2024/10/15 BGM: Brook Benton - Rainy Night in Georgia (original) (raw)

世界は村上春樹をどう読むか (文春文庫 編 7-1)

またしつこくこの話をしてしまうと、Twitter(X)にてまだ村上春樹をめぐる議論がかまびすしい(ただ、これは決してマウントを取るつもりはなくただ素朴に疑問に思うのだが、いったい彼らはそもそもどれだけ村上春樹を読み込んでいるのだろう)。ファンの1人として、ぼくは今日も議論に乗っかりそこにおいて自分の正直な意見を書きつづった。少なくとも、1つだけ気になり続けてぼくの中で違和感としてくすぶり続けていることがある。というのは、あるユーザーがその方らしい正直な(無防備な?)意見を書いておられたのだがその中で「私にとって春樹の文学は『キモい』」というようなことを取り立ててこれといった細密な論証・傍証も示さず、印象論として書いておられたことだ。「キモい」。なるほど。

どう「キモ」くて、そしてそもそもなぜ「キモい」のか。ファンとしてぼくはこれらのことを訊きたい・知りたいと思ってしまう。言葉やそれを裏打ちする論理それ自体に、ついついぼく自身の過去の思い出話を重ね合わせてしまう。当時、ぼくもまた発達障害の特性もあってか女の子たちにとくにこっぴどく「キモい」「帰れ」と罵られたりいじめられたりしたのだった。だから、まず端的に「キモい」という言葉で他人をジャッジ・裁断する身振りにトラウマが蘇ってきて「お前は何様だ」とも言いたくなる。いや、「キモい」を禁句にしろとか使うなとか言いたいのではない。逆にある種の言語化しづらい鋭く的確な感覚として「キモい」という感覚はぼくたちに有用に働きうる可能性があることをぼくは認める。その「キモい」を追及していけば生活の中にある致命的なエラーを見出すことだってありえないことではないはずだ。皮膚感覚や肉体感覚をあなどってはいけないとぼくは信じる。

しかし、そんな「キモい」は誰か異端・異物の要素を持つ人を誰か(もしくはある集団そのもの)から「エンガチョ」と排除する機能を持つことを忘れたくない。もっとわかりやすく言えば、「キモい」と言われたら立つ瀬がないというか「ノーマル」「キモくない」人たちからイヤでも切り離されて孤立させられてしまわざるをえない。だから少なくともぼくにとって、言葉を用いて言語化し続ける努力は忘れたくない。そうした「臭う」「クサい」感覚としての「キモ」さを追及し、どこからその悪寒・汚臭が立ち上ってきているのか確認したいと思ってしまうのだ。

まあ、これは単純にぼくが真面目すぎたり真剣すぎたりしているだけとも言えるんだろう。でもこの話題に関して言えば、「ユリイカ(我発見せり)」ととても大事な気づきをもらったような気もする。ぼく自身のセンスを鍛え上げて、可能な限り鋭敏に保ちそして「キモい」ものを細部まで捉えること(なぜなら単純に、ぼくはこの猜疑心・警戒心を駆使してさまざまな危機の予感をとらえる傾向があるからだ。それだけ皮膚感覚・嗅覚に頼って生きているともいう)。その後、灰色の脳細胞・思考回路が働きはじめ・分析を開始して言語化された真実としてアウトプットされるだろう。

閑話休題。夜になり、LINEの村上春樹関係のオープンチャットで村上春樹がどのようにしたら絶対的・普遍的な正解を書き記せてノーベル文学賞受賞に至れるだろうかと書き綴っておられた方がいた。それはでも、村上春樹に限らず誰にとっても不可能な荒業に違いない。誰にとっても、だ。ぼくにとっては春樹は彼の繊細でエレガントな物語を編む語り部であり、その物語の中においてキャラクターたちが成熟した大人になるために葛藤を繰り広げ「あがき」を見せ続けてきたのだった。その「あがき」にこそぼくは「等身大の人間像」を見出し、共感してきた。それこそ「物語」の真の役割・真の旨味のはずだとぼくは信じる。