かぶとむし日記 (original) (raw)

10月9日㈬。雨。
Sさん、親戚Yさんのお見舞いで半日留守。

五十嵐大(いがらし・だい)の自伝的エッセイ『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を読んだ。

映画を見て感動していたら、マー君のママさんが、コメントで、原作をご紹介くださった。

おもしろそうだぞ----さっそく読んでみる。

びっくりするほど読みやすく、遅読のわたしでもどんどん進んだ。

最初のタイトルは『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』。

が、現在は原作も映画のタイトルと同じになっている。

(わたしは電子書籍で読んだが、文庫化のさいに映画と統一したのかもしれない)

「聞こえない母」と「聞こえる息子」の関係性を描いたものだが、原作のほうが経緯はくわしい(映画には時間的な制約がある)。

しかし、逆にみると、呉美保監督は105分間のなかで、原作のポイントを的確につかんでいるとおもった。

原作の『ぼくが生きてる、ふたつの世界』でも、なんども胸が熱くなり、涙腺がゆるんだ。

映画のお母さんのやさしさに泣かされたが、そのときは少し理想化されているのではないか、とおもっていた。

しかし、本を読んだら、映画以上にやさしいお母さんで、おどろいた。

これは、小学校低学年のころの話----。

参観日の日取りを息子の「大(だい)」は、ろう者(耳が聞こえない)の母に知らせなかった。それを母が知った。

こんな手話のやりとりがある。

お母さんには来てほしくなかったから----。耳が聴こえないから、学校には来ないでほしいの。

そして作者の「大」は、こう書く。

その言葉の裏側にはさまざまな感情が潜んでいた。でも、幼いぼくには、胸の内を正確に伝えるだけの術(すべ)がなかった。

(略)

ぼくの言葉を理解した母は、とても傷ついた表情を浮かべていた。けれど、瞳を潤ませたまま「わかった」と頷き、それ以上なにも言わなかった。

映画にも描かれていた印象的なシーンだ。子どものもっている悪気のない残酷さ。母の胸中を想像すると、胸がつまってしまう。

もうひとつくらい心をゆさぶられるシーンを引用しようとおもったけど、それをただ並べると、わたしが嫌いな涙の押しつけ映画や本の紹介になってしまう。

全体を読んだら、そんなセンチメンタルな自伝ではないのに…。

聞こえない両親と聞こえる娘を描いた映画に、シアン・ヘダー監督『コーダ あいのうた』(2021年。アメリカ、フランス、カナダ合作)がある。

ろう者である両親の、通訳者の役割をしていた少女が、自分の「歌の才能」を発見し、両親から独立していく話で、心に残る映画だった。

こちらはフィクション。見どころも多いし、脇役の人物も個性的だ。アメリカ映画は、重いテーマでも、娯楽性を忘れない。

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は、それに比べると平淡かもしれない。でもわたしは、そこに作りすぎない日本映画の魅力を感じてしまう。

ああ、そうだ。今回は五十嵐大さんの原作に感動した。そのことを記録にとどめたくて、ブログをアップしたのだった。

読んでよかった。マー君のママさん、ありがとうございます!