリー・キニア表記)
オセロ
エイドリアン・レスター主演
この作品群のなかで、もっともわたしにぶっ刺さったのはサイモン・ラッセル・ビールの『リア王』である。「老いた王が判断を誤ってひどい目に遭って後悔する」くらいの雑な認識でいたのだが、開幕ほどなくして、ああ、と思った。あまりにも見覚えのありすぎる姿だった。
ああ、リアは、病を得ているのだ。
サイモン・ラッセル・ビール演じるリアの立ち姿だったか、体の動かしかただったか、不安定な情緒が噴き出す有様だったか。どれもあまりに的確だった。ハッとする、までもない。ほんとうに、ごくごく当然のように、わたしはリアが病気であることを「思い出す」くらいの感覚で理解した。父に、ものすごく似ていたからだ。
「老いた」王が「判断を誤る」、こう書いてみれば自明のようだ。だれにでも起こる可能性のある、認知機能の衰え。二幕冒頭に流れたインタビューでは、サイモン・ラッセル・ビールが参考にした患者の具体的な病名も挙がった。それは父の診断名とは異なるが、症状に重なる部分があるため、よく目にとまるものだった。そしてわたしが揺さぶられたのはリアを父に重ねたからではない。わたしは、わたし自身を次女のリーガンに重ねていた。
劇中のリーガンは、リアを愛していないくせに、派手なパフォーマンスでそうであるように見せかける。そして愛するふり、の必要がなくなれば、いくらでも残酷に振る舞う。とても身に覚えがあった。
父がまだ健常な機能を保ってるようにみえていたころ家族の一大事が起きて、そのとき、父は母とわたしの焦燥をまったく共有してくれなかった。いまから思えば病のせいで、事態を理解把握しづらくなっていたのだろう。でも当時のわたしにとって父のその態度は、あまりに無情だった。この人は母が、わたしが大事に愛するものを、同じようには愛していない。おそらくは母の、わたしのことだって愛してはいない。ならば自分がこの人に親愛の情を持たなくても、まったく悪くないだろう。その一件以降、わたしの父への態度はある意味おだやかになった。
そういう状況にあって、劇中のリーガンの態度が、わたしにはこうみえた。「自分を10も愛していない父が100寄越せというなら、自分は0を200にも見せかけてやろう」。その気概に惚れ惚れと共感して、とにかくリーガンに惹きつけられた。(……まあ彼女はその後ケント伯を大胆に足蹴にしたりいつのまにかエドマンドに懸想というか発情しててお姉ちゃんのゴネリルと「夫よりいい男」の取り合いみたいなノリになっていくんですが……なんでぇ……)
わたしはいちばん扱いにくかった時期の父に対して、母よりも忍耐強く誠実に接していたようにみえただろう。それは単に「あしらい」がうまかっただけであり、父への慕わしさをないものにしたからこそとれた態度だった。冒頭のリーガンの振る舞いもそれと同じだったろう。
そんなわけで、雪をおして出かけたところからはじまったナショナル・シアター・ライブ日本版の、初年度はとりわけ思入れ深い。翌2015年以降は、すべてに通うことはできなくなった。なんでだっけなあと確認したら、2015,16,17年はさきにあげた被介護者のだれかしらが亡くなっている。父は2016年に、そしてあの雪の日に入院していた祖母が逝ったのは、すこしあいて2021年のことだった。いまはもう全員いない。それはしがらみを手放していくことでもあったけど、やはり人が死ぬとやることは多いし、わたし自身も不調があって仕事をやめたりなんだり新しい仕事に就いたりやっぱりやめたりして、そのまま賃労働には就いていないし、かつてのスキあらば出かける! みたいな旺盛さは減じつつある。
そしてなにより2020年からは、COVID-19である。ところでわたしには兄がいる。2014年当時もいまも同居中で、「家族の一大事」のときはひとり暮らしだった、一大事の当事者だ。そのときの結果として右前腕がない。その兄は当時もいまも職場は変わったものの福祉施設に勤務しているので、同居の母やわたしがCOVID-19にかかり、兄を経由して施設で蔓延させるわけにはいかない。そう考えて、わたしたちは2020年3月以降、通院以外で公共交通機関をつかった外出をしなくなった*6。これはいまでも継続中で、そうしたほうがいい状況にあり、それが可能だからしているまでで、だれもがこのレベルで蟄居していたら社会が立ち行かない。ただCOVIDにかぎらず感染症流行期には、ユニバーサルマスキングを実践してほしいなあとは思っています。冬場は顔もあったかいよ。
現状、ナショナル・シアター・ライブに限らず、劇場や映画館でのあらゆる体験から遠ざかっている。COVID-19以降に増えた舞台作品のライブ配信がほんとうにありがたい。ナショナル・シアター作品については、家で英語字幕つきでみる方法がないではないとうっすら把握しているが、自宅であの劇場での集中力を発揮できる気がしないので、とりあえずは保留である。しかしまるで道がないよりは、いざとなったらおうちでナショナル・シアターという選択肢があるのは心強い。もう10年あとには配信でも日本語字幕つきが実現しているかもしれないし。そんなことを思いつつ、いまはSNSなどでみなさんの感想をつまみぐいするばかりである。
あす12月9日の更新は麻さんのエッセイ、まさにうえにあげた National Theatre at Home の話題が読めそうです!