8番らーめん!北陸ではマジで誰もが知る最強ラーメン!これ以上のラーメンがあるの?どこよりも詳しいハチバンの歴史 (original) (raw)

8番らーめん。おそらく、北陸に住む幼稚園児からじーちゃん、ばーちゃんまで知る、最強ラーメンだと断言できるでしょう。

「なんでやろ?○○○○」

○に入るのはなんでしょう?という問題を北陸の方に出せば間違いなく答えが帰ってきます。

「ハチバン」

巷では みそ派?しお派?しょうゆ派?バター風味?玄人的には辛麺?という話題だけでもおそらく1〜2時間のトークが出来る8番らーめんです。ちなみに私はみそ派ですが、先日数年ぶりに「しお」に挑戦しました。

8番らーめん味噌

今では石川県、富山県、福井県の北陸三県はもちろん、新潟県、長野県、岐阜県、愛知県、そして、京都府、岡山県にまで進出している北陸を中心とした最強勢力のラーメンチェーンです。そして、何故かタイ、香港にまで勢力を伸ばしています。北陸に来たら8番らーめん。観光コンテンツの一つになっていると行っても過言ではない。今ではそういう位置にまでなってしまった8番らーめんです。

8番らーめん エリア

この8番らーめんをより美味しく食べてもらおうということで8番らーめんを深く掘り下げていこうというのが今回の目的です。

8番らーめんの歴史

8番らーめんの名前は国道8号線が由来である。ということは多くの人が知っているところでしょう。昭和42年(1967年) 2月11日に加賀市の8号線沿いに8番らーめんをオープン。

今と変わらず、炒めた野菜をたっぷりのラーメンは評判に評判を呼び大勢の列を作ったとのことです。25席の店で一日1,300杯のラーメンを売ったとのことですので50回転以上。

8時間営業で10分間で一回転する勢いということになりますが、果たして10分でラーメンを食べきれたのかという謎はぼくには残ったわけですが。

8番らーめん後藤長司

8番らーめん創業者、ハチバン名誉会長だった「後藤 長司」は残念なことに2006年2月6日に亡くなられていました。

「後藤長司ラーメンわが人生―8番らーめん成功の秘密」という彼の人生が書かれた本があります。Wikiよりも明らかにこっちのほうが詳しく書いてあったのでちょっとこの本から8番らーめんの歴史をご紹介します。

※ 画像:「後藤長司ラーメンわが人生―8番らーめん成功の秘密」より

8番らーめんのはじまり

8番らーめん 長司若き頃

「後藤 長司」は昭和七年山代温泉に捨次郎、夏子の間に長男として生まれる。長司は7人兄妹の長男として六人を世話する立場だった。この「長司」の名前は商売繁盛などを願って改名したものでもとは「長太郎」であった。

長司の父、捨次郎は何度も事業に挑戦し、ドライブ客を狙ったコーヒーショップ「湯香」をオープンさせた。ちょうどその頃はインスタントラーメンブームで年間三十三億食が消費される時代であった。その時に長司はそれほどラーメンが人気なら専門店を作ったら売れるだろうと感じた。そこでラーメン専門店を調査した所、加賀、小松、金沢ではなんと金沢駅前に1店舗だけ。これは売れると直感が走ったという。

※ 画像:保育園時代 左から2人目が長司「後藤長司ラーメンわが人生―8番らーめん成功の秘密」より

アドバイザーは芝寿し創設者「梶谷 忠司」

芝寿し創業者梶谷忠司

その時に長司が相談を持ちかけたのが今でも金沢で誰もが知る「芝寿し」の創業者「梶谷 忠司」であった。大阪生まれの彼のアドバイスはこうだった「ラーメンやるんだったら、野菜サラダをドッキングさせたラーメンが良いのではないか。そうすれば付加価値のついたラーメンになる。これからはどうやって商品に付加価値をつけるかが大事やで。」

続けて梶谷はこうアドバイスした。「後藤はん。私の知人に青森でラーメン屋をやってる高野 助政という男がおります。私が紹介しますから教えてもろたらいい。」そのアドバイスで長司は青森へ向かった。青森では高野は親子2人ででラーメン屋を営んでいた。長司の手の内隠さない性格もあってだろう、何年もかかって追求してきた高野のラーメンのレシピを惜しげも無く教えてくれた。そのレシピを持って仙台、東京でラーメンリサーチをした長司は石川に戻り早速ラーメンの開発に取り掛かった。

当時営業していたコーヒーショップ「湯香」の常連客の反応はラーメン開発には最適であった。そして、研究を重ねたラーメンは昭和42年 1967年2月11日に現在の8番らーめん本店の場所にオープンした。当時は「湯香」の隣に20坪足らずの狭い場所での店構えだった。

※ 画像「芝寿し創業者梶谷忠司追悼集「創造と挑戦の人生」」より

オープン15日後の休店

オープンすぐに客から「カラすぎる」「しょっぱすぎる」「くどすぎる」と苦情が多々出た。そこで、オープンわずか15日後に長司はラーメン改造のために店を休店する。思い切った決断だ。業界未経験だったからこそ出来たことだ。プライドも何もなかったからだと彼は述べている。

この時の休業でのラーメン改造が8番らーめんの将来を決定づける。この休業後の8番らーめんの人気はとんでもない繁盛店となる。当時は一杯100円。ちなみに当時のラーメンの相場は70円ほど。味は今と変わらず、味噌、塩、醤油、バターラーメン。餃子はメニューには無かった。

このラーメンが1日なんと1,300杯、1日52回転を超える大繁盛店となったのである。口コミがすべての原動力だったと本には書いてあった。8号線という場所がもしかしたらよかったのかもしれないし、8番らーめん=8号線というイメージも良かったのかもしれない。もうすこし、「なぜ8番らーめんが広まったのか」探っても良いかもしれない。

8番らーめん歴史
※ 左:8番らーめんチェーン展開を始めた頃37歳の長司 右:本店改装オープン(昭和46年ごろ) 「後藤長司ラーメンわが人生―8番らーめん成功の秘密」より

8番らーめんフランチャイズ

大繁盛店となった8番らーめんには暖簾分けの依頼が次々と来た。長司はアメリカで話題になっていたマクドナルドのフランチャイズの記事を目にしたことがきっかけで8番らーめんのフランチャイズに乗り出す事となる。オープンと同じ年、昭和42年であるからそのスピードは驚きである。

このフランチャイズも結果として大繁盛することとなる。第一号店は8番らーめん松任店であると書かれていた。今も残っているあの場所だろうか?

この8番らーめんのフランチャイズの長司の経験は、あのダスキンが日本でミスタードーナッツを展開する際に活かされることになるから驚きである。ミスタードーナッツフランチャイズ第一号店の大阪ではアドバイザー長司が直接出向いている(昭和46年1971年4月)。8番らーめんの経験が少しでもミスタードーナッツに生かされていると思うとなんだか不思議な気持ちになります。

その後、8番らーめんはファミリー層を取り囲むために方向転換する転機の「泉が丘店」。泉ヶ丘店は直営だったと書いてある。今もそうなのだろうか?そして、8番らーめんの危機とも言える食中毒事件。この食中毒で3億近くの借金を抱えたと書いてあった。紆余曲折しながら8番らーめんの株式店頭公開、タイ出店、中国出店。快進撃の続く中、2006年に残念なことに長司は永眠することとなる。

そして、皆さんが知る「なんでやろ8番」の現在の8番らーめんに至るのである。

そう。気になってません?なぜ8番がタイに?

タイ出店には心あたたまる熱い思いのあるタイ人の話があるので後ほどゆっくりと紹介します。

定番の8番らーめんのメニュー紹介

歴史はちょっとおいておきまして、ここでちょっと8番らーめんの定番ラーメンのご紹介。私のいつもの注文は「野菜らーめん味噌野菜増し」です。ちなみにラー油をラーメンに入れる派です。皆さんの定番の注文は何ですか?

野菜らーめん,小さな野菜らーめん

8番らーめん 野菜らーめん

王道です。この味の種類のどれを選ぶかが論議の対象になります。味噌・塩・醤油・とんこつ・バター風味。私は味噌派なのですがさて?あなたは?

小さな野菜らーめんは麺の量半分、野菜の量は同じというヘルシー志向のラーメンです。さらに、このちいさな野菜ラーメンに野菜増し!というヘルシーの頂点的な注文もあります。

野菜こく旨らーめん

8番らーめん コクうまラーメン

「濃厚なとんこつスープに、小豆島産本醸造醤油と、香り高いマー油が生み出す深い味。」というコメントがあります。私はあまり食べなのいのですがちょっと濃い目のコクありラーメンという感じです。野菜らーめんみたいな子供ラーメンとは違う!野菜らーめんよりも最先端ラーメンに近い!というラーメンです(謎)

8番のギョーザ

8番らーめん 餃子

いつからか、8番のギョーザは旨いぞ。そういう声をよく聞きます。ニラ臭くない、にんにく臭くない。あれ?餃子としてはアイデンティティ失っているではないですか?そう思ったりしたこともありましたが、ジャパナイズされた美味しさということでどこか腑に落ちている私です。

8番らーめんとタイの謎

8番らーめんとタイの関係についても書いておかなければなりません。タイへの出展第一号は平成4年4月にタイの首都バンコクに海外第1号店「8番らーめんシーロムコンプレックス店」を開店から始まります。

今ではタイ国内でなんと!100店舗を超えタイへ旅行へ行くと当たり前のように8番らーめんを目にして驚きます。

8番らーめん タイ 外観

タイナム・シン社のオーナー「パイサル・リン」

8番らーめん パイサル・リン

この出店のきっかけはバンコクで繊維会社 タイナム・シン社のオーナー「パイサル・リン」という方からの熱烈すぎるラブコールが始まりです。彼が福井の鯖江市で8番らーめんと出会ったことがきっかけとされています。

鯖江市には、鯖江東店、鯖江店、神明店の3店がありましたが一体どの店なんでしょうか。気になるところです。パイサルさんは新しい事業として外食産業を考えていたらしく、この8番との出合いでタイでの出店を思いついたとのことです。「8番らーめんのおいしさが、忘れられない。タイの人にも必ず受け入れられる」そうラブコールを受けた8番の方が困惑したそうで断るしか無かったというのが実際だったそうです。

※ 画像:「タイ100店舗感謝フェア タイ旅行プレゼント」キャンペーンより

パイサル・リンの「熱烈ラブコール」

一度断ったパイサルのラブコールですが、その熱烈ぶりは尋常ではなく。ある日、タイから日本からタイの往復航空チケットがパイサルさんから送られてきて、さらにタイでの滞在費はすべて私たちが持つとのラブコールが来た。それに応じた8番らーめんはパイサルさんに会いに行ったのだが、やはりタイ出店への判断は「ノー」であった。その理由は物価の低さであった。タイ式のラーメン「バーミー」の価格は10バーツ、日本円で30円ほど。

それでもパイサルさんは譲らなかった。

何度も何度ものラブコールに8番側はそれに答え再びタイに向かった。その時、タイでフランチャイズで成功をおさめていたミスタードーナッツ、歴史のところで前途したように8番とミスタードーナッツとは深いつながりがあってタイの市場、可能性について情報交換の後、中流階級が増えるという予想からタイの可能性にかけることになった8番らーめん。パイサルさんの熱意に折れたというのも本音かもしれない。

タイ出店への4つの条件、そしてタイ出店へ

その際に基本条件となったのは

1.日本の8番らーめんの味をそのまま展開すること
2.名称は8番らーめんの名前をそのまま利用すること
3.ターゲットはタイ人であり、バンコクの日本のビジネスマンではないということ
4.麺とギョウザを現地製造しスーパーや業務用にも販売する

という点を条件とした。

熱意の塊であったパイサルさんが最後までこだわったのは名称についてだ。今ではすでに根付いてしまいタイの方は「ハチバンラーメン」と日本の名称で発音してくれますが、最後までパイサルさんはタイの言葉にこだわっていたのである。私にもタイ人の親友がタイに居るので誇り高いタイ人の気持ちが分かる気がしたのです。それでも、8番をタイに出したい。パイサルさんの熱意が痛いくらいに私には伝わって来ました。

そして、ついに1992年4月にタイの第一号店がオープンすることになったのです。この第一号店、シーロムコンプレックス店はバンコク最大のメインストリートに面する32階建の複合ビルの地下であるとのこと。

8番らーめんタイの歴史

タイの8番らーめんは現在、パイサルさんの3人の息子が中心となってチェーン展開を続けているとのことです。

タイの8番らーめんのメニューは独特で「トムヤムクンラーメン」こちらはタイでの出店100店舗超記念の際に国内でも発売されていました。

8番らーめん タイ トムヤムクンらーめん

そして「ハチカマのみ」の不思議なメニュー。これは日本では見かけたことはありません。

8番らーめん タイ ハチカマだけのメニュー

↑ 私はこちらのハチカマのみメニューをタイで食べてきました。

さいごに

Wikipediaにも載っていないような深い8番らーめんの歴史、いかがだったでしょうか。個人的にはパイサルさんのタイの話がやはり忘れられないくらいこころの深いところに刺さりました。こんなに8番らーめんに愛と愛しさをもってくれる方がいたというだけでも8番らーめんは幸せです。

彼がタイに8番らーめんを出したい。その尋常を超えるくらいの熱烈ラブコール。私は8番を大きく世界に出したのはこのパイサル・リンの熱意にほかならないと思います。

もしかしたらちょっとキツイことを言うかもしれないが、8番らーめんがこれから更に大きくなるには「待っているだけ」ダメな時代だろう。運良くパイサル・リンという素晴らしい人が現れ世界に8番は出ることが出来た。今後は自ら「パイサル・リン」を育て大きくなるしか無いだろうと私は思っている。欧州、米国で8番らーめんは席巻して欲しい。NY第一号店ができれば是非とも取材したい。そう願って止みません。

この北陸のソウルフードを広められるの数少ないプレイヤーとして世界に向けて戦って欲しい。
北陸のソウルフード、8番らーめん、今後の活躍に期待したい!

8番らーめん味噌

8番らーめんの歴史(詳細引用)

昭和42年〜

平成元年〜