マイ新書論:新書について語る (original) (raw)

皆さーーーーーん

新書読んでますか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は読んでます。今日は新書の話です。

新書論

この頃、新書を読んで感想を投稿するということをしばしば行っています。

↑前回の投稿

で、その際に、「新書の割にかなり詳しく書かれている」とか、「新書とはいえ、もう少し専門的に論じてほしい」といったことを度々書いています。まるで新書の評論家ですね。

お前が新書の何を知っているというのか。。。

お前が新書の何を知っているというのか!!!!!!

今日はテンション高めです。

というわけで、今回は自分なりの「新書論」を語ってみたいと思います。新書とは何で、それを読むときに何を期待するのか、という話です。これをやって初めて、「新書にしては〇〇だ」とかの評価が可能になるはずです。新書というジャンルを手に取る時、そこに何を求めるのでしょうか。

で、こういった「新書論」、ちょっと調べてみたんですが、あまりネット上では語られてない印象です。これには検索の難しさもあって、「新書 とは」で検索しても、『〇〇とは何か』というタイトルの新書ばかりがヒットして、新書そのものを扱った文献にたどり着けないという問題があります。ただそれを差し置いても、いろいろ工夫しても見つけられないので、「新書論」は現状あまり語られていないのではないかと思います。Twitterで"新書論"と検索してもあまり出てこないしね。

そんなわけで、今日は僭越ながらも僕が新書というものを語ってやろうと思います。今日語りたいのは以下の3つです。

これには全体を通して、「新書に何を求めるか」という問題意識が横たわっています。そのうえで、上記3つに対して自分なりの回答を出していきます。。

*ちなみにですが、僕は出版関係者でも編集者でも、評論家や読書の専門家でもなんでもなく、「年に20冊新書を読むかどうか」のクソ雑魚ナメクジ最下級呪霊です。ので、なんとなくで読んでもらえると幸いです。

一応、先に結論を述べると、新書というのは「何らかの専門的内容を、一般読者にわかりやすく伝えようとする本(かつサイズ縦長)」で、よい新書・そうでない新書というのは、「読者を無知で教育されるべき存在とみなすか、あるいは読者も知識を持っていると仮定して、その経験知や体験知に沿った説明をするか」というところに表れると考えています(後者がよい新書)。

ここから先はこの結論を言い直すだけなんですが、新書の歴史を辿ったりよくわからん図を作成したりもしているので、よければ読んでいってもらえると幸いです。

そもそも新書とは

まず新書とは何かという話ですが、これは結構難しい問題ですよね。

新書の定義については、辞書的な定義の他に、「新書を自称している本」とすることも可能だとは思います。何も本質的な定義ではないんですが、Wikipedia新書のレーベル一覧によると現在新書は81種類もあるようで、いかに新書というものが多様であるかがわかります。ので、それをひとつの定義でまとめることは難しく、とりあえず「自称してれば新書」とするのもありっちゃありかなと思います。

でもそうすると、最初に新書を自称したのは誰なのか? というのが気になります。いつ・どこで新書というものが誕生したのでしょうか。その歴史を追ってみます。

新書の歴史

新書はいつ、どのように誕生したのでしょうか。そもそもなぜ「新書」なんて名前がついているんでしょうか? 気になりますねー。

これについて、新書の始祖は**岩波新書**です。岩波書店が"新書"というジャンルの本を新たに創設したことで、この世界に新書というものが生まれました。すごい。ちなみに1938年のことです。

岩波新書の歴史―付・総目録1938‾2006 (岩波新書)

このあたりのことは、**鹿野政直岩波新書の歴史』(2006,岩波新書)**に書いてありました。序章に詳しく書いてあります。この本面白かったので、以下、この本をもとに新書の誕生を紹介します。

岩波新書は、1938年に第一刊が創刊されました。ここで初めて「新書」というものが生まれます。

発行元の岩波書店は、1927年には既に、みんな大好き「岩波文庫」を創刊していました。岩波文庫といえば、古典ですね。岩波文庫の創刊の辞を読むと、その目指すところとして、「いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行」することが挙げられています。古典を簡単に読めるようにすっぞってことですね。このように岩波書店には、既に岩波文庫の「古典」という強いジャンルがありました。

ただ、その岩波文庫から10年後、岩波書店「現代人の現代的教養」を目指し、新たなジャンルを創設していきます(本書4-12頁)。これは1930年代当時、岩波書店の創業者である岩波茂雄が、侵略戦争に進んでいく日本の姿を憂いて、現代人にはもっと教養が必要だと考えてのことだそうです。そうした「現代人の現代的教養」を目指して生まれたのが岩波新書でした。

ここに「新書」という名前の由来が見て取れますね。岩波書店がこれまで得意としてきた「古」典に対して、現代を生きるための「新」しい書が必要になったと。これがまさに新書の誕生というわけです。

付け加えると、この「新書」という形式は岩波茂雄が一から作ったわけではなく、これはイギリスのペリカン・ブックスに倣ったとのことです。

ペリカン・ブックス。新書と同じく縦長。

ペリカン・ブックスは、縦長のコンパクトサイズで、社会科学・自然科学を扱った大衆向けの本となっておりました。本書から引用すると、その内容は「各分野の専門家が、素人である読者に向かって、自分の専門に属することをわかり易く語るという、いわば啓蒙的な著作の集まりになっていた」とのこと。岩波茂雄はこれに着目したらしいです(15頁)。

で、この「各分野の専門家が......」というくだりは、僕が持っている新書のイメージにもぴったり合致します。「新書とは何か」ということを考える際に、この一文はかなりピントのあった説明になっているのではないでしょうか。

こうした新たな教養書に、岩波書店だけでなく他の出版社も着目していきます。後追いで似たものを発行していくわけですが、既に岩波によって「新書」というジャンルが命名されていたので、各社も「〇〇新書」という名前で売り出していったそう。このようにして新書が普及していったという話になります。

こうして考えると、新書とは何かという問題に対して、3つの視点から説明ができると思います。

ひとつは当然サイズですね。ペリカン・ブックスを参考にしたように、新書は独特な縦長サイズとなっています(日本だと基本横10.5×縦17.3cm)。この文庫との違い、そして学術書などのハードカバーとの違いは、新書の定義の一つに入れてよいかもしれません。

次に内容面ですが、何らかの専門性を備えているというのが新書の要素だと思います。新書がエッセイと異なるのは、筆者の体験や思いを語るだけではなく、何かしらの専門的な内容を含んでいる点にあるのではないでしょうか。実際、「新書」と名の付く本は星の数あれど、どれもなんらかの専門的内容を扱っているはず。

3つ目に、わかりやすさです。専門的内容を扱うだけなら、学術書や教科書でもできるわけで、それらと新書を区別する要素が「わかりやすく」書かれていることだと思います。まぁ実際には難解な内容になっているのも多いですが、「原則として」わかりやすく書かねばならないという思想が、新書の根底にはあるはず。持ち運びやすいサイズと相まって、あくまで一般向けであるところに、新書の特徴があるはずです。創刊者の岩波茂雄も、電車での通勤時とかに読まれることを想定していたらしいっすからね。

そんなわけで、新書とは何かということについては、①縦長コンパクトサイズで、②専門性を含む内容を、③わかりやすく伝えることを目指した本ということにしてみました。小説でもエッセイでも教科書でも専門書でもない「新しい書」、それが新書だったわけですね。ただし、実態はかなり多様だから「新書とは新書を自称している本だ」という定義も、ありっちゃありではないかないかとは思います。この定義への未練がすごい。

わかりやすさという問題

岩波新書の歴史』に戻りますが、上述のように、新書には発刊当時から、「人々を教養へと誘う」「教養への道案内となる」という思想がありました。そこでは当然、何かを専門に学んでいる者からそうでない者へ、それを「わかりやすく」伝えることが求められます。

ただ、この「わかりやすさ」という点について、本書ではひとつ懸念が挙げられています。これが非常に面白く、新書を考える上でキーとなりそうなポイントなので、少し長いですが引用します。

出版文化のうえで岩波新書が、「大衆」と「啓蒙的良書」との出会いの機会を飛躍的に高めたことは、疑いの余地がない。同時にその出会いが、送り手から受け手へのほとんど一方交通的であったこともまた、疑いを入れない。〔中略〕「啓蒙」する者としての自意識は、相手を「啓蒙」される者との境域に押しつけずにはいない。書く側を構成することになる知的エリート(の多く)と、読む側を構成する「大衆」とみなされる存在とのあいだには、その意味での隔絶があった。(23頁、太字は引用者)

ここでは、書き手を「エリート」、読み手を「啓蒙されるべき無知」として、上から目線的に知識が伝えられることが懸念されています。

続く文章も引用します。

そのことは、叙述のかたちという問題にも連関する。本の性格上、新書は「やさしく」また「わかりやすく」書くことを求められる。だが、「やさしく」また「わかりやすく」書くとは、どういうことか。その問題は、「いかに」そうするかという技術的な次元に収斂されがちだが、書く主体として、そもそもそのように文体を場合に応じて変えられるのかどうか。変えられるとして、「やさしく」書く場合、想定する読者への視線に何らかの変化が生じないだろうか。新書の誕生は、おそらくそのような文体の問題をも提起した。(23,4頁、太字は引用者)

新書というわかりやすく書くことが求められるジャンルが生まれたことで、それをどう書くかという技術的な問題だけでなく、「読者をどのように想定するか」という、読者像の問題が生まれたことが指摘されています。

確かに「わかりやすい」という感覚は、読者が受け取って初めて生まれるもののはず。だから筆者としては、自分の好きなように書くのではなく、「読者にとってどうか?」というのを考えなければならなくなったということだと思います。小説やエッセイであれば、自分の感じたことを書けばいいっちゃいいし、専門書であれば読者は同じ研究者仲間であることが多いから、あえて「やさしく」書く必要性も薄いです。新書というジャンルだからこそ、「読者をどのように想定するか?」という問題が、常にセットになって生まれたということになりそうです。これは非常に面白いポイントですね。

新書の類型化

以上で、新書とは何かというのを見てきましたが、上記の定義はかなり薄ーいもので、新書の多様性や現実を考慮できていないとも思います。実際の新書はかなり多様で、その多様性にも目を向けたいなーというところ。

先ほどの岩波新書の創刊の辞では、「現代人の現代的教養」ということが言われていました。しかし新書には、教養すなわち知識を授けるというよりは、「問題意識を世に発する」というタイプのものもかなりあると思います。

妻に稼がれる夫のジレンマ ――共働き夫婦の性別役割意識をめぐって (ちくま新書)

僕が直近で読んだ本だと、『妻に稼がれる夫のジレンマ』ちくま新書)がそんな感じでした。本書は修士論文を出版したもので、専門的内容がわかりやすく書かれていることは間違いないです。ただ、筆者がこの本を書いた狙いは、「読者に教養をつけてもらおう」とかではなくて、「もっと自分の問題意識を世に知らしめたい」というものだったかと思います。

ので、言ってしまえば、厳密に内容が正しいかどうかは、そこまで問題では無いはず(そもそも修士論文だしね)。そういった内容的正しさよりも、「〇〇という問題がこの社会にはある」というのを強く提起できるのが、新書の強みだと感じます。このタイプの新書は、学術的な内容でありながら、読む手の姿勢としてはどちらかというとエッセイぽいですね。筆者の問題意識を何より感じたいので。

もちろん反対に、ガチガチに知識を授ける系の新書もあります。ここ最近手に取った中では、ちくま新書『労働法はフリーランスを守れるか』がそうでした。この本、手に取ったはいいんですが、内容があまりに教科書チックすぎて、途中で挫折してしまいました(すみません)。やってることはほぼ学説の解説という感じです。

言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書)

これのもうちょっとライトなところで言うと、今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』や、千葉雅也『現代思想入門』などがあるかと思います。これらは、内容は専門的なものになってはいますが、ゴリゴリに学説の紹介をするとかではなく、ほどよく話題をかみ砕いて提供してくれています。学術書というほど難しくはないが、エッセイよりは全然知の伝達を目的にしています。

で、常々感じていたことなのですが、新書にはこのように、「教養を授けるタイプ」と「問題意識を世に問うタイプ」の2種類があるんじゃなかろうか。教養を授けるタイプも、何らかの問題意識に基づいていたりしますが、その問題意識を伝えることよりは、まず正しく議論を整理したり、学説をまとめることに主眼があるかと思います。対して問題意識先行タイプは、ひとまず学説紹介の厳密性は置いといて、とにかく筆者の主張を世に問うことが重視されているように思います。両者がくっきり分かれるわけではないですが、そのような軸を持って新書を眺めてみることも可能ではということが言いたいです。

もう一つ、新書には、著者がバリバリ研究者の場合と、そうでない場合があります。この著者の属性によっても結構新書の色が変わると思っているので、個人的には重視している一要素です。その分野で何冊も専門書を出しているような研究者が、一般向けにわかりやすく新書を書いたというものもあれば、ジャーナリストや評論家が、自身の調べた範囲で情報をまとめた系の新書もあります。この「著者のアカデミック性/非アカデミック性」というのも、新書を分類するうえでの一つの軸になるのではないでしょうか。どうでしょうか。どうなんだ??

そんなわけで、4象限を作ってみました(唐突)。横軸が教養重視or問題意識先行かで、縦軸が著者のアカデミック性or非アカデミック性となってます。どうでしょうか。

実際は個々の新書を当てはめて判断する用なのですが、とりあえず出版社ごとに埋めてみました。これ自体は15分ぐらいで作成したので、異論は全然受け付けます。あくまで「浅ぱちゃVer 1.0.0」ということで、多めに見てもらえれば...... かなり個人的な印象に基づいています。

逆に、どんな象限で分けられるか、あるいはこの象限で出版社を分けるとしたらどうなるか、皆さんも考えてみましょう。

で、この区分けに何の意味があるのかというと、自分の好みを可視化できるのではないかというのがあります。例えば僕の場合は、教養系が好きだけれど、あまり難しすぎるのもあれという立場なので、「講談社現代新書」「ちくま新書」あたりが好みになります。逆に問題意識先行型はあんまり好きじゃないので、最近の集英社新書ちくまプリマー新書あたりはイマイチに感じています。光文社新書平凡社新書あたりがちょうどいいときもあるし、岩波・中公を強く欲するときもあります。

だいぶやっつけのマトリクスにはなりますが、こういう視点で新書を分類してみると面白いんじゃないでしょうか〜〜〜というのが言いたかったことです。

ameblo.jp

ちょっと調べたところ、新書を4象限で分類しているブログが他にもありました。ここでは「あっさり/こってり」「知識欲/金銭欲」で分ける案が取り上げられています(金銭欲て)。僕の4象限では、右下の「教養重視」「評論家」のところが「金銭欲」と置き換え可能かもしれません。まあ新書っていろいろあるからね。

分類についてはそんな感じです。

どうわかりやすくするのか

教養を伝えるにしろ、問題意識を訴えるにしろ、それを「読者にとってわかりやすい文体で書くこと」が新書には求められるという話でした。

これが今日一番論争的な内容になるかもしれませんが、この文体も、2パターンに分けられると思っています。1つが、読者を無知な存在とみなすような文体。つまりは、読者を知識が欠如した空っぽな器のように仮定して、そこに筆者が知識を注いでいくようなイメージですね。

もう一つが、読者を空の器ではなく、何らかの固有の知識を持っている存在とみなすような文体です。読者には専門的知識はないかもしれないが、日々の体験の中で「なぜかは知らないが、これはこういう風になっている」というような「経験知」は持っているかもしれません。この場合、読者は空っぽな器なのではなく、その人に即した文脈で知識を持っているのだと言えます。そうすると書き手側には、単に器に知識を注ぐことではなく、読者自身が持っている知識を、うまく専門的知識を繋げることが目指されるはずです。

先ほどの『岩波新書の歴史』でも「読者をどのような存在と想定するか」という問題が挙げられていました。一つに読者を無知な存在(啓蒙対象)とみなす見方、もう一つに、読者にも何らかの知識があり、単なる啓蒙対象ではないとみなす見方があるかと思います。

科学コミュニケーション論 新装版

で、知ってる人は知ってるよとなったかもしれませんが、僕はここで、科学技術コミュニケーションにおける「欠如モデル」「文脈モデル」を念頭に置いてます。最近読んだのでちょうど使えるなーと思って。

少し脱線しますが、科学技術コミュニケーションという分野があります。ここでは、専門家である科学者が、非専門家である市民・大衆に対して、いかに科学技術の安全性・危険性や有効性を伝えていくか、というのが主題になっています。例えば原発などですね。

で、最初期の科学技術コミュニケーションでは、「欠如モデル」という理解にしたがってこれが行われていました。これは市民や大衆を、「科学の知識を何も持ってない無知な存在」と見なして、彼らに正しい科学知識を教えてやれば、市民も科学的に正しい判断ができるようになる..... とするような考え方です。

この欠如モデルは批判されることが多いのですが、その問題点は、専門家から非専門家への一方通行性にあります。まず、市民は単に知識を注がれるだけの器なのか? そうではなく、市民も知りたいことは自分で調べるし、興味のあることは自ら探求するような自主性があります。欠如モデルはこれを無視しており、「専門家が教えれば市民の無知が解消される」というような、ある種の上から目線に基づいています。

これに反対して生まれてきたのが、「文脈モデル」です。市民には彼ら自身の関心があるのだから、その文脈に沿って情報を伝達することが大切だ、というのがこの発想になります。興味のないことを延々と言われても理解は深まらないし、彼らのニーズや状況に注意を払いつつ知識を伝えることが大事だということですね。

僕がここで言いたいのは、新書においてもこれは同様ではないかということです。「わかりやすく」しようとするときに、読者を全くの無知と想定して、そこに知識を注ぎ込むようなスタイルを取っている新書も、あるっちゃありますよね。こういった新書は、やけに上から目線であったり、必要以上に教科書的であったりと、個人的にはよくない新書だと思っています。読んでてあまり楽しくないしね。

反対に、できるだけ読者の関心に合わせたり、その文脈に沿おうとしてることが分かる新書もあります。例えば、先ほど挙げた『言語の本質』では、教科書的に言語学を解説するのではなく、ところどころ「読者の皆さんもこういうの不思議に思いませんか~」というすり寄りがなされていました。また、千葉雅也『現代思想入門』でも、単に哲学の講義をするのではなく、現代を生きる我々の目線に沿って解説がされていたと思います(まあ僕全部は読んでないんですが)。どちらもほどよく読者の文脈が活用されていて、わかりやすくかつ面白い内容になっていると思います(さすが新書大賞)。

で、先ほど4象限を書きましたが、じゃあ教養重視型なら欠如モデルの傾向が強くて、問題意識先行型なら文脈モデルになりがちなのかというと、、、そうとも言えないですね(じゃあなんのための4象限なんだ)。これも個人的意見になりますが、例えばちくまプリマー新書は、中高生が読者層として想定されていますが、読んでいるとかなり「教えてやろう」的な空気感を感じます。「中高生の君たちに先生が教えてあげるよ」的な。

逆に中公・岩波新書では、読者の皆さんはこれぐらい知ってるよね〜〜と言わんばかりに、やたら内容が難解なのも多々あるなと感じています。これはこれでハードでよいとも思いますが、もうちょっとこちら側にすり寄ってほしいと感じることもしばしば。ので、4象限のどこにあるかに拘わらず、ちょうどいい具合に読者の文脈を活用できるかというのが、個人的な新書のポイントです。

まとめると、新書には「専門的な内容を一般向けに伝える」という特性がある以上、新書が面白くあるためには、ある程度読者の知識の文脈に沿うことが必要であるのでは!? というのが僕の見解です。これがマイ新書論や!!!!!

面白い新書とは、専門的な内容を解説しつつ、それを一方通行的に「教える」のではなく、ほどよくこちらの日常知や経験知と繋げてくれるような新書である。

というのはどうでしょうか。どうなんでしょうか......

どうなんでしょうか

そうはいってみたものの、どこまでが欠如モデルで、どこからが文脈モデルかというのは、そうはっきりと決まらない問題だとは思います。それに、新書にゴリゴリ専門的・教科書的内容を求める層も一定数いる気がする。。。そんなわけで、これはあくまで僕の新書論になります。「僕が新書を論じるときはこういう点を重視している」という話になるので、皆さんもぜひ、自分の新書論を語ってみてはいかがでしょうか。

今回、一万字近く書いたんですが、実は新書についてはもっと語りたいことがたくさんあります。最近は老いをネタにした新書が多すぎとか、集英社新書があまりに新自由主義批判に寄りすぎとか、新書はほかの本と違って出版すれば内容がアレでも本屋や図書館においてもらえる(新書コーナーが設けられてるから、専門書と違ってほぼ確実に本屋・図書館に買ってもらえる)から怠慢が働いているのではという話とか、いろいろ書きたいことは多いです。ただまあ、それはまたいずれということで。

今日は久しぶりの更新になりましたが、新書について日頃から語りたいことを語れてよかったです。こういうところから各自の「新書論」が活発になっていくといいですね。いいよなあ。君もぜひ語ってみてくれ。それでは!!

— あいだた (@dadadada_tatata) September 29, 2024