明るい傘 菅沼亜由美のブログ (original) (raw)

ブロックってのは相手と殺し合わないための思いやりなんだから、感謝とお詫びだけしてればいいんだよ。文句言うな。差別でも排除でもない。

ブロックとは、「あんたのことは殺さないけど、そばにいてほしくない」という意思表示。

まあ、先住民や障害者相手にそれを言ったら差別や排除にはなりうるけどな。それを言葉に出さずにやんわり示すのがブロック機能なのだ。

けどまあ、いざブロックされたら、自分の手足にに冷たい刃物をしこたまぶっ刺された気持ちになる。おでこに「いらない子」の烙印を押された気分になる。

ブロックは思いやりなのか、排除なのか。両方の面があると思う。

SNSで揉まれていると、社会そのものがトーナメント戦、デスゲームに思えてくる。殺される前に殺す、排除される前に排除する、そればっかり。

今度は誰が殺されるのか、殺されないために何ができるか、今度は誰を殺してやろうか、そういう事ばかり考えて、みんな生きている。

ただでさえ自分の生命が脅かされているのだから、他人に思いやりをかけること自体がリスクとなる。「敵を愛する」なんて以ての外だ。

私たちが望んだのは、こういう社会だったのか? 殺し合いしか知らないから、そうしているだけではないのか?

「殺し合い・奪い合いそのものを考えつかない社会」を想像したり、知ってみることはできるのではないか? まあそうするだけの余裕すら、資本家に奪われているのだろうけど。

今この時代に、スマホやパソコンを持ち、SNSのアカウントを持っているということ自体が、デスゲームに参加しているということなのだ。

ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』を完読したい。

元から怒るのが大好きで、怒る材料を探して、見つけたら思い切り怒って殴って楽しむ人たち。

彼らは自分のことを「高潔な人間」と思いたがるが、本当は決してそんなことはなく、傍から見ればただの「いじめ好き」である。

彼らは自身の下劣さを他者から指摘されると、烈火のごとく怒り出し、「自分は差別を受けた。自分は被害者であり、何も悪くない。悪いのは全部あいつだ」という確固たる世界観を前面に押し出す。

彼らは社会からよほどひどい虐待を受けてきたのだろうが、彼らは「弱者」「ケアの対象」と見られる事自体を「差別」「屈辱」と見なす。施しを受けないことを誇りに思っているのだ。

そういう人は放置するしかない。

こういう時に私の「お節介焼き」という性質は仇となる。他人に関心を持ちすぎないことを心がけたい。

安倍晋三の、周辺国への不信や、集団的自衛権の行使容認や、軍備増強は、「自分の周囲の人間は基本的に敵であるから、信用ならない。他人を当てにせず、自分が強くなって身を守るしかない」という彼個人のメンタリティから来ているのではないか。

安倍個人の世界認識もなかなか過酷だったのではないか? 自己責任論そのものじゃないか。

「世界は自分の敵であるから、生きるためには絶えず闘争せねばならない」という世界観は、虐待された人特有のものかもしれない。ヒトラーも虐待されてたし。

そういう人って、世界への不信感と被害妄想と憤怒がものすごい。また、「強くあること、正しくあること」への執念が強く、他人から間違いを指摘されただけで、自分そのものを否定されたように感じてマジギレする。

また、プライドが高く、自分のことを「弱者」「施しを受ける人」と思いたがらない。人にも頼らないし、頼らないのがかっこいいと思っている。

だから虐待は悪なんだ。こんな人間を生み出す行為が許されていいはずがない。

虐待された者が他人を虐待するという虐待の連鎖を止めるすべはないのか。連鎖の末端にいる人がちゃんと我慢することが大事なんだろうな。連鎖を止める覚悟が大事。

私も虐待されてきたので、先に挙げた自己責任論と似たような価値観を持っているが、それでもやっぱり、まだ心に余裕があるかなと思う。お受験や長時間低賃金労働をしてないからかもしれないな。

私はやっぱり幸せな人間なんだ。嫉妬されたり嫌味を言われたりするのも頷ける。仕方ない。

私にきつい言葉を投げた人を助けるために、お受験も賃労働も無くしたい。でも、自分の力では何も出来ないから、お金に余裕が出来たらグリ下で炊き出しでも出来たらいいなと思う。

一番不幸なのは、私にきつい言葉を投げる人たちだ。その人たちこそ救われるべきなのだ。

こんなこと言ったらその人たちに「キモ!」「しね!」って言われそうだけど、だからこそ彼らは救いの目当てとなるべきなのだ。暴言とは救いを求める叫びなのだから。

Nさんという女性が、B氏という年上の反差別主義者の方から、ご自身のマイノリティ属性を理由としたハラスメントを受けたことを、noteというサイトで告発しています。

Nさんのnote

https://note.com/brave_eagle185

私はNさんとは面識がなく、ネット上でのつながりしかありませんが、Nさんのことが他人事とは思えず、ここに書くことにした次第です。

NさんがB氏と出会ったのは、BDSMコミュニティでした。B氏はNさんがご自身のマイノリティ属性をカミングアウトした途端、タメ口を利くようになりました。本当に失礼だと思います。

Nさんによると、B氏はNさんに対し、「パートナーにはなれないが一度なら抱いてやるかもしれない」と上から目線で発言したり、Nさんとビデオ通話をした時に失礼なコメントをしたり、Nさんに痩せるよう指示したそうです。

Nさんの体型については、私はよく知りませんが、Nさんが痩せよう痩せようと頑張っているのを見ると、私のムチムチの腹肉や太ももを見せてあげたくなります。こんな体型でも、愛してくれる人はちゃんといるのです。

NさんはB氏の件で、自殺未遂をしたり、摂食の問題を悪化させたりしました。B氏はNさんの心の傷や深い苦しみに、目を向けるべきです。

反差別を名乗っていながら、人の見た目をけなしたり、差別をするような人間は、似非というほかありません。私自身もそうならないように自戒したいと思います。

「承認なんか求めたら殺される人たち」って、結構いるもんだな。悲しい。日陰でちまちま図太くやっていくしかない人たち。「反差別」を名乗る人たちに限って、彼らを弾圧する。「反差別」の人間として強く自戒したい。

自分で自分を承認すればそれで十分なんだ。それ以上のことを求めちゃいけない。「世間から承認されたマイノリティ」を横目で見ながら、日陰でちまちま図太くやるしかない。

どんなに人権思想が浸透しても、救済を後回しにされる人たちはどうしても出てきてしまう。救済自体あるのかどうかわからない人たち。救済なんかなくても、生きていくしかない人たち。

そういう人たちにこそ、心のなかで精一杯の拍手と、「黙って通り過ぎる」という名の尊重と思いやりを贈るべきなのだ。

人を恫喝する人は、恫喝され、恫喝を見聞きして育ってきたのだろうか。恫喝されなくても、恫喝を見聞きしなくても、恫喝するようになるのだろうか。

私は、恫喝する人に強い嫌悪と恐怖を抱きつつも、同時に愛着と憧れも持ってしまう。やはりその人から「強い個体」の匂いを嗅ぎ取るからだろうか。これが犯罪性愛という性的傾向なのだ。誰の中にも多少はあると思う。

恫喝することを「学習」する人、恫喝する人への憧れや服従を「学習」する人……サディズムマゾヒズムも本能的なものだが、「学習」するものでもある。

ロリコンだってそうだ。幼くて可愛らしい女の子に愛着を抱くのは本能でもあり、「学習」の結果でもある。同性愛、異性愛もそうではないか?

とある民族的マイノリティの方に絶縁宣言された。

曰く、「朝早くや夜遅くに電話してくるな。あと、フェイスブックにDV被害のことを書くな。見たくない。書くくらいなら警察に言え。俺はあんたのことを理解する頭がない。だからもう関わるな」と。

私はその方に絶縁されて、その方の同胞全員から絶縁されたような気分になった。そして、「引きこもりたい、自分はいてもいなくてもいい存在だ、死んだって構やしない」と思うまでに気分が沈んだ。

しかし、もうひとりの私がこうコメントした。

「お前さ、その人は〇〇民族の代表じゃないんだぞ? その人に嫌われたからといって落ち込むな。人間は山ほどいる。一人の人間に嫌われただけで、どうして世界全体から嫌われたと思うのかね? ただその人との相性が悪かっただけだろ?」

その言葉を聴いて、私は、心理学者エーリッヒ・フロムの著書『愛するということ』に引用されていたタルムードの一節を思い出した。

「一つの命を救ったものは、全世界を救ったも同然だ。一つの命を滅ぼすものは、全世界を滅ぼしたも同然である」

それならば、

「一人の人間に歓迎されたものは、全世界に歓迎されたも同然だ。一人の人間に拒絶されたものは、全世界に拒絶されたも同然である」

私はタルムードの筆者と同じ感性を持っているのだ、と感慨深い気分になった。

そう、一人の人間そのものが一つの世界であり、個人と世界は密接に結びついている。個人の運命と世界の運命は軌を一にしている。私が幸せになれなければ、世界も救われない。

今、ユダヤ人はパレスチナ人を虐殺し、世界から非難されている。私も虐殺には反対だ。それでも、ユダヤ人やユダヤ教、聖書やタルムードへの興味や親近感は捨てきれない。むしろますます大きくなっている。

せっかく家に岩波文庫の文語訳聖書があるのだから、読もう。

追記

私と絶縁した民族的マイノリティの方については、絶縁の理由が厳しすぎると思うが、これがカタギであり、世間なのだと思う。

カタギの人からしたら、私のような発達障害者なんて「ろくでなし」なのだろう。発達障害者たる自分の社会的立ち位置がよくわかった。

私は世間からすればヤクザのような存在である。

カタギはカタギと付き合えば良いし、ヤクザはヤクザと付き合えば良いのかもしれない。

私はそもそも人間として見られていない。汚くて、臭くて、醜くて、物の数にも入らない、どうでもいい、消えてもいい命なのだ。実情がどうあれ、世間から私はそう見られている。

私は、人権活動を通じて、そのような恐ろしい認識を得たのだから、人権活動から出ていくほかない。

ところで、私と絶縁した方は、私と喋っているときに、声を荒らげることがあった。

たぶん普段からマジョリティ民族に対して感じている慢性的な怒りを吐き出すために、私を使ったのだろう。

私は小柄で気弱な女性なので、安心して当たれるのだと思う。

まあ、そんな怖い人と縁が切れて良かった、と考えることにしよう。