『桶狭間合戦で「信長・六角」同盟が存在か : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)』へのコメント (original) (raw)
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toronei こういう新しい話がどんどん出てきてるのが、いまの戦国研究なんだよなあ。
kazuya53 桶狭間に織田方として六角軍が参加していただけではなく小牧山城の石垣が六角氏の技術支援で作られた可能性もある、と。全く知らなかった。驚いた。
reachout 桶狭間の時点ではまだ美濃は斉藤家だし、六角と敵対する理由がないような・・・ただ六角の軍勢がどこから来たのかは??伊勢からかな。
bt-shouichi 六角からの援軍がいたという史料があったが、黙殺されていた。ところが六角氏が離反したため幻となった1566年の信長上洛計画についての書状がみつかり、逆に言うとそれまでは友好関係にあったと考えられる、と
mfluder "織田軍の戦死者も990人余り"織田軍の戦死者のうち272人が近江国(滋賀県)の大名・六角ろっかく氏からの援軍だったと書かれている"書状は、室町幕府に仕え、江戸時代には熊本藩細川氏の家老となった米田家伝来
sharia なんか最新資料に基づいた大河信長を見てみたくなった。
k-holy 永禄元年11月に将軍義輝が六角の仲介で三好と和睦して帰洛、永禄2年に信長が上洛して幕府陣営に繋がりができてたのかな?永禄3年当時の幕府と今川はどういう関係だったんだろう?
nagaichi 六角氏って、強いんだか弱いんだか良く分からない家だよな。幕府や細川氏にたびたび楯突いて敗亡しては再起してるし、信長にわずか2週間で滅ぼされたと思いきや、また何度も再起して。
hobbling 六角義賢って信長に負けた後も長生きして、最終的には足利義昭と一緒に秀吉の御伽衆になってるのね。
toronei こういう新しい話がどんどん出てきてるのが、いまの戦国研究なんだよなあ。
nabeteru1Q78 この話は面白いな。織田方の死者の4分の1以上が援軍というのも、援軍が本気で戦っていることを意味するかも。
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桶狭間合戦で「信長・六角」同盟が存在か : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
名古屋市の徳川美術館で開かれている特別展「天下人の城」(読売新聞社など主催)に出展された史料から... 名古屋市の徳川美術館で開かれている特別展「天下人の城」(読売新聞社など主催)に出展された史料から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人にまつわる知られざる歴史を紹介する。 1560年の桶狭間の戦いは、信長が、大軍の今川義元を倒し、天下人への足掛かりを得た戦いだ。名古屋市緑区の合戦場近くにある義元を供養する長福寺には、関連史料が多く残されている。 今回初公開されたのが「桶狭間合戦討死者書上(かきあげ)」という文書だ。江戸時代に書かれたものとみられ、今川軍はこの戦いで、今年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊直虎の父、井伊直盛ら総勢2753人が戦死したと記載されている。一方で、織田軍の戦死者も990人余りとしている。 「興味深いのは、織田軍の戦死者のうち272人が近江国(滋賀県)の大名・六角(ろっかく)氏からの援軍だったと書かれていることです」と、展覧会を担当する原史彦・学芸部長
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